提出された論文は、反陽子とヘリウム原子核と電子との3体系がつくる準安定原子状態のレーザー分光的実験研究に関するもので、申請者を含む東京大学グループが主導してCERN(欧州合同原子核研究所)を中心に展開している実験プロジェクトの一環をなしている。後述されるように、多数の研究者との協同実験のなかで、申請者の主導的にして個性的な寄与があり、その部分が明確な形で強調された論文となっている。 論文は4章からなり、1章のIntroductionにつづいて、2章の実験手法、3章の解析と実験結果、及び4章の理論との比較を中心とした議論とから構成されている。 実験は、主として、CERNのLEAR加速器から得られるパスル状反陽子ビームを用いて行なわれた。申請者は、レーザー共鳴を行なうためのヘリウム標的に反陽子ビームを導くためのビームプロファイル測定用の平行平板型電離箱を開発し、さらにヘリウムガスの温度とガス圧(密度)が可変なレーザー共鳴用標的系を製作している。レーザーは既存の色素レーザーを用い、反陽子ビームがヘリウム中の止まる領域をレーザーが一様にカバーするよう配慮がなされている。測定は、反陽子ヘリウム原子が長寿命(準安定)準位の状態から遷移して下位準位で消滅する際に発生するパイオンなどの2次粒子について、強度の時間分布をチェレンコフ検出器を用いて測定している。その際に、パルス的にかたまってくる信号の時間分布を1つ1つ測らず、電気信号として重畳されたパルス波型としてアナログ的に検知している。申請者は、このアナログ波型を定量的な時間スペクトル測定として解釈する際に必要な較正実験を行なっている。 行なった実験の内容では、申請者が独創的に開発したDepletion-Recovery法を用いて準位の寿命を測定している。この方法は、2つの準位間のレーザー共鳴信号の時間スペクトルから下位準位の減少と上位準位の回復を決定する方法で、(n,l)=(36,33),(37,34),(38,34)及び(39,35)の寿命を決定した。決定された2つの双極子遷移支配の寿命[(39,35),(37,34)]及びAuger遷移支配の寿命[(38,34),(36,33)]は、ヘリウム密度の低い極限の値について、共に理論計算結果とよく一致することが判った。また準位の寿命のヘリウムガス圧力依存性を求め、周囲のヘリウム原子との影響のうけやすさを考えた通常の予想に反して、高位準位の(39,35)には密度依存性はなく、低位の(37,34)に大きな依存性があることが判った。低位の状態に密度依存性があることは驚くべき発見であり、理由を検討中であると同時に大きな問題提起をしている。 次いで、レーザー共鳴による反陽子ヘリウム原子の信号強度の消滅度から反陽子ヘリウム原子の準位の占有数を系統的に求めた。その際、2つのレーザーパルスを時間間隔を変じながら測定する方法などが試みられている。全ての準安定準位の内、半分が粒子数n=30〜40、分子モード数v=1〜3の準位に分布していることをつきとめると同時に、n=41以上の準位には準安定状態ができていないことを発見した。これらの占有数の傾向は現存する全ての理論と矛盾していて、大きな問題提起を行なっている。真の解明にはより低密度のヘリウムガスの実験が必要である。申請者が行なったシミュレーション計算によれば、n41の準位に占有数がない事実を使うと、これまで長らく疑問となっていた反陽子ヘリウム原子の遅延消滅時間スペクトルが10s位で急速に減少するという事実を説明することができる。 これらの新しいレーザー分光法を中心とする実験のなかで、申請者の主導的寄与が明確であるのは、次の点である。 1.パルス状反陽子ビームのビームモニター系を製作した。 2.反陽子ビームを止め最適なレーザー分光を行なうための温度可変ヘリウム標的チェンバーを自ら製作した。 3.パルス状反陽子ビームから放出されるパイオンを主体とする2次粒子をアナログ的にとらえ読み出すためのチェレンコフ検出器系及びデータ処理系を製作した。 4.レーザー共鳴ピークの時間スペクトル形状から各準位の寿命を抽出するDepletion-Recovery方法を見出し、2つの遷移に適用した。 5.これまでに直流状ビームで行なわれたレーザー共鳴実験をパルス状ビームを用いてやり直し、時間の早い部分をみるなど、精度のよい結果を得ることに成功している。 6.準安定準位の寿命や占有数の導出など、全ての実験結果の解析と、提出されている理論との比較を行ない、低位の双極性遷移が支配的な準位の密度依存性や、準安定準位の占有度の異常性など、注目すべき新しい事実を発見している。 これらの申請者の主導的寄与をふまえて、論文審査において、提出された論文は、東京大学博士(理学)としての評価基準を十分に満たしていて、審査委員全員は「合格」であるとの判定を下した。 なお、本論文の研究は、早野龍五、山崎敏光、Dezso Horvath、Eberhard Widman、John Eades、鳥居寛之、Bernhard Ketzer、各氏との共同研究であるが、上記に述べたように論文提出者が主体となって分析及び検証を行なったもので、論文申請者の寄与が十分であると判断する。 |