台風に伴う風応力は、海洋上層の激しい混合をもたらすとともに、温度躍層以下の海水を混合層まで持ち上げる働きがある。これに伴って、海洋生物の繁殖につながる栄養塩の分布や、これらの生物を介した大気海洋間の二酸化炭素循環などが大きく変化する可能性がある。従来、このような台風に対する海洋上層の応答は、層モデルを用いた数値実験を中心に研究されてきたが、その多くは簡易的な混合過程のモデルを仮定しており、台風の通過に伴う海面水温の変化の機構などを明らかにするには甚だ不十分なものであった。本論文は、Mellor and Yamada(1982)のlevel 2.5モデルを改良した乱流クロージャースキームを組み込んだ、鉛直方向に高い分解能をもつモデルを用いて数値実験を行うとともに、簡単な線形理論に基づいた考察を加えることにより、台風の移動速度や初期の成層などに依存する海洋上層の3次元的な応答とこれに伴う海面水温の変化の機構を明らかにしたものである。 数値実験はf面上において東西に1000km、南北に2000km、深さ1800mの海洋を考え、初期の混合層の厚さがそれぞれ15m、25m、45mの場合に、台風に伴う風応力がそれぞれ2m/s、6.2m/s、12m/sで一定に移動するとして行った。但し、移動速度を変えた実験では初期の混合層の厚さは25mに、また、初期の混合層の厚さを変えた実験では、台風の移動速度は6.2m/sに固定した。 台風の移動速度が小さい(2m/s)場合、乱流強度は台風中心の右側で若干強いものの、ほぼ同心円状に分布する。この場合、湧昇流が台風中心の直下で強く、台風後面の乱流強度の大きい位置へ低温水が供給されるため、台風の移動速度が中程度(6.2m/s)の場合に比べ、乱流強度が弱いにもかかわらず、海面水温はより顕著に低下する。また、台風中心の左右では、混合のより弱い左側で湧昇流によって温度躍層が高く持ち上げられ、より多くの低温水が表層に運ばれて混合されるため、乱流強度は進路の右側で大きいにもかかわらず、海面水温の低下は中心のやや左側で大きくなる。台風の移動速度が中程度(6.2m/s)の場合には、移動速度が小さい(2m/s)場合と比べ、台風の右後方において強い乱流混合が見られる。ところが、この乱流混合の大きい位置には低温水が持ち上げられてこないために、この位置よりも台風の進路に近いところで海面水温が最も下がる。台風の移動速度が更に大きい(12m/s)場合は、乱流強度の大きい位置と湧昇によって温度躍層の持ち上がる位置が離れてしまうため、海面水温の低下には主として乱流混合しか寄与しなくなってしまう。一方、混合層の厚さを変化させた数値実験によれば、少なくとも現実的な密度成層の範囲では、乱流強度の鉛直分布は季節躍層の位置には大きく依存しないことがわかった。このため、混合層が厚く乱流強度の大きい領域へ季節躍層が届きにくい場合には、躍層を湧昇で持ち上げることが海面水温の変化に重要となってくる。 さらに、論文提出者は、混合層下端付近における湧昇流の励起機構が台風の水平スケールや移動速度にどのように依存するかを、線形論に基づいて考察した。その結果、台風による風応力の渦度を進路方向に波数展開したときの波数をk、台風の移動速度をU、コリオリパラメータをfとするとき、湧昇流の励起機構は、風応力の持つ波数分布がロスビー数R=Uk/fのどのような範囲で有意な振幅を持つかによって決まることがわかった。すなわち、風応力渦度の波数分布が主にロスビー数1以下の波数成分で構成されていればEkman pumpingに伴う湧昇流が台風の真下に現れる。一方、ロスビー数1の成分が有意に含まれていればinertial pumpingに伴う湧昇流は台風の真下から距離(U/2f)だけ後方の位置に生じ、さらに、またその後方には近慣性周期の鉛直振動が現れることになる。 以上、論文提出者は、鉛直方向に高い分解能をもち、信頼性の高い乱流混合スキームを組み込んだ数値モデルおよび簡単な線形理論に基づき、台風によって励起される海洋上層の乱流混合と湧昇流との3次元的な空間分布の相対的位置関係が海面水温の変化にとって本質的に重要であることを明確に示すとともに、この湧昇流のピークと台風中心の位置関係が風応力渦度の進路方向の波数スペクトルの分布と移動速度の兼ね合いによって決まることを明らかにした。この結果は、さまざまなサイズ、強さ、移動速度をもった台風に対する海洋上層の応答機構を統一的に説明することに初めて成功したばかりでなく、海洋中における生物環境や物質循環過程への台風の影響を評価する際に有益な情報を与えるものとして高く評価できる。なお本論文の第2章および第3章は、東京大学海洋研究所の木村龍治教授、新野宏助教授との共同研究の成果であるが、論文提出者が主体となって数値計算やデータ解析を行ったものであり、その寄与が十分であると判断できる。 よって、審査員一同は、論文提出者が博士(理学)の学位を授与されるに十分な資格があるものと認める。 |