学位論文要旨



No 114985
著者(漢字) 吉浜,知之
著者(英字)
著者(カナ) ヨシハマ,トモユキ
標題(和) NaV2O5の中性子磁気散乱研究
標題(洋)
報告番号 114985
報告番号 甲14985
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3749号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 瀧川,仁
 東京大学 教授 寿栄松,宏仁
 東京大学 助教授 廣井,善二
 東京大学 教授 毛利,信男
 東京大学 教授 吉沢,英樹
内容要旨

 NaV2O5は35K(=Tc)以下で一重項基底状態へと転移する、ということが帯磁率測定[1]の結果明らかになった。当時、V4+(S=1/2)一次元鎖とV5+(S=0)一次元鎖とが交互に並んでいる、というモデル(電荷秩序一次元鎖モデル[2])が信じられていたため、NaV2O5の35Kにおける相転移は、spin-Peierls転移によるものである、と推定された。更に、X線回折実験[3]の結果、35K以下で格子歪みが起きていることを示す超格子反射が発見され、格子2量体化を示すものと説明された。更に、粉末試料を用いた中性子散乱測定[3]が行なわれた。散乱ベクトルの大きさを1.0Å-1に固定したときのエネルギー・スキャンによって9.8meVの大きさを持つギャップを観測した。同時に、この大きさは,spin-Peierls系に対する理論値(5.3meV)よりも異常に大きいことも指摘された。その後も、様々な実験の報告があり格子歪みと非磁性状態への転移が確認されているが、いずれも、それらをspin-Peierls転移の証拠と説明している。

 本論文は、日本原子力研究所改3号炉(JRR-3M)に設置してある熱中性子三軸分光器(ISSP-PONTA 5G)において、NaV2O5単結晶試料を用いた中性子磁気非弾性散乱測定を行なった結果を報告するものである。これは、礒部,加賀美,上田が、NaV2O5単結晶試料育成に成功したこと[4]により可能となったものであり、粉末中性子散乱測定[3]においては散乱ベクトルの絶対値に関する情報しか得られない、という制約のため明確に出来なかった以下の点に関する知見を得ることを目標とした。ギャップが一次元反強磁性ゾーン中心上に形成されているのかどうか、更に、どの程度の一次元性を有しているか、という二点である。その結果、低温相においてなぜ非磁性状態が実現しているか微視的な観点から理解するための手がかりを得ることが出来る、と期待した。

 一次元反強磁性ゾーン中心(qb=0.5r.l.u.)において、T=7K(非磁性相)で磁気励起測定を行なった結果[5]を以下に記す。一次元(b軸)方向には,ゾーン中心に9.8meVのギャップを持つ急峻な反強磁性磁気分散が存在することを確認した。この方向のスピン波速度は、本測定から決定することは困難であったが、低温帯磁率から評価された440K[6]という値と矛盾しないエネルギースケールを持つ、ということが言えた。また,これと垂直方向(a軸)には,一次元反強磁性ゾーン中心上に二本の磁気分数が存在する。その分散のエネルギー差は2.6meVであり、a軸方向の相互作用のエネルギー・スケールを特徴づけるものであるが、b軸方向には440Kの程度のエネルギー・スケールを持つ相互作用が存在すると考えて矛盾の無かったことを考慮すると、この物質がよい一次元物質であるということを反映している。更に,3r.l.u.という周期性を持つ強度変調があることもわかった。従来信じられていた電荷秩序一次元鎖モデルではab面内におけるV4+(S=1/2)一次元鎖同士の距離はa/2であり,V4+(S=1/2)一次元鎖とV5+(S=0)一次元鎖の間の距離はa/3,a/6である。従って、観測された強度変調は、低温相において実現している一重項基底状態が、電荷秩序一次元鎖におけるspin-Peierls状態とは異なっている機構によっている可能性があることを示唆する。qb=1.0r.l.u.での磁気励起測定も低温相で行ない、ここでも10meV近傍にギャップが形成されていることを確認した。このことは、一次元方向の周期がであることを意味する。また、qb=0.5r.l.u.と同様にh方向への分散は3meV程度と緩やかであるが、qb=0.5r.l.u.と1.0r.l.u.とでは位相がずれていることが新たにわかった。ここまで記してきたギャップが,一重項基底状態と三重項励起状態の間のエネルギーギャップであることを確認するために,磁場を印加させゼーマン分裂が起きるかどうか検証した。得られた結果はそのように考えて矛盾しない。

 このように、先に記した二つの目標の検証を目的とした単結晶試料を用いた本中性子散乱研究は、従来の描像では予期することが困難なh軸方向への強度変調の存在、という予想外の実験事実[5]を見い出し、電荷自由度に注目を払うその後の研究の先駆けとなった。現在では、様々な理論的・実験的研究が進展し、次のような新しいシナリオが形成されている。

 「Tc以上では、V-O-V rung上の分子軌道上に電子が一つ存在し、実効的なspin 1/2を担う。それらがintra-ladder方向(b軸方向)に他の方向と比べて大きく反強磁性的に結合する[7]。更に、2V4.5+(T>Tc)→V4++V5+(T<Tc)と表現しうる、バナジウムの価数に関する秩序・無秩序転移がTcで起きる[8]。Tc以下では’zig-zag’状に電荷が配列し[9]、それに伴ってintra-ladder方向の反強磁性結合が交替化してspin-gapが開く[10]。」

 この描像は、この際に期待される非磁性相における磁気励起スペクトル[10]は,一次元方向には折り返し周期がである一次元反強磁性磁気分散が存在すること,および,それと垂直方向には,二本の緩やかな分散を持つ三重項励起のモードが存在し,しかもそれらのh方向への分散の位相がシフトする様子,といった様々な中性子散乱測定結果をよく再現する。更に,実験的に観測される散乱強度変調は,h方向への周期が3r.l.u.であることはk=0.5r.l.u.およびk=1.0r.l.u.のいずれにおいてもその最大値を与えるhの位置を含め理解できる。一方、低温X線結晶構造解析[11]の結果新たに提案された二本脚スピン梯子モデルは上記シナリオとは相容れないものであるが,本研究において観測された一次元方向への磁気分散の折り返し周期()をこのモデルでは説明できない。

[1]M.Isobe and Y.Ueda,J.Phys.Soc.Jpn.65 1178.(1996)[2]A.Carpy and J.Galy,Acta Cryst.B31 1481.(1975)[3]Y.Fujii et al.,J.Phys.Soc.Jpn.66 326.(1997)[4]M.Isobe,C.Kagami,and Y.Ueda,J.Crystal Growth 181 314.(1997)[5]T.Yosihama et al.,J.Phys.Soc.Jpn.67 744.(1998)[6]M.Weiden et al.,Z.Phys.B 103,1.(1997)[7]H.Smolinski et al.,Phys.Rev.Lett.80 5164.(1998)[8]T.Ohama et al.,Phys.Rev.B59 3299.(1999)[9]H.Seo and H.Fukuyama,J.Phys.Soc.Jpn.67 2602.(1998)[10]C.Gros and R.Valenti,Phys.Rev.Lett.82 976.(1999)[11]J.Ludecke et al.,Phys.Rev.Lett.82 3633.(1999)
審査要旨

 吉浜知之氏提出の本論文は、NaV2O5単結晶試料の低温相における磁気励起スペクトルを中性子非弾性散乱により測定した結果と,それから得られる電荷や1重項スピン対の空間的配列に関する知見が述べられている。擬1次元構造を持つNaV2O5が35Kの温度以下で格子変形を伴って非磁性状態へ相転移することが発見された当初、これはスピン・パイエルス転移であると広く考えられた。しかし吉浜氏による本研究を含むその後の多くの実験結果は、この相転移に際し単に格子とスピンの状態が変化するだけでなく、バナジウムの価数、即ち電荷の空間的な配列が同時に変化することを示唆している。この物質の基底状態においてどのような電荷配列や1重項スピン対が実現しているかは現在なお未解決であり、スピン・電荷・格子の自由度が絡み合った興味ある多体問題として多くのグループにより精力的な研究が行われている。

 本研究では良質の単結晶試料を用いた中性子非弾性散乱の実験を行い、低温相(7K)において非磁性基底状態からの磁気励起スペクトルを波数の関数として詳細に測定した。励起エネルギーや散乱強度の波数依存性は、基底状態のスピン波動関数の性格を敏感に反映し、これから電荷配列やスピン間の交換相互作用に関する重要な知見を得ることが出来る。

 本論文は5章よりなる。第1章ではまず1重項基底状態を持つ擬1次元スピン系、特に2量体化を伴う格子変形によって1重項スピン対が生じるスピン・パイエルス物質について説明し、NaV2O5で見出された格子変形を伴う非磁性状態への転移がスピン・パイエルス転移であると考えられたいきさつを述べている。更に中性子非弾性散乱の実験がこれを検証する手段としてどのように有用であるかを述べ、本実験の動機・目的を明確にして後の章への序論としている。第2章では中性子非弾性散乱の実験手法を解説し、本研究での具体的な実験条件を述べている。

 続く2章が本論文の主要な部分で、第3章で実験結果を述べ、第4章で実験結果を理論的なモデル計算と比較することにより、この物質でどのような電荷配列および1重項スピン対が実現しているかを議論している。第5章は全体のまとめである。本研究の主要な結果を要約すると以下のようになる。1)1次元鎖方向(b方向)の磁気励起エネルギー分散は逆格子点間の中央(0.5r.l.u)に約10meVのギャップを持ち、約40meVの最近接相互作用から推定されるのと同程度の大きな分散巾を示すが、鎖に垂直方向(a方向)の分散巾は2.6meVと小さく、この物質の磁気的相互作用がb方向に良い1次元性を持っていることを実験的に確認した。2)b方向の波数qbを0.5r.l.uに固定すると、a方向に2つの磁気分散が存在し、その散乱強度がa方向の逆格子の3倍周期で変調を示す。3)qb=1.0r.l.u.の場合でも同じ10meVのギャップが観測され、b方向の周期が逆格子単位の半分であることが示された。この場合a方向には1本の磁気分散しか観測されない。そのエネルギーや散乱強度の変調周期はqb=0.5r.l,uの場合と同一であるが、位相が反転している。4)磁場を印加することにより中性子散乱スペクトルがゼーマン分裂する様子が観測され、励起状態がスピン3重項であることが確認された。

 この物質中のバナジウムの平均価数は4.5であり、従来はb方向に1次元的に配列した4価(スピン1/2)のバナジウム鎖と5価(スピン0)のバナジウム鎖がa方向に交互に並ぶという電荷配列のパターンが提唱されていた。前述のスピン・パイエルス描像もこの電荷配列を仮定して初めて成り立つものであった。しかしこの場合、バナジウム4価のスピン鎖間の距離はa方向の格子間距離の半分となるので、本研究で示されたa方向逆格子の3倍周期の強度変調とは明らかに矛盾する。本研究の一部が公表されたのを契機として、この物質中の電荷配列を見直す研究が盛んになった。まずX線による低温相の構造解析の結果に基づいて、バナジウム4価が梯子格子を形成するモデルが提唱されたが、このモデルではb方向の磁気分散の周期が逆格子の半分である事実を説明するのは困難である事が分かった。妹尾と福山はハートレー近似によって種々の電荷配列の安定性を調べ、ジグザグモデルと呼ばれる配列が前述の1次元鎖配列や梯子格子型の配列より安定であることを示した。更にGrosとValentiはジグザグ電荷配列によってb方向の交換相互作用に交替化が生じ、このためスピン励起にギャップが出来ると考え、このモデルに対しスピン励起の分散関係と中性子散乱強度を計算した。その結果は、本研究で観測されたa方向の分散関係と強度変調の周期、またこれらの位相がqb=0.5r.l.uとqb=1.0r.l.uとで反転するという結果を定性的に説明しており、現時点では実験との整合性が最も良いモデルであるいえる。しかしqb=0.5r.l.uでは2つのモードが観測されたのに対し、qb=1.0r.l.uでは1つのモードしか見えないという結果はまだ説明できていない。

 本研究の結果がNaV2O5の相転移に対するスピンパイエルス描像に初めて深刻な疑問を投げかけたものであり、これを契機に様々な研究が進んだこと、本研究の結果を説明するためにいくつかの理論的研究が精力的に行われていることは、本研究がこの分野の発展に大変大きな貢献を果たしたことを示している。本論文の成果について議論した結果、審査委員会は全員一致で本研究が博士(理学)の学位論文として合格であると判定した。なお本研究は、東京大学物性研究所の礒部正彦、上田寛、加賀美千春、中島健次、西正和、藤井保彦の諸氏、および指導教官である加倉井和久氏との共同研究の部分があるが、上に述べた成果の主要部分について論文提出者が主たる寄与をなしたものであることが認められた。

UTokyo Repositoryリンク