学位論文要旨



No 114970
著者(漢字) 羽原,秀太
著者(英字)
著者(カナ) ハバラ,ヒデタ
標題(和) マイクロ波分光によるイオウを含むフリーラジカルの分子構造の研究
標題(洋) Molecular Structures of Sulfur-bearing Free Radicals As Studied by Microwave Spectroscopy
報告番号 114970
報告番号 甲14970
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3734号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 教授 桑島,邦博
 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 山内,薫
内容要旨

 フリーラジカルとは不対電子を1つ持つ分子と定義される。物質が化学反応を起こしている途中での、短寿命の反応中間体の多くはフリーラジカルと考えられている。この論文ではHCS,HSC,H2NS,そしてCH3CCSというイオウを含むフリーラジカルのマイクロ波分光による研究について述べる。フリーラジカルという概念自体は古く19世紀から存在しているが、フリーラジカルを分光学的に研究するようになったのは1920年頃からである。フリーラジカルは不安定で短寿命な分子であるのでそのスペクトル研究は難しく、いまだに基本的なフリーラジカルでもそのスペクトルが充分解析できずに、実験から正確な分子構造が得られていないものもある。

 マイクロ波分光をはじめとするフリーラジカルの高分解能分光による研究には、大きくいって2つの意味があると考えている。一つ目はその分子について、分光研究そのものから情報を得られるということである。分子の回転スペクトルを解析することによって、その分子の慣性モーメントの情報が得られ、構成原子の数があまり多くない分子についてはその構造を正確に求めることができる。また、フリーラジカルの場合、不対電子の持つ軌道角運動量やスピンが、他の原子核スピンや、回転角運動量と相互作用することにより、スペクトル線の微細、超微細構造分裂をひき起こす。これらを解析することにより、通常の安定分子よりはるかに多くの情報を得ることができる。

 高分解能分光研究のもう一つの重要な意味は、その応用にある。分子のスペクトルは人間における指紋のように、それぞれの分子で固有のパターンをもつので、ある分子のスペクトル線をある系で観測することは、その系でその分子が存在していることを意味する。このことを使って大気化学や電波天文学など幅広い他の分野で分光学の結果が応用されている。とくに、宇宙のような密度と温度の低いところでは、フリーラジカルは衝突が少ないために安定して存在することができる。そのため、意外にも炭素鎖分子など多くのフリーラジカルが宇宙で検出されている。

 イオウは周期律表で6B族の酸素の下にあたるので、イオウを含む分子は、同じく酸素を含む分子と比較して議論することには意味がある。酸素、炭素、窒素、水素は種類豊かな有機物質を構成する重要な構成元素であるが、その多様性をつくり出しているのはこれらの元素が2s2p軌道を使った混成軌道をとることであると考えられる。一方、イオウの最外殻電子は3s3pであるので、酸素の場合とはわずかに結合の距離や角度が異なる。私は分子構造の観点から、イオウを含むフリーラジカルと、対応する酸素を含むフリーラジカルの違いに興味を持ち、研究を行った。この研究で取り上げたフリーラジカルは、H2NSをのぞいていずれも高分解能分光の研究がどの波長領域においても行なわれていなかったものであり、本研究において初めて確実に検出されたものである。

 実験には2台の分光装置をもちいた。一つは光源変調型ミリ波サブミリ波分光計であり、周波数60-500GHzの領域で測定が行えるものである。フリーラジカルの生成は2メートルの吸収セル内で試料ガスを放電させることによっておこなう。もう一方は、フーリエ変換型ミリ波分光計であり、本研究において開発したものである。この装置が測定できる周波数領域は8-52GHzである。フリーラジカルは放電ノズルを通して分子線ジェットの状態で生成させる。

(1)HCSラジカル

 HCSラジカルのX2A’基底状態の101-000回転遷移をパルス放電ノズルを取り付けたフーリエ変換ミリ波分光計で観測した(Figure 0.1)。HCSラジカルはメタンと硫化水素の混合ガスをアルゴン中に希釈し、それを放電させることによって生成し、6本の微細・超微細構造分裂を検出した。同様にDCSおよびH13CSの101-000回転遷移も測定した。さらにそれらの結果に基づき、光源変調型分光計を用いて、HCS、DCSのサブミリ波領域の遷移を測定した。これらのデータを解析して、超微細構造定数を含む分子定数を精度良く決定した。その結果、水素核のフェルミ項はHCOラジカルの値よりもかなり小さいことを見出した。このことからHCSラジカルはHCOラジカルよりも直線形に近い構造をとっており、擬直線分子であることを示した。

(2)HSCラジカル

 HSCラジカルは、HCSラジカルの構造異性体である。このHSCラジカルをマイクロ波分光によってはじめて検出した。HSCラジカルは、硫化水素と一酸化炭素を放電させることで生成し、その回転スペクトルを光源変調型分光計と、フーリエ変換ミリ波分光計で測定した(Figure 0.2)。重水素置換体のDSCラジカルについても光源変調型分光計で測定した。HSC、DSCについて回転定数、遠心力歪み定数、スピン回転相互作用定数を最小自乗法で決定した。さらにHSCについては超微細構造定数も決定した。水素核のフェルミ項は大きな正の値(289MHz)となり、このことはHSCラジカルの基底電子状態がラジカルであることを示している。HSC,DSCの回転定数からゼロ点振動平均構造をrz(H-S)=1.390(3)Å,rz(S-C)=1.6403(5)Å,z(HSC)=104.2(2)°と決定した(誤差は3)。

図表Figure 0.1:FTMW分光計で測定したHCSラジカルのスペクトル / Figure 0.2:光源変調型分光計で測定したHSCラジカルのスペクトル
(3)H2NS

 H2NSはX2B1の基底電子状態をもつフリーラジカルであり、その分子構造の平面性について興味が持たれていた。そこでH2NS,D2NSラジカルの回転スペクトルを光源変調型マイクロ波分光計と、フーリエ変換ミリ波分光計で測定し、窒素および重水素による超微細構造定数を含む17の分子定数を決定した。遠心力歪み定数と慣性欠損の値を用いて、調和振動力場解析をおこなった。その結果、このラジカルは基本的には平面構造をしているが、面外に折れ曲がる振動数が325cm-1と低い値を持つことを示した。このことはH2NOが二極小ポテンシャルを持つこととは対照的である。H2NS,D2NSの回転定数から振動平均構造(rz構造)を次のように決定した。rz(N-H)=1.000(5)Å,rz(N-S)=1.6398(13)Å,z(HNH)=118.9(7)°(誤差3)。

(4)CH3CCSラジカル

 CH3CCSラジカルは縮退した電子状態をもつ対称コマラジカルである。この分子について超微細構造を含む回転スペクトルをミリ波サブミリ波分光計(132-261 GHz)とフーリエ変換型ミリ波分光計(11-21 GHz)を用いてはじめて検出した。CH3CCSラジカルはCH3CCHとCS2を放電することによって生成した。ミリ波領域では50本、FTMW分光計では19本の遷移を測定した。ミリ波領域ではK=-4から6のK構造を、11-21GHzではK=0と1の遷移を測定した。解析の結果、CH3CCSの超微細構造定数はCH3Sの約半分であることがわかった。このことからCH3CCSの結合はのような古典的共鳴構造をとっていると考えれば、ほぼ理解できることがわかった。

 本論文においてHCS,HSC,H2NS,CH3CCSの4つの新たなフリーラジカルをマイクロ波分光によって研究した。通常使われる光源変調型ミリ波・サブミリ波分光計と、FTMW分光計を組み合わせた方法は上の4つの分子の分光に対して有効な方法であった。特に本研究で開発を進められたFTMW分光計は、HCSラジカルの初めての確実な検出において非常に有効であった。ミリ波領域でのFTMW分光計の感度はまだそれほど高くはないが、近年のHEMTアンプの技術や超伝導を用いたミキサーを導入すれば、さらに感度が向上し、将来ミリ波領域でも重要な分光方法になると考えられる。

 上の4つのフリーラジカルはいずれも分子構造の観点から興味深い分子である。これらの分子の回転スペクトルを詳細に測定、解析した本研究は、分子構造論や化学動力学、化学反応の研究に役立つ情報であると考えている。

審査要旨

 本論文はイオウを含むフリーラジカル分子の構造を、高分解能のマイクロ波分光によって明かにしたものである。フリーラジカルは不対電子をもつ分子で、多くは不安定で非常に短寿命であり、その構造の研究は困難である。そのため現在にいたるまで比較的簡単な構造のものでもその正確な分子構造が知られていないものが数多く存在する。これらのフリーラジカルの構造解明は分子物理学、分子化学として興味があるばかりでなく、大気化学や電波天文学においても重要である。この研究では実験手法としてマイクロ波領域での高分解能分光を用いている。このエネルギー領域では分子の回転スペクトルやラジカルの特徴として不対電子と原子核スピンあるいは分子の角運動量との結合による微細構造、超微細構造分裂が観測される。前者から慣性モーメントの情報が得られ、あまり原子数の多くない分子についてはその構造を正確に決めることができる。また後者からは核の位置における波動関数の振幅などを求めることができ、これらを解析することにより分子構造に関する多くの情報を得ることができる。申請者は分子構造の観点からイオウを含むフリーラジカルと対応する酸素を含むものとの違いに興味を持ち、この研究を行った。

 本論文は第1章の序論から始まる7章および1つの付録からなる。

 第2章で実験手法について述べている。使用した装置は、60-500GHzでは光源変調型サブミリ波分光計と放電セルを組み合わせたもの、8-52GHzではフーリエ変換型ミリ波分光計とパルスジェットを組み合わせたものである。後者は申請者によって製作されたものであり、40GHz帯でのラジカル高感度測定用としては世界的に見てトップレベルにある。

 第3章ではHCSラジカルについて述べている。まずフーリエ変換分光計により基底状態の6本の微細、超微細構造分裂を伴った101-000回転遷移を見いだし、同位体置換したDCSおよびH13CSと比較した。さらに光源変調型分光計を用いて、HCS、DCSの遷移を観測し、これらのデータを解析して超微細構造定数を含む分子定数を精度よく決定した。その結果,水素核のフェルミ項はHCOラジカルの値よりかなり小さく、HCSはHCOラジカルよりも直線に近い構造をとっており、擬直線分子であることを示した。

 第4章では前章で扱ったHCSの構造異性体であるHSCラジカルをマイクロ波分光によって初めて検出した。また重水素置換したDSCについても同様の測定を行って分子定数を決定した。さらに、超微細構造からHSCの基底状態がラジカルであることを明かにした。このラジカルは本研究において初めて発見されたものであり、重要な成果である。

 第5章では分子構造の平面性について興味が持たれているH2NSフリーラジカルについて回転スペクトルの測定を行って分子定数を決定した。その結果このラジカルは面外折れ曲がりモードの振動数が低い値を持つが、基本的には平面構造をしていると考えられることを結論した。

 第6章では縮退した電子状態を持つ対称コマラジカルであるCH3CCSについて回転スペクトルを測定し、解析の結果、超微細構造定数はCH3Sの約半分であり、したがって水素核の位置における不対電子の存在確率が約半分となるので、その基底状態はH3C-C≡C-SとH3C-C=C=Sの共鳴構造をとっているとしてほぼ理解できることを示した。

 本論文は以上のように分子構造の観点から興味深いHCS HSC H2NS CH3CCSの4種類のフリーラジカル分子についてマイクロ波分光によって詳細な研究を行ったものである。自ら開発した装置も活用して信頼できる着実な成果をあげており、分子科学の分野において重要な寄与をした。特にHSCとHCSは星間物質の成因を議論するうえでも重要なもので、これらのラジカルの構造を確定したことは高く評価される。また本研究は数名の共同研究者とともに行われたが、フーリエ変換型ミリ波分光計の開発、測定解析のすべてを本人が中心となって遂行したものと認められる。よって審査委員全員の一致により博士(理学)の学位を授与できると判断した。

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