学位論文要旨



No 114977
著者(漢字) 堀,正樹
著者(英字)
著者(カナ) ホリ,マサキ
標題(和) 異常長寿命反陽子ヘリウム原子のカスケード過程
標題(洋) Cascade of metastable antiprotonic helium atoms
報告番号 114977
報告番号 甲14977
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3741号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永嶺,謙忠
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 助教授 相原,博昭
 東京大学 教授 片山,一郎
内容要旨

 反陽子をヘリウム標的中で静止させると、約3パーセントのものは3マイクロ秒以上の寿命をもって消滅する。これは反陽子が主量子数n、および角運動量Iの大きい準安定な軌道に束縛された三体系の反陽子ヘリウム原子が標的中で生成するからである。この原子の生成とカスケード過程の研究は、クーロン力に支配された少数系の反応ダイナミクスを理解する上で重要なデータを提供する可能性があるが、様々な実験上の難しさからこうした研究は今まではなされなかった。私は、大強度の反陽子パルスビームを使って大量の反陽子ヘリウム原子を一度に生成して、これをパルスレーザーを用いて共鳴消滅法で分光する実験手法を開発した(図1参照)。そして、実際に反陽子ヘリウム原子が生成した直後の準位の占有数の初期分布や、準位の寿命を系統的に測定した。

図1:反陽子ヘリウム原子のレーザー分光実験の装置

 欧州合同原子核研究所(CERN)にあるLEAR加速器は、107〜109個の反陽子を200ナノ秒のパルス幅をもった大強度ビームとして供給する性能をもっている。まず、この反陽子パルスビームの強度と時間的な構造とXYプロファイルを正確に測定するために、並行平板型電離箱を開発した。この検出器は1〜65ミリバールという圧力の低いP10ガスを用いているため大強度のビームに対しても線形な信号応答性を有しており、また反陽子ビームの形状を0.5〜1ミリの空間分解能で測定する性能をもっている。さらに、ビームを低温のヘリウム標的中に照射して、105〜107個の反陽子ヘリウム原子を一度に生成し、原子が消滅する際に放出されるパイ中間子の強度を、特殊なチェレンコフ検出器を使って測定した。チェレンコフ検出器から出力される発光信号は、専用のゲート機能付きファインメッシュ型光電子増倍管で検出し、そのアナログ電気信号の波形をデジタルオシロスコープで記録することによって、反陽子ヘリウム原子が崩壊していく様子を消滅時間スペクトルとして測定した。この際、特殊なゲート回路を用いて増倍管の電極に印加された電圧を瞬間的に変化させることによって、反陽子ビームが標的に到着するときに生ずる巨大な信号を遮断した。加速器から反陽子ビームが射出されるタイミングに同期してヘリウム標的中にレーザー光を照射した。色素レーザーの波長を反陽子ヘリウム原子の遷移エネルギーに調整することによって、1マイクロ秒程度の寿命をもった準安定状態にある反陽子原子を、瞬時に短寿命な準位に脱励起させ、反陽子ヘリウム原子を強制的に消滅させた。

 私はこのレーザー共鳴ピークの時間スペクトルの形状から、各準位の寿命を抽出する"depletion-recovery spectrum method"という方法を考案した。すなわち、レーザー共鳴ピークは、共鳴遷移の娘準位の寿命で減少した後、親準位の寿命で復活するという構造をもっている事を利用して、両準位の寿命を直接測定した。この手法を用いてオージェー遷移に支配された短寿命の準位(n,l)=(38,34)と(36,33)の寿命をもとめ(図2参照)、それぞれ10nsと4nsという結果を得た。これは、原子的な描像を採用した配位間相互作用(CI)法や、分子的な描像を用いた変分計算の結果とよく一致する。一般に、オージェー遷移の計算は連続状態を扱う必要があるため、困難とされるが、これらの計算の正しさを実験的に示すことができた。

図表図2:レーザー分光で測定した(n,l)=(38,34)と(36,33)の寿命 / 図3:レーザー分光で測定した(n,l)=(39,35)と(37,34)の寿命

 次に、双極子遷移に支配された二つの長寿命の準位(39,35)と(37,34)を比較的低い密度のヘリウム標的(圧力0.1気圧、温度5ケルビン)中で生成した原子について測定した。二つの準位の寿命はそれぞれ1.4sと1.3sという結果が得られたが、これは電子の軌道を断熱的に近似したBorn-Oppenheimer近似やCI法、分子変分法によって計算された双極子遷移の寿命とよく一致する。この反陽子ヘリウム原子では、電子と反陽子の間のクーロン反発力によって電子雲が分極する内核偏極という効果により、双極子遷移の寿命は通常の約3倍になると予想されるが、この効果を実際に確認することができた。次に、ヘリウム標的の密度を圧力10bar、温度5.5Kという状態まで上げて測定をおこなったが、準位(39,35)は、1.4sの寿命を保ちつづけた。一方、準位(37,34)の寿命は標的密度の増加にともなって1.3sから0.1sまで大幅に変化した。高密度状態では周囲のヘリウム原子との衝突回数が増えるが、一般に主量子数nや角運動量lの大きい高励起状態の軌道の方が強い影響をうけると予想される。しかし、この実験では反対にエネルギーの低い状態の方が短寿命化した。その理由はまだ明らかになっていない。高密度の標的では、準位(37,34)が短寿命化する現象を利用して、高密度のヘリウム標的を用いて新しい遷移(38,35)→(37,34)(波長は529.62nm)を発見した。

 さらに、このレーザー共鳴消滅スパイクの信号強度から、レーザー照射時における反陽子ヘリウム原子の特定準位の占有数を求めた。準安定な反陽子ヘリウム原子のうち、約半分は主量子数n=37〜40、分子ノード数v=1〜3の準位に分布していることが明らかになった。一方、n=41以上の高励起状態の準位には、長寿命な原子がほとんど生成しないらしい。しかしこの実験結果は、原子の大半がn>41の領域で生成することを予言するdiabatic statesやCTMC等の理論計算の結果と矛盾する。これらの高励起状態で準安定原子が観測できない理由について、反陽子原子が生成した直後に他のヘリウム原子との衝突によってクエンチされるからであると説明する研究者もいるが、実験的に決着させるためには、衝突の少ない超低密度のヘリウム標的中で反陽子原子を生成させて測定をおこなう必要がある。

 最後に、これらの実験で測定された個々の準位の占有数と寿命を用いて、カスケード計算を行い反陽子ヘリウム原子の消滅スペクトルをシミュレートした。こうして、反陽子ヘリウム原子における個々の準位に束縛された反陽子が、消滅スペクトルにどのように寄与するかを解明した。

審査要旨

 提出された論文は、反陽子とヘリウム原子核と電子との3体系がつくる準安定原子状態のレーザー分光的実験研究に関するもので、申請者を含む東京大学グループが主導してCERN(欧州合同原子核研究所)を中心に展開している実験プロジェクトの一環をなしている。後述されるように、多数の研究者との協同実験のなかで、申請者の主導的にして個性的な寄与があり、その部分が明確な形で強調された論文となっている。

 論文は4章からなり、1章のIntroductionにつづいて、2章の実験手法、3章の解析と実験結果、及び4章の理論との比較を中心とした議論とから構成されている。

 実験は、主として、CERNのLEAR加速器から得られるパスル状反陽子ビームを用いて行なわれた。申請者は、レーザー共鳴を行なうためのヘリウム標的に反陽子ビームを導くためのビームプロファイル測定用の平行平板型電離箱を開発し、さらにヘリウムガスの温度とガス圧(密度)が可変なレーザー共鳴用標的系を製作している。レーザーは既存の色素レーザーを用い、反陽子ビームがヘリウム中の止まる領域をレーザーが一様にカバーするよう配慮がなされている。測定は、反陽子ヘリウム原子が長寿命(準安定)準位の状態から遷移して下位準位で消滅する際に発生するパイオンなどの2次粒子について、強度の時間分布をチェレンコフ検出器を用いて測定している。その際に、パルス的にかたまってくる信号の時間分布を1つ1つ測らず、電気信号として重畳されたパルス波型としてアナログ的に検知している。申請者は、このアナログ波型を定量的な時間スペクトル測定として解釈する際に必要な較正実験を行なっている。

 行なった実験の内容では、申請者が独創的に開発したDepletion-Recovery法を用いて準位の寿命を測定している。この方法は、2つの準位間のレーザー共鳴信号の時間スペクトルから下位準位の減少と上位準位の回復を決定する方法で、(n,l)=(36,33),(37,34),(38,34)及び(39,35)の寿命を決定した。決定された2つの双極子遷移支配の寿命[(39,35),(37,34)]及びAuger遷移支配の寿命[(38,34),(36,33)]は、ヘリウム密度の低い極限の値について、共に理論計算結果とよく一致することが判った。また準位の寿命のヘリウムガス圧力依存性を求め、周囲のヘリウム原子との影響のうけやすさを考えた通常の予想に反して、高位準位の(39,35)には密度依存性はなく、低位の(37,34)に大きな依存性があることが判った。低位の状態に密度依存性があることは驚くべき発見であり、理由を検討中であると同時に大きな問題提起をしている。

 次いで、レーザー共鳴による反陽子ヘリウム原子の信号強度の消滅度から反陽子ヘリウム原子の準位の占有数を系統的に求めた。その際、2つのレーザーパルスを時間間隔を変じながら測定する方法などが試みられている。全ての準安定準位の内、半分が粒子数n=30〜40、分子モード数v=1〜3の準位に分布していることをつきとめると同時に、n=41以上の準位には準安定状態ができていないことを発見した。これらの占有数の傾向は現存する全ての理論と矛盾していて、大きな問題提起を行なっている。真の解明にはより低密度のヘリウムガスの実験が必要である。申請者が行なったシミュレーション計算によれば、n41の準位に占有数がない事実を使うと、これまで長らく疑問となっていた反陽子ヘリウム原子の遅延消滅時間スペクトルが10s位で急速に減少するという事実を説明することができる。

 これらの新しいレーザー分光法を中心とする実験のなかで、申請者の主導的寄与が明確であるのは、次の点である。

 1.パルス状反陽子ビームのビームモニター系を製作した。

 2.反陽子ビームを止め最適なレーザー分光を行なうための温度可変ヘリウム標的チェンバーを自ら製作した。

 3.パルス状反陽子ビームから放出されるパイオンを主体とする2次粒子をアナログ的にとらえ読み出すためのチェレンコフ検出器系及びデータ処理系を製作した。

 4.レーザー共鳴ピークの時間スペクトル形状から各準位の寿命を抽出するDepletion-Recovery方法を見出し、2つの遷移に適用した。

 5.これまでに直流状ビームで行なわれたレーザー共鳴実験をパルス状ビームを用いてやり直し、時間の早い部分をみるなど、精度のよい結果を得ることに成功している。

 6.準安定準位の寿命や占有数の導出など、全ての実験結果の解析と、提出されている理論との比較を行ない、低位の双極性遷移が支配的な準位の密度依存性や、準安定準位の占有度の異常性など、注目すべき新しい事実を発見している。

 これらの申請者の主導的寄与をふまえて、論文審査において、提出された論文は、東京大学博士(理学)としての評価基準を十分に満たしていて、審査委員全員は「合格」であるとの判定を下した。

 なお、本論文の研究は、早野龍五、山崎敏光、Dezso Horvath、Eberhard Widman、John Eades、鳥居寛之、Bernhard Ketzer、各氏との共同研究であるが、上記に述べたように論文提出者が主体となって分析及び検証を行なったもので、論文申請者の寄与が十分であると判断する。

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