学位論文要旨



No 114987
著者(漢字) 依田,隆夫
著者(英字) Yoda,Takao
著者(カナ) ヨダ,タカオ
標題(和) ヤギα-ラクトアルブミンのフォールディングの実験とシミュレーションによる研究
標題(洋) Experimental and simulation studies on folding of goat α-lactalbumin
報告番号 114987
報告番号 甲14987
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3751号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若林,健之
 東京大学 助教授 能瀬,聡直
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 助教授 陶山,明
 東京大学 教授 川戸,佳
内容要旨

 ストップドフローCD法及び分子動力学シミュレーションによってヤギα-ラクトアルブミンの折れ畳み反応の研究を行った。

 α-ラクトアルブミンは、分子量14,200,2つのドメイン(α-ドメインと-ドメイン)からなる球状蛋白質で、ラクトース合成酵素の調節サブユニットとして機能している。5つの生物種のα-ラクトアルブミンの天然構造がX線結晶構造解析により解かれており、いずれもリゾチームの構造と高い相同性を持っていることが知られている。α-ラクトアルブミンは球状蛋白質の折れ畳み反応の研究の試料として最も多く用いられている蛋白質の一つである。その理由は、「(1)モルテングロビュール状態が、緩やかな平衡変性条件下で安定に蓄積するため、その構造的な特徴を調べるのに適している(2)モルテングロビュール状態が速度論的な折れ畳み反応の中間体として蓄積し、その構造的な特徴は上述の平衡条件下のモルテングロビュール中間体とほぼ同一である」などによる。複数の研究グループによるこれまでの研究により、この蛋白質のモルテングロビュール状態は、(1)α-ドメインに含まれる天然のヘリックスはほぼ形成されている。(2)側鎖間の天然のパッキングは完成していない。(3)-ドメインの構造はα-ドメインに比べると大きく揺らいでいると考えられるが、分子全体の大きさはコンパクトである。(4)変性状態とモルテングロビュール状態との間の転移は非協同的である。(5)α-ドメインの構造の主鎖のトポロジーは天然類似であり、天然類似の主鎖のトポロジーの形成には、α-ドメイン内のアミノ酸による疎水相互作用が寄与していることなどが分かっている。

 このように、α-ラクトアルブミンは折れ畳み中間体、特にモルテングロビュール状態の物性を調べる目的で多くの研究が行われてきた蛋白質であるが、本研究では、モルテングロビュール状態で天然類似の構造的な特徴を獲得した部位(α-ドメイン)が、折れ畳み反応のその後の過程でどのように振る舞うのか、という問題に注目した。

 ヤギα-ラクトアルブミンのα-ドメイン内に4種類の単一アミノ酸置換(A30I,A30T,T29I,T33I)あるいは1種の2アミノ酸置換を施した変異体(A30I+T33I)を作成した。これらの塩酸グアニジン変性による平衡アンフォールディング転移曲線の解析より、スレオニン29番をイソロイシンに置換した変異体(T29I)の天然状態の安定性が野生型のそれと比較して変性中点付近で約3.5kcal/mol安定化していることが示された。このアミノ酸残基(スレオニン29番)を含め、測定を行った変異体のアミノ酸置換部位は、いずれも、ヤギα-ラクトアルブミンのα-ドメイン内のB-ヘリックス上にあり、疎水的な環境にある。

 T29I変異体と、A30I+T33I変異体の折れ畳み・変性速度を、塩酸グアニジンを変性剤としてストップドフローCD法で観測し、その速度定数の塩酸グアニジン濃度依存を測定した。その結果、上述のT29I変異による天然状態の大きな安定化は、主に変性速度が遅くなることによってもたらされていることが見いだされた。この結果は、同アミノ酸置換によってもたらされた変性自由エネルギーの変化と同様の変化が、折れ畳み反応の遷移状態と天然状態との間の自由エネルギー差にも存在することを示しており、同置換部位の周囲の天然の立体構造が折れ畳み反応の遷移状態では形成されていないことを示唆している。即ち、スレオニン29番の周囲の天然の立体構造は、折れ畳みの最終段階で形成されていると考えられる。

 次に、折れ畳み反応における上述のアミノ酸置換部位の構造変化についてより詳細な情報を得るために、高温条件下の分子動力学シミュレーションを行い蛋白質分子の構造の壊れる様子を観察した。上述の実験の条件と今回のアンフォールディングシミュレーションの条件は著しく異なるが、高温分子動力学シミュレーションの観察結果が室温における速度論的な折れ畳み・変性反応の測定結果を定性的には説明するであろうと考えた。今回行われた分子動力学シミュレーションの目的は、変性過程のごく初期の段階の構造の壊れを観察することである。

 具体的には、長距離相互作用のカットオフを用いない方法で行われた400K、6ナノ秒の分子動力学シミュレーションのトラジェクトリーの解析を行った。観察された構造変化を主にα-ドメインに注目して記述する。また、分子が壊れる過程の振る舞いの再現性を確認するために、より壊れやすい温度(600K)のより短時間の高温分子動力学シミュレーションも行ったので、その結果も記述する。結果を要約すると、(1)蛋白質分子全体の大きさは、今回行ったシミュレーション時間内では、大きく増大することはなかった。(2)主鎖の原子の座標を用いて計算したrmsdの値は増大したが、やはりその度合いは小さかった。これら2つの結果は、これらのシミュレーションによって、蛋白質分子は変性状態には至らず、変性の初期過程のみが見えていることを示している。また、(3)400Kのシミュレーションおよび600Kのシミュレーション(6本)の内の4本でスレオニン29近傍の構造の壊れが観察された。この構造変化の詳細は、スレオニン29番とイソロイシン101番との間、スレオニン29番とロイシン105番との間の残基間接触が失われ、その結果生じた隙間に溶媒の水分子が浸入するというものであった。また、スレオニン29番の周辺の構造変化とは別に、(4)N末端近傍の構造の大きな壊れが400Kのシミュレーションと、6本中3本の600Kのシミュレーションにおいて観察された。以前の我々の研究により、組換え体のヤギα-ラクトアルブミンのN末端に付加されたメチオニンによって構造が不安定化し、その不安定化はアンフォールディング速度が増大することによることが示されている。今回のシミュレーションの結果は、この実験的研究結果とよく対応するものである。

 このように、高温分子動力学シミュレーションによって複数の実験結果と定性的に矛盾のない結果が得られた。故に、その他の部位がシミュレーションにおいてどのように振る舞ったのかを記述することも有益であると考えた。本論文中では、特に、α-ドメイン内の構造変化、及びドメイン間の接触面近傍の構造変化についての記述も行われている。さらに、本研究で採用された手法の妥当性についての議論も含まれる。

審査要旨

 本論文ではタンパク質折れ畳み機構をヤギα-ラクトアルブミンを試料として、折れ畳み反応速度を時間分解円偏光二色性測定法と分子動力学シミュレーションを用いて研究した結果について述べている。

 α-ラクトアルブミンはラクトース合成酵素の調節サブユニットとして機能する分子量14,200のタンパク質である。2つのドメイン(α-ドメインと-ドメイン)からなることがX線結晶構造解析で知られている。α-ラクトアルブミンはリゾチームの構造と高い相同性を持っている。これまで球状蛋白質の折れ畳み反応の研究の試料として最も多く用いられている蛋白質の一つである。その理由は、「モルテングロビュール状態が(1)緩やかな平衡変性条件下で安定に蓄積する(2)速度論的な折れ畳み反応の中間体としても蓄積する」などがある。複数の研究グループによる研究により、この蛋白質のモルテングロビュール状態は、(1)α-ドメインのヘリックスはほぼ形成されている、(2)側鎖間のパッキングは完成していない、(3)-ドメインの構造はα-ドメインに比べると大きく揺らいでいる、(4)変性状態とモルテングロビュール状態との間の転移は非協同的である、(5)α-ドメインの構造の主鎖のトポロジーは天然類似であり、それにはα-ドメイン内のアミノ酸による疎水相互作用が寄与している、などが分かっている。本研究では、モルテングロビュール状態で天然類似の構造的な特徴を獲得した部位(α-ドメイン)が、折れ畳み反応のその後の過程でどのように振る舞うのかに注目している。ヤギα-ラクトアルブミンのα-ドメイン内に4種類の単一アミノ酸置換(A30I,A30T,T29I,T33I)あるいは2アミノ酸置換した変異体(A30I+T33I)を作成し、塩酸グアニジンで変性させ、その際の平衡アンフォールディング転移曲線の解析し、スレオニン29番をイソロイシンに置換した変異体(T29I)の天然状態の安定性が野生型のそれと比較して変性中点付近で約3.5kcal/mol安定化していることが示した。このアミノ酸残基(スレオニン29番)を含め、測定を行った変異体のアミノ酸置換部位は、いずれも、ヤギα-ラクトアルブミンのα-ドメイン内のB-ヘリックス上にあり、疎水的な環境にある。T29I変異体と、A30I+T33I変異体の折れ畳み・変性速度を、塩酸グアニジンを変性剤としてストップドフローCD法で観測し、その速度定数の塩酸グアニジン濃度依存を測定し、T29I変異による天然状態の大きな安定化は、主に変性速度が遅くなることによることを見いだした。この結果は、同アミノ酸置換によってもたらされた変性自由エネルギーの変化と同様の変化が、折れ畳み反応の遷移状態と天然状態との間の自由エネルギー差にも存在することを示し、同置換部位の周囲の天然の立体構造が折れ畳み反応の遷移状態ではまだ形成されていないことを示唆していると解釈した。即ち、スレオニン29番の周囲の天然の立体構造は、折れ畳みの最終段階で形成されていると結論している。次に、折れ畳み反応における上述のアミノ酸置換部位の構造変化について、高温条件下でのタンパク質の変性過程を分子動力学シミュレーションで観察した結果蛋白質分子の大きさはシミュレーション時間内では、蛋白質分子は変性状態には至らず、変性の初期過程のみが見えているが、スレオニン29近傍の構造の壊れが観察された。これはスレオニン29番とイソロイシン101番との間、スレオニン29番とロイシン105番との間の残基間接触が失われ、その結果生じた隙間に溶媒の水分子が浸入した結果である。スレオニン29番の周辺の構造変化とは別に、N末端近傍の構造の大きな壊れが観察された。これは組換え体のヤギα-ラクトアルブミンのN末端にメチオニンを付加するとアンフォールディング速度が増大することにより構造が不安定化する事と符合する。このように、高温分子動力学シミュレーションによって複数の実験結果と定性的に矛盾のない結果が得られたたが、α-ドメイン内の構造変化、及びドメイン間の接触面近傍の構造変化についての記述も行われている。本研究で採用された手法の妥当性についての議論も含まれる。

 なお、本論文は共同研究の結果を記述しているが、論文提出者が主体となって研究したものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54773