学位論文要旨



No 115016
著者(漢字) 遠藤,理
著者(英字)
著者(カナ) エンドウ,オサム
標題(和) 銀単結晶電極表面上のハロゲン特異吸着
標題(洋) The specific halogen adsorption on the silver single crystal electrodes
報告番号 115016
報告番号 甲15016
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3780号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 小林,昭子
内容要旨

 金属電極表面上のハロゲン吸着は、静電的相互作用ではなく化学結合力によるものと認識されており、水和イオン状態での吸着と区別して特異吸着あるいは接触吸着と呼ばれている。接触吸着するイオンは電極反応の阻害や促進に関わっており、電気化学的な手法によって多くの研究がなされてきた。また近年になって単結晶表面上の吸着構造の直接的な測定手段が確立し、様々な吸着構造が明らかとなるにつれて、一般的な吸着系の物理的モデルとしてとらえた研究も報告されてきている。接触吸着では本質的に金属とハロゲンとの相互作用が重要なので、超高真空中の金属表面上のハロゲン吸着と類似していることが考えられる。実際、両者で同様の長距離秩序をもった構造が幾つか報告されている。しかしながら、電極界面には超高真空表面とは全くことなる二つの要因がある。すなわち、水分子およびイオン種が存在することと電極電位の制御が可能であることである。両吸着系の類似点と相違点を整理することによって電極界面を特徴づけるこれらの要因の影響を見積もれば、電極界面の理解がさらに進むことが期待される。本研究では(1)銀(100)および(111)単結晶電極表面上の臭素原子吸着系についてその場観察(in-situ)のX線吸収微細構造(XAFS)によって吸着原子と基板との結合様式を議論した。次に(2)超高真空中で銀(100)面および(111)面上の臭素原子吸着系をUHV走査トンネル顕微鏡(STM)で室温観察して吸着構造を明らかにするとともに原子の移動度に関する考察を行った。さらに(3)超高真空中の銀(100)面上の塩素原子吸着について、塩素のみの吸着系と水分子共存系をUHV-XAFS測定によって局所構造解析を行い、電極界面における水分子の役割を調べた。さらにこれまで観測されている電極表面上の吸着系との類似点、相違点を明らかにした。電極としての銀単結晶は白金や金などと比較すると、その活性の高さからあまり研究例は多くはないが、白金などとは異なるハロゲンとの相互作用を明らかにすることは意義深く、ハロゲン化物生成、触媒作用との関連をもった興味深い系である。

1.Br/Ag(100),Ag(111)電極界面局所構造のin-situ XAFSによる研究

 図1(a)に臭化物イオンを含む溶液中の銀(100)電極及び(111)電極のサイクリックボルタモグラム(CV)を示す。臭化物イオンは-1.5V付近から吸着し始め、正電位側でより多く吸着する。(100)面では、-0.6V付近に存在するピークが臭素の吸着構造が無秩序相からc(2x2)の長距離秩序相へ転移する際に起きる被覆率の変化分に相当することが表面X線回折の結果によって明らかとなっている。一方(111)面では0.0V付近に存在するピークの正体は明らかとなっておらず、高電位側では(7x7)R21.8°の構造がやはりSXSによって報告されている。in-situ XAFS測定は物質構造科学研究所・放射光研究施設BL-12Cにて蛍光X線収量法で行った。測定用のセルは自作した。散乱X線を避けるため全反射入射条件を用いs偏光、p偏光の二つについて図中の電位で測定した。図1(b)にNEXAFSスペクトル、図1(c)にEXAFSフーリエ変換スペクトルを示す。(100)面c(2x2)相で入射X線の電気ベクトルが表面垂直なp偏光のNEXAFSに水和臭化物イオン、臭化銀には見られない肩が存在する(縦実線)。この肩は臭素の最外殻軌道への遷移と考えられるので、臭素はイオン性を一部失って銀と共有結合的に結合していることを示している。EXAFSの解析の結果、Br原子はホローサイトに吸着し結合距離はR(Br-Ag)=2.82±0.05Åと求められた。この距離はバルク臭化銀中の臭素銀間距離2.89Åよりも短く、臭素-銀が共有結合的性格を持っているというNEXAFSの結果と矛盾しない。一方(111)面ではピークの前後でX線蛍光収量が変わらず、ピーク電流が臭化物イオンの吸着脱離によるものではないことが明かとなった。(100)面と同様にNEXAFSでは臭化物イオンよりも低エネルギー側に吸収が見られ、共有結合の性格を示している。またEXAFSの解析の結果、低電位側では結合距離がR(Br-Ag)=2.73±0.05Åであること、吸着サイトが主にホローサイトであることが分かった。一方高電位側では偏光方向によって二種類の異なる距離が求まり、表面の再構成が起きていることを示唆する結果が得られた。

図1.Br/Ag(100)及びAg(111)in-situ XAFSの結果
2.Br/Ag(100),Ag(111)吸着構造のUHV-STMによる研究

 UHV-STM測定はOmicron社製のLEED,AESを備えたチャンバーで室温に於いて行った。これまでBr/Ag(100)系のLEEDパターンにはc(2x2)が存在することが報告されていた。このc(2x2)相よりもさらに吸着量を増やしたところ、図2(a)のようなストリークパターンを得た。図2(b)がc(2x2)相の室温STM像である。LEEDでストリークが観測される表面上でも大部分は同じ像が得られる。この像からc(2x2)相は単純吸着構造であることが分かり、これは電極上の構造モデルと同一である。一方、高吸着量相は電極上では報告されておらず、相当する明瞭なSTM像は得られなかったものの金上の臭素から類推して圧縮した吸着相と考えられる。

 (111)面では被覆率によって(√3x√3)R30°(中開の被覆率)と(3x3)(高被覆率)が報告されており、両相ともに室温付近の温度で低温の秩序相から無秩序相へ転移することが明らかとなっていた。図2(c)は(√3x√3)R30°相と(3x3)相が共存する表面のSTM像である。左半分は(1x1)格子、右半分は(3x3)格子である。被覆率に対する出現相の変化から考えて(1x1)格子が(√3x√3)R30°相の表面と考えられる。このようにLEEDパターンが観測されるにも関わらず、STMでは下地格子の像のみが得られることから臭素原子の移動度が高く、針の影響を受けやすいか、もしくはSTMの観測時間よりも早くLEEDの観測時間よりは遅い時間でアイランドが生成、消滅していると解釈できる。一方、右半分の(3x3)相では超格子が明らかに観測されるものの、原子像を得ることはやはり難しい。このことから(3x3)格子を組みながらも狭い範囲内での移動度が大きいものと解釈できる。図2(d.1)(d.2)は(3x3)相の拡大像。これらのSTM像から吸着相は、ある場合には格子定数が下地の3/2倍の周期をもち整合した六回対称格子を組んでおり(d.1)、またある場合には3〜4個の原子が固まりをなす(d.2)というように動いていることが分かる。これらの原子移動度の高さが無秩序の原因となっていると考えられる。対応する電極表面上の臭素吸着系では、in-situのAFM観測で(3x3)格子像が、ex-situのLEEDで(√3x√3)R30°パターンの報告があり超高真空吸着との類似点もみられるが、in-situ SXSでは(7x7)R21.8°、またEXAFSでは表面の再構成を示唆する結果であり、両者は異なっている。

図2 Br/Ag系(a)(100)面ストリークLEEDパターン(b)STM像(100)面c(2×2)相 50Å×50Å(c)(111)面(√3×√3)R30゜ +(3x3)共存表面 60Å×200Å STM像(d)(3x3)相拡大STM像 30Å×40Å
3.Cl/Ag(100)水分子共存効果のUHV-XAFSによる研究

 Cl/Ag(100)系はBr/Ag(100)系と同様、超高真空中でc(2x2)相を生じることが報告されていた。電極界面の吸着との比較、並びに界面における水分子の役割の見積もりを目的としてCl/Ag(100)系及び水共存系のXAFSによる構造解析を行った。実験は物質構造科学研究所・放射光研究施設BL-11Bにて蛍光X線収量法で100Kに於いて行った。

 図3(a)はCl/Ag(100)c(2x2)相のEXAFSフーリエ変換スペクトルである。直入射では電気ベクトルがほぼ表面平行、斜入射では垂直となる。解析の結果塩素の吸着サイトはホローサイトで、Cl-Agの結合距離は2.64±0.03Åと求められた。この距離は塩化銀中のCl-Ag間距離2.77Åよりも短くin-situのBr-Agと同様の傾向を示している。NEXAFSでも1s→3pの遷移が観測された。また第二配位は塩素原子である二とが分かり、距離は4.06±0.05Åと求められた。これらの結果から吸着相は図4(a)のような単純吸着構造であることが確かめられた。図3(a)点線にシミュレーション結果を示す。この上に100Kにおいて数分子層の水を吸着させたところ、スペクトルが図3(b)のように変化した。EXAFS全体の振幅が弱くなっており、解析の結果距離は第一配位が2.70±0.03Å、第二配位が3.90±0.05Åと求められた。これらの結果は40%が塩化銀になり系全体が不均一化したとして解釈できた。実際、図4(b)のようなモデルを組んでスペクトルをシミュレーションしたところ図3(b)点線のように実験結果を良く再現した。塩化銀生成は次のように解釈できる。すなわち、超高真空表面に塩素原子と水分子が吸着した系は、電極界面中の内部ヘルムホルツ面までのモデルとなる。外側に陽イオンが存在しないので、この擬似的な電極の電位は塩素吸着相のみで決定される。この電位が銀の酸化にとって充分であるので、銀の水分子相への溶け出しが起きて塩化銀を生成し、また塩化銀生成がすすめば電位は下降するので、ある程度生成したところで反応は止まり系は混合物の状態となる。

図3 Cl/Ag(100)c(2x2)相、同水共存系EXAFSフーリエ変換スペクトル図4 Cl/Ag(100)c(2x2)相、同水共存系構造モデル
審査要旨

 本論文は6章からなる。第1章は序論であり、本論文の主題である金属電極表面上でのハロゲン吸着構造の研究の意義が述べられている。ハロゲン吸着は水和イオン状態での吸着と異なり、化学結合力によるものとされ、これまでにも様々な構造解析が行われている。しかし、これらは専ら長距離秩序を観ているものであり、化学結合状態を直接調べる上ではX線吸収微細構造(XAFS)分光が優れた手段であることを述べている。また、電極表面と超高真空中での金属表面ハロゲン吸着との類似点、相違点も興味のある課題であり、これについてもXAFSが有効な手段として活用できることを述べている。

 第2章は実験に用いたXAFSとSTMについてその測定の原理と得られる情報が述べられている。

 第3章では、Ag(100)およびAg(111)面上Br吸着のin situ XAFS研究について、その実験と得られた結果が詳細に記述されている。電極表面in situ XAFS実験のために、S-偏光、p-偏光での全反射XAFS測定可能な実験装置が開発された。この装置では、in situでサイクリックボルタモグラム(CV)の測定も可能にしている。Br/Ag(100)系では-0.6Vより正側で無秩序相からc(2x2)対称性を持つ秩序相への転移が起こる。この秩序相でのBrの局所構造をBr K-XAFSによって解析した。その結果、Brはfourfold hollowサイトに吸着し、Agとの結合距離R(Br-Ag)=2.82Åで、バルク臭化銀の2.89Åより短く、共有結合性が強いことを示している。一方、Br/Ag(111)系ではCVに-0.8Vの幅広いピークと-0.05Vの鋭いピークが現れる。CVの電位に対するBr-K吸収端の高さの変化から表面のBr濃度を見積もると、-0.05VのピークはBrがさらに吸着したのではなく、表面での再構成によるものであることを示唆している。Br K-XAFSを-0.05Vのピークの前後で測定し、それぞれの構造を解析した。その結果、ピークより下では、threefold hollowサイトに吸着した構造をとるが、ピークより上ではAg原子がBr原子の高さまで移動し、表面にAgBrの前駆状態を形成した構造をとることを明らかにした。

 第4章では、LEEDと超高真空STMによるBr/Ag(100),Ag(111)の観察について記述している。清浄なAg単結晶表面に臭素ガスを被覆量を制御してドースし、LEED観測によって表面周期構造を調べ、それぞれのLEED構造に対応するSTM像の観察を行っている。Br/Ag(100)飽和吸着はc(2x2)構造を示し、第3章で述べた電極界面上と同じ構造を示すことが分かった。一方、Br/Ag(111)系では、被覆量を増すと(劫3x劫3)R30°構造から(3x3)構造へと相転移を起こす。両者が混在した状態のSTM像では、基板の原子像が見えている部分と(3x3)相の像が観察された。このことは(劫3x劫3)R30°相はSTMでは観測できないほどBrが動きやすいことを示している。一方、(3x3)相は6回対称格子を基本にして、Br原子がその周囲をわずかに揺動している吸着構造であり、従来から提唱されているハニカム構造ではないことを明らかにした。

 第5章では、超高真空下、Cl/Ag(100)系で水が共存することで表面局所構造がどのように変わるかをCl K-XAFS測定によって調べた結果を記述している。まず、c(2x2)Cl/Ag(100)のClの局所構造を解析し、これまで報告されているClの吸着構造を再確認した。そして、この上に水を数層吸着させた系でのCl K-XAFS測定から、大きな構造変化が起きていること、これは表面の一部がAgClに変わったためとして解釈できることを示している。そして、このような変化を擬似的な電極界面と考え、塩素吸着によって界面の電極電位が高くなり、吸着した水の相の中に銀がイオン化して溶けだした後、部分的に表面にAgCl相を形成するとして解釈している。

 本論文は銀電極上の臭素、塩素が吸着した特異な化学結合状態を、自ら設計製作した電気化学セルを用いてXAFS法によって調べたものであり、電極界面での結合の様子を初めて明らかにしたものとして、電気化学への寄与は大きい。

 なお、本論文は太田俊明、横山利彦、近藤寛、木口学、伊藤正時、与名本欣樹等との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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