本論文は6章からなり、第1章では本研究の背景について、第2章では本研究の実験手法ついて、第3章では有機薄膜成長に対する基板温度の依存性について、第4章ではパルス分子線手法により解明した核生成に対するモノマー濃度依存性について、第5章では成長核サイズに及ぼすパルス分子線の影響について、そして第6章では本研究のまとめについて述べられている。 近年有機薄膜は、光学的なあるいは電気的なデバイスの材料として、様々な分野において関心の対象になっている。分子線エピタシー(MBE)は薄膜の厚さや結晶性の制御が可能な点で優れた薄膜製作手法で知られているがMBEで製作可能な有機薄膜は限られていた。特に低分子量の有機分子の場合には、その高い蒸気圧のため室温ではその薄膜は得にくかったが、本研究では成長温度を下げることにより、MBE成長させることを試みた。 高い蒸気圧を持つ有機分子としてはコロネン(C12H24)を用い、基板物質にはMoS2,MoTe2,白雲母それに水素終端化したシリコン(H-Si)を用いた。成長温度300Kと115Kで成長した膜の結晶性を、反射高速電子線回折法(RHEED)で調べた結果、H-Si基板上では成長温度が115K場合のみその吸着が観察され、1層まではエピタキシャル成長し、多層になると非晶質に成長するのが分かった。基板がMoTe2の場合には300Kの成長温度においては三次元的に成長するのが観察されたのに対し、115Kの成長温度においては最初から非晶質になった。またMoS2の基板上には両成長温度においてエピタキシャル成長したが、低温の成長温度の場合にはエピタキシャル成長は厚さ10分子層まで続いた。一方、基板物質が白雲母の場合にはどの成長温度においてもコロネンの吸着は観察されなかった。 成長温度の変化と成長様式の変化の関係を理解するためコロネンが基板に吸着する際の安定化エネルギーをuniversal force filedを用いた分子力学計算で求めた。観測された吸着性の度合いは、分子力学計算で得られた安定化エネルギーの大きさの順にほぼ一致したが、H-Siと白雲母の差を十分には説明できなかった。これは、原子ごとのパラメタを用いた分子力学では基板の物性を考慮しなかったためだと考えられる。基板の物性を考慮するためには、分子の誘電率を導入したLifshitz理論を用いれば、実験結果を説明できることが判明した。 有機薄膜形成時の動的過程を明らかにし、有機薄膜成長をより高度に制御する道を見いだすために、パルス化した分子線を用いて薄膜成長を行った。実験はパルスの幅、サイクル時間を変えつつ一定の分子線を照射し、原子間力顕微鏡観察により、形成された結晶核の密度を測定した。用いた有機物質はキナクリドン(C20H12N2O2;QA)とAlq3(C27H18AlN3O3)で、基板物質にはNaClとKClを用いた。クヌッセンセルからの分子線は、回転チョッパによりパルス化した。 観察される核密度は、一定の面積に形成される安定な核の数である。入射するモノマーがその滞在時間内に他のモノマーと会合し、臨界核以上の大きさの核になると、安定な核になる。すなわち生成する安定核の数は、臨界核の大きさとモノマーの供給の程度により調節されることになる。 パルスのサイクル時間を適切に選ぶと、基板がKClの場合にのみQAの核成長が観察され、NaCl上にはまったく核成長が起こらないことが見い出された。この結果は、分子線のパルス化により、対象物質の完全な基板選択性が実現できることを意味している。NaCl上にQAの核形成が起こらなかったのは、基板上のモノマーの短い寿命のため核に成長するのに必要な臨界核が形成するまえに基板から脱離したためだと思われる。Alq3の場合は、サイクル時間を種々調節しても、NaCl基板上のAlq3の核密度をゼロにすることはできなかった。QAと異なってAlq3の場合toffの時間が長い場合でも核が形成されたのは、QAより核形成が速やかに起こるためだと考えられる。NaCl基板上で形成されたAlq3のクラスターの大きさを調べた結果、サイクル時間が長くなるにつれクラスターの大きさは短くなった。またクラスターの大きさの分布を制御することも可能であることがはっ瞑した。すなわちAlq3の薄膜においてはサイクル時間を変えることにより、クラスターの大きさを揃えたり、その長さを制御することが可能であることが分かった。 以上述べたように,本論文によって,蒸気圧の高い有機物質についてもMBE法によりエピタキシャル薄膜を作製する道が拓かれた。また、パルス化した分子線を用いることにより、有機薄膜の成長をより高度に制御する可能性が明らかにされた。なお、本論文の第3〜5章は、島田敏宏氏、櫻井正敏氏、および小間篤氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって,博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める。 |