学位論文要旨



No 115021
著者(漢字) 松井,文彦
著者(英字)
著者(カナ) マツイ,フミヒコ
標題(和) シリコン表面の炭化及び酸化初期過程における分子性吸着種の挙動
標題(洋) Molecular adsorbates on the Si surfaces:Initial stages of carbonization and oxidation
報告番号 115021
報告番号 甲15021
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3785号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 助教授 吉信,淳
内容要旨 緒言

 現代の情報化社会を支える数nm厚のSi酸化膜や耐熱性に優れるSiCなどの薄膜作製・微細加工には,原料分子の吸着・分解における分子レベルでの制御が求められる。しかし、有機分子やO2分子がSi表面へどのように吸着し解離あるいは脱離していくかという、基本的な表面化学の問題は未だ解明されたとはいえない。X線吸収分光法(NEXAFS)と光電子分光法(UPS)は吸着分子の詳細な電子構造の情報を与える有力な手段である。本研究では同手法を用い、Si表面上のC2H2、C2H4及びC6H6の吸着過程を系統的に調べ、分子種・表面構造の差異と吸着機構の関係を電子状態の面から明らかにした。また、Si表面の初期酸化過程をNEXAFSにより調べ、O2分子吸着種の存在を確認した。O2吸着種の時間変化を詳細に調べ、初期酸化と解離反応機構に関する知見を得ることができた。これらの結果より得られた知見はSi表面上の炭化や酸化過程のみならず、様々な機能性有機分子の吸着によるSi表面の修飾やSiC表面の酸化膜形成過程を理解する上でも重要である。

Si表面上への炭化水素分子の吸着

 C-K吸収端NEXAFSとUPSにより、C2H2とC2H4がSi(001)2×1表面上に吸着する際、吸着種のLUMOとSi表面上のダングリングボンドとの相互作用から"di-結合"が形成されることを確認した。C2H2とC2H4は再混成し、それぞれC2H4とC2H6に似た構造となる一方、下地のSiダイマーの結合は保持され、Siはゆがんだ四配位構造となることを明らかにした[Fig.1]。

Fig.1 The structure models for C2H2 and C6H6 chemisorbed on Si(001)2×1.Open,solid,and gray circles indicate carbon,hydrogen,and silicon atoms,respectively.

 この場合、Siダイマーの結合へのC2H2やC2H4の割り込みでSiの歪みをなくすよりも、Siのダングリングボンドを解消する方が優先されていることが分かる。

 Si(001)2×1表面上にはダイマーが密に並ぶため、室温では吸着種は互いに反発し、ひとつ置きに吸着するが、低温で大量にC2H2あるいはC2H4を曝露させるとすべてのダイマーに1:1で飽和吸着させることができる。Fig.2はC2H2及びC2H4を種々の温度で吸着させて測定したC-K吸収端NEXAFSスペクトルである。多層膜(60K)のスペクトルの鋭いC-C*のピークは、化学吸着層(300K)では半減(C2H2)あるいは消滅(C2H4)し、新たな結合の形成を反映してC-Si*のピークが現れる。70〜90Kでは二つの吸着種が共存することも見出した。面白いことにC2H4の場合、両吸着種の分子面が互いに直交して配向する様子が偏光依存性の測定から明らかになった。吸着種間相互作用によって化学吸着種が"物理吸着種"をトラップしているものと考えられる。

Fig.2 C K-edge NEXAFS spectra of C2H2 and C2H4 chemisorbed on Si(001)2×1 at various temperatures.

 さらにSi(111)7×7表面上の吸着やC6H6の場合との比較を行なった。Si(111)7×7表面上のC2H2とC2H4の吸着でもSi(001)2×1表面と同様、NEXAFSでC-C*からC-Si*が生じており、"di-結合モデル"を支持する結果を得た。しかし、Si(111)7×7表面のダングリングボンド同士はSi(001)2×1表面の場合の倍近く離れており、C2H2やC2H4のCC結合に比して長い。Fig.3のUPSスペクトル等から120KでのC2H2の吸着によってAdatom(S1)やRest atom(S2)のダングリングボンド、及びバックボンド(S3)のピークが同時に減少するのがわかった。C2H2の吸着の際、AdatomのSi原子が吸着種に引き寄せられることを示唆している。120Kと300Kでの温度による吸着種の電子構造の変化も観測した。室温ではさらにAdatomの構造が崩されていく様子がわかった。一方C6H6の吸着ではFig.5に示す様にS3への影響は小さい。C-C間距離の充分長いC6H6の場合,Si基板に歪みを与えることなく吸着することができると考えられる。

 またNEXAFS-UPSからC6H6もSi(001)2×1表面上でやはり"di-結合"を形成してダイマー上に吸着し、その際、芳香性は失われ1,4-C8H6とよく似た電子状態を示すことが分かった[Fig.1]。他方Si(111)7×7表面上ではSi(001)2×1表面の場合とは対照的にC6H6の芳香性が保たれる[Fig.4]。C6H6とSi(001)2×1表面との組み合わせでは、Siのダングリングボンドの解消と引き換えにC6H6の芳香性が失われるが、ダングリングボンド間がC6H6より若干長いSi(111)7×7表面では、C6H6は大きく再混成するよりも芳香性を保つ方が安定で、基板との相互作用も小さいものに留まる、と考えられる。実際、C6H6がSi(111)7×7表面上で弱く吸着し、容易に拡散や分子脱離をおこす様子が報告されているが、これら事実をうまく説明することができる。

図表Fig.3 UPS spectra of(a)the clean Si(111)7×7 surface and(b)-(h)with different dosage of C2H2 at 120 K.(i)Subsequently substrate temperature were risen to 300K.Photon energy was set to 21,2eV. / Fig.4 The structure mode1s of C2H2 and C6H6 on Si(111)7×7.Same scale is used as in Fig.1.
Si表面への酸素分子吸着

 Si(111)7×7表面の初期酸化過程においてこれまでに振動分光や光電子分光を始めとする様々な手法で分子性前駆体の存在が報告されてきた。しかし、その構造や分解過程に関して諸説錯綜しているのが現状である。これは原子状と分子性の吸着種を明確に区別する測定手段が少ないことに起因する。一方、O2はSi表面へ解離吸着し、分子吸着種は存在しないという、ab initio計算結果が最近提出された。

 今回、OK吸収端NEXAFSスペクトルに分子性吸着種のLUMOのピークが顕著に現れることを発見した。Fig.5(a)に各種温度でO2を吸着させて測定したNEXAFSスペクトルを示す。安定な原子状酸素吸着種は500Kのスペクトルに示すように536eVと540eVに二つの構造を与えるが、低温で吸着させた場合、吸収端前約530eV及び約533eVに新たに二つの構造が現れる。60Kの多層膜のスペクトルとの比較からこれらは分子吸着種の1g由来のピークであることが分かる。この吸着種は飽和吸着量の約1/4程度以下では観測されない。これはO2が本質的には解離吸着するが、先に解離吸着した酸素原子によって酸素分子吸着種が安定化されることを示唆している。このピークは135Kで15分程度の寿命をもっており、分子種は準安定種であることが分かった。1gの偏光依存性の測定から分子種の構造モデルを提案した[Fig.5(b)]。このモデルではダングリングボンドとの相互作用による1gからの二つの空軌道の生成を説明できる。

Fig.5 UPS spectra of the C2H2 and C6H6 chemisorbed Si(111)7×7 surface compared with that of the clean sudace. Photon energy was set to 21.2 eV.Fig.6(a)O K-edge NEXAFS spectra of oxygen on Si(111)7×7.(b)The structure model for the adsorption geometry at low temperature. O2 on the Si adatom is stabilized by O atom inserted in the backbond.

 Si(001)2×1表面は更に反応性が高い。これまでSi(001)2×1表面では直接分子吸着種を観測した例はない。しかし、NEXAFSの測定からSi(001)2×1表面でも同様に120Kで分子性吸着種が酸素原子と共存することを見いだした。この場合、表面Siダイマーの結合やバックボンドに挿入された酸素原子がダングリングボンドを不活性にすると考えられる。

まとめ

 Si表面のダングリングボンドは炭化水素やO2*軌道との相互作用で解消し、吸着種-Si間に新たな結合が生じる。C2H2、C2H4及びC6H6の吸着では炭化水素分子の再構成とSi基板の歪みの兼合いで吸着構造が決まる様子を観測した。またSi(001)2×1表面上で化学吸着したC2H2やC2H4の相互作用によって"物理吸着種"が安定化する現象を発見した。O2の吸着では、清浄面では基本的に解離吸着するが、次第に吸着量が増加すると、バックボンドに挿入された酸素原子が表面を不活性にし、酸素分子吸着種を安定させる様子を明らかにした。このように吸着種と基板との相互作用に加え吸着種間の相互作用によって多段階的に吸着過程が進行する点が興味深い。本研究では、これまで不明であった炭化・酸化過程における分子性吸着種の挙動を電子状態の面から解明した。

審査要旨

 本論文は7章からなる。第1章は序論であり、2つの典型的なシリコン表面、Si(001)2x1表面とSi(111)7x7表面の構造とその特徴、そしてその上に不飽和炭化水素分子、酸素分子を吸着させた表面吸着構造と電子状態を研究することの意義が述べられている。

 第2章は実験の詳細が述べられている。本実験では、放射光を光源にした吸収端XAFS(NEXAFS)分光法と角度分解光電子分光(ARUPS)法が用いられており、これらから得られる情報について、また、利用したビームラインの性能評価について記述されている。

 第3章ではアセチレンとエチレンの初期吸着状態研究の詳細が述べられている。Si(100)室温飽和吸着では、C-K NEXAFSから*軌道がSiのダングリングボンドとdi-結合を形成していること、C-C結合は基板表面に平行であること、C-C結合距離が大きく伸びていること(アセチレンでは1.36Å,エチレンは1.52Å)などを明らかにした。そして、ARUPSからは、ダングリングボンドによるピークの減少、新しく生成したdi-結合に由来するピークが出現することを示した。そして、空軌道の電子状態を現すNEXAFSスペクトルと占有軌道の電子状態を現す光電子分光スペクトルとを組み合わせることによって、これらの分子の化学吸着による電子状態の変化を詳細に観ることができることを提唱している。一方、60Kでの低温多層吸着から、昇温すると、70Kにおいて大半の物理吸着層は脱離するが、化学吸着分子と同数だけ残り、その分子配向が化学吸着と直交していることを明らかにした。化学吸着に移る前の前駆吸着状態の構造を初めて明らかにしたものである。さらに、昇温によって、脱離、解離が起こり、800KでSiCを生成し、1000KでSi清浄面に戻る過程を追跡している。

 第4章ではベンゼンの吸着状態の研究結果について述べられている。NEXAFSとARUPSを組み合わせることによって、Si(001)面上ではベンゼンが1,4ジエン構造をとってSiと結合しており、Si(111)面上ではベンゼン環が傾いて結合していることを明らかにした。この違いはシリコンのダングリングボンドの相対位置関係によって起こることを示した。さらに、結合形成によって気相分子から電子状態がどのように変化するかを詳細に調べている。

 第5章ではシリコン表面の初期酸化についてのNEXAFSによる研究結果を述べている。シリコン表面の初期酸化はSTM,UPS,HREELSなど様々な手法で調べられているが、酸素の分子状前駆体の存在とその寿命は現在も論争の的になっている。本章では、清浄なSi(111)面の酸素分子吸着を吸着量、基板温度を制御してO-K NEXAFS測定を行い、スペクトルの時間変化を詳細に調べている。その結果、100Kで酸素吸着させると物理吸着した酸素に比べてわずかに低エネルギー側に分子特有の*によるピークが出現すること、それが約15分で消滅することを示した。そして、これが酸素の分子状前駆体であることを明らかにした。さらに、低温(100K)で酸素吸着量を次第に増やしていき、O-K吸収端の高さ(酸素吸着量)と、*ピーク強度の関係を調べると、酸素が0.15ML付近まで吸着して初めて*ピークが出現すること、酸素吸着量と共にその寿命が長くなることを示した。このことは酸素が0.15MLまでの初期吸着ではすぐに解離し、Si-O-Si結合を形成する。そして酸素との結合によって電子が吸い取られたSi原子上に酸素分子が前駆体として比較的安定に存在すると考えた。さらに、*ピークの偏光依存性を測定し、前駆体が表面にほとんど平行に配向していることを明らかにした。

 第6章はシリコン表面の分子状吸着種の電子状態、反応力学を金属表面吸着と比較しながら考察している。そして、第7章は結論と要約である。

 本論文はダングリングボンドを異なる様式で持つSi(001)とSi(111)再構成表面において不飽和分子がどのように結合するかをNEXAFSとARUPSで明らかにしたこと、そして、これまで論争のあったシリコン初期酸化の過程において分子状酸素が前駆体として存在すること、その比較的長い寿命は解離した酸素によるものであることを明らかにしたものであり、シリコン表面界面の構造と反応性に関する新たな知見を与えるものとして、その価値は高い。

 なお、本論文は太田俊明、H.W.Yeom、今西哲士、伊澤一也、雨宮健太、登野健介等との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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