学位論文要旨



No 115018
著者(漢字) 小林,好真
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ヨシマサ
標題(和) 細胞膜作動性生理活性物質の膜表裏分布に関するNMR観測
標題(洋)
報告番号 115018
報告番号 甲15018
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3782号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 教授 嶋田,一夫
内容要旨

 細胞膜を構成する脂質二重膜は一般に、二重膜の内葉と外葉で脂質組成が異なっており、この脂質の非対称分布が膜作動性生理活性物質の活性発現に際して重要な役割を果たす例が数多く知られている。そうした膜作動性物質のうち、ペプチド・タンパク性活性物質に関してはこれまで、分子の膜表裏分布の研究に蛍光分光が積極的に用いられてきた。しかし、分子量数百以下の膜作動性低分子については、蛍光ラベルが活性分子全体の極性や挙動に及ぼす影響が無視できないためこの方法の適用は問題を残し、作用機序研究の立ち後れの要因となっている。

 本研究では、そうした脂質二重膜表裏分布が活性発現の鍵となる膜作動性生理活性低分子に関する研究を行なった。修士課程においては、ヌノサラシ科魚皮膚毒リポグラミスチン-A(1;LGA)がヒト赤血球に対して強力な内方陥没型変形誘発活性を有すことを見出し、そのメカニズムについては、化学誘導体を用いた構造活性相関から、内葉に酸性脂質が局在している赤血球脂質二重腹中でLGAが静電相互作用により膜内葉により多く蓄積し膜を内方に歪曲させるためと推測した。しかしながら、蛍光ラベル法が適用困難であることから、その分光学的確証は得られなかった。そこで本博士課程においては、まず低分子生理活性物質一般に適用可能な膜表裏分布の分光評価法の開発を目的とした研究を行なった。すなわち、このような低分子に対して13Cラベルを施すことで、NMRによる膜表裏分布観測が可能と考え、その実験系の確立を試みた。次に、その手法を応用してLGAの赤血球変形誘導メカニズムの分光学的確証を得ることを目指した。

 

十分なNMR分解能を与える表裏脂質非対称分布リポソームの調製

 [表裏脂質非対称化法]まず、赤血球膜モデルを得るため、人工脂質二重膜小胞(リポソーム)に表裏脂質非対称分布を導入する方法について検討した。いくつかの既知法を検討した結果、最終的にpH勾配法がNMR観測に望ましい比較的小径のリポソームに適用可能であった。pH勾配法とは、酸性脂質を含むリポソームの内外にpH勾配(外液pH=2,外液pH=9)を与えて昇温し、濃度勾配によるH+輸送担体となりうる酸性脂質のみを選択的に二重膜内葉にフリップさせることで脂質非対称分布を得る方法である。ここで、種々の改良条件を検討した結果、常温で安定な非対称性を有す粒径50-100nmのリポソームを得ることが出来た(表1)。酸性脂質の表裏存在比は、リポソーム表面電位を蛍光プローブを用いて定量することで決定した。項目5の条件で得た非対称リポソーム懸濁液の13C NMR(125MHz)において、内外葉のPC分子のコリン残基のメチルシグナルが常磁性シフト試薬(Pr3+,Dy3+,Fe(CN)63-)の外液への添加によって識別可能であった。

 

表1.一枚膜リポソームへの脂質非対称性の導入

 [膜作動性生理活性物質への応用]塩基性分子である人工精神安定剤クロルプロマジン(3;CPZ)は、内葉に酸性脂質が局在している赤血球脂質二重膜中において静電相互作用により膜内葉により多く蓄積することが示唆されているものの、分光学的には観測されていない。そこで今回、表1,項目5の条件で調製した非対称リポソーム懸濁液に、13CH3化CPZ誘導体(4)およびシフト試薬Pr3+を添加し、4の表裏分布の時間変化を13C NMRで追跡した。その結果、リポソーム内葉への酸性脂質非対称分布に依存した4の外葉から内葉への移動速度の上昇が観測された(図1)。

図1.Pr3+を外液に添加したLUV(粒径50nm)中における13CH3ラベル化クロルプロマジン(4)の13C NMRスペクトル時間変化。(a)脂質組成EggPCのみ(b)脂質組成EggPC/EggPA(10:1).EggPAを内葉に偏在
固体NMRの利用

 [分解能の向上]従来、溶液NMRでは、運動性が比較的高いことで異方性の小さい粒径20nm程度のSUV(small unilamellar vesicle)を対象とすることで、リポソームのNMRシグナルの著しい広幅化を避けてきた。また、固体NMRでは、懸濁媒量が少なく試料の流動性がほとんどないMLV(multilamellar vesicle)に対しマジック角回転(MAS)や交差分極手法を適用することでスペクトルの改良を行なってきた。しかし、本研究で対象となるのは脂質表裏非対称性分布を安定に有する一枚膜、すなわち粒径が50-100nmの「中径の」リポソームであり、液体・固体どちらのNMR研究からも対象外となってきた系である。

 今回、こうした試料に対する固体NMR手法の有効性を検討した。固体NMR専用機はその試料管の気密性もしくは再利用性に難点があるため、流動性の高い中径リポソーム懸濁液は実用上測定困難である。しかしこの点は、固相合成試料測定の目的で最近開発されたSR-MASプローブ(日本電子)とその試料管の転用により克服できることが判明した。

 検討の結果、中径リポソームに対しては、比較的低速度のマジック角回転(〜1kHz)と高出力プロトンデカップリング(DD;>100Hz)を施すことで溶液NMRに比して高分解能が得られることが判明した。分解能向上への寄与は高出力プロトンデカップリングが主であった。LGAの13CH3ラベル体(2;LGAと同等の内方陥没型赤血球変形活性誘発活性を保持)を添加したリポソームをこの条件で測定した結果、溶液NMRでは観測不可能だった13CH3シグナルを明瞭に観測することが可能となった(図2で*で示したシグナル)。ここで得られた分解能は、一般的に膜表面の13Cラベル化生理活性物質のシグナル判別に十分なものと考えられる。

 [脂質二重膜でのLGA誘導体の表裏分布]表1,項目5の条件で調製した非対称リポソーム懸濁液に2およびシフト試薬Dy3+を添加したサンプルを、図2(b)のNMR条件で測定した。その結果、リポソーム内葉へ酸性脂質非対称分布を導入すると内葉への2の分布が増加する現象が観測された(図3)。このことから、酸性脂質が内葉に非対称分布することが知られる赤血球膜中においても、LGAが内葉に優先的に蓄積することが示されたと言える。

図表図2.13CH3ラベル化リポグラミスチンA(2;0.6mg)を含むEggPC LUV(7.5mg,粒径50nm)の13C NMRスペクトル(a)溶液NMR(125MHz,9175scans).(b)DD-MAS NMR(75MHz,1124scans). / 図3.Dy3+をリポソーム外液に添加したLUV(EggPC/EggPA(10:1),粒径50nm)中における13CH3ラベル化クロルプロマジン(4)の13CDD-MAS NMR(a)EggPAは表裏対称分布(b)EggPAを内葉に偏在
結論

 1、酸性脂質の非対称膜表裏分布を安定に有する中径のリポソームを高濃度に調製することに成功した。

 2、中径のリポソーム懸濁液に対して固体NMRの測定手法を適用することで13C NMRの高分解能化に成功し、その結果、中径リポソーム上の13Cラベル低分子のシグナルが明瞭に観測可能になった。

 3、中径リポソーム懸濁液の固体NMR測定実験には、固相合成用に開発されたSR-MASプローブおよびその試料管の転用が有効であることが分かった。

 4、1-3に確立した実験系により、適用に問題がある蛍光ラベル法を用いずとも膜作動性低分子についても膜表裏分布の観測が可能になった。

 5、内方陥没型赤血球変形活性を呈する生理活性物質について、脂質非対称リポソーム中の13Cラベル体の膜表裏分布を観測した結果から、脂質二重膜の内葉の酸性脂質偏在に依存して活性分子も内葉に優先分布することが明らかなった。これは膜作動性生理活性物質による赤血球形態変化が、分子の表裏非対称分布によって引き起こされるとするbilayer couple仮説を裏付ける初めての直接観測結果である。

 6、本研究により確立されたNMR評価系は、これまで立ち後れていた低分子膜作動性物質の作用研究に大いに役立つことが期待される。

審査要旨

 本論文は第1部から第4部に分けられた全19章と、結論である第5部より構成され、一群の生理活性低分子による細胞の形態変化という巨視的現象に関して、電荷の異なる細胞膜構成脂質の表裏不均等分布に起因するここでの活性分子の偏在によるとして説明されていた従来の説を、細胞膜モデル上での活性分子の分布変化を核磁気共鳴(NMR)により実際に「観る」ことで証明した経緯について述べたものである。

 序論である第1部ではこの従来の仮説に関する説明を中心とした研究の背景に続き、これを受けた本研究の目的と研究方針が明確に位置付けられている。第2部でまず研究方針の妥当性を実験的に検証しており、以後の実験が正当化されている。第3部ではまず構成脂質分子が表裏で不均等に分布した細胞モデルを作成する既存の手法から本研究目的に適したものの選択を検討した結果、この一つからの改良により本論文提出者独自の同モデル作成法の発明に至った経緯が述べられている。続いて、これを用いたNMR測定により、向精神薬であるクロルプロマジン(1)により赤血球が内方陥没するという既知の現象が、本分子の細胞内層への偏在によるという従来説を、脂質二重膜の内外各層に結合した本分子の13C同位体を導入したメチル誘導体を、同共鳴スペクトル上の別の位置に分離観測することで証明するに至った事実が述べられており、これにより当初の目的が達成されている。引き続く第4部にて、論文提出者が修士課程で研究対象とした魚類の対捕食防御外分泌分子であるリポグラミスチンA(2)による赤血球への同様の作用に関し、第3部で考案した方法を適用することへの試みに関して述べている。ここでは本目的達成のためのNMR測定法の最適化を追究しており、本研究で開発された方法論の一般性と適用限界が明確にされている。

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 以上の第2〜4部を構成する各章はそれぞれ、個々の実験の位置付けである序、読者による追試を可能とする具体的実験手順、および実験結果とこれに対する考察からなっており、本研究の流れが平易に読みとれる論文構成になっている。結論が箇条書きになされている第5部では、本研究による新規な知見の範囲が明確になっており、これらが本研究分野にいかに寄与するかに関する主体的意見で結ばれている。

 以上本論文の研究内容は、生体膜に結合した低分子の挙動に起因する生物現象を、分子を分光学的に観測することで説明、または証明し得る方法論を新たに構築し、実験データによりこの有効性を示したものであり、関連分野の研究に大きく貢献するものと判断できる。なお、本論文に記された実験と考察は全て論文提出者が主体となって行なったものであり、その寄与は十分である。

 よって、本論文提出者である小林好真は、博士(理学)の学位を授与される資格があるものと認める。

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