学位論文要旨



No 115022
著者(漢字) 村田,元
著者(英字)
著者(カナ) ムラタ,ハジメ
標題(和) 走査型トンネル顕微鏡像の分光学的研究
標題(洋) Spectroscopic Studies of Scanning Tunneling Microscope Images
報告番号 115022
報告番号 甲15022
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3786号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 野津,憲治
 東京大学 教授 塚田,捷
内容要旨

 走査型トンネル顕微鏡(STM)の表面分析機器としての特徴は、表面電子波などフエルミ準位付近における固体表面の電子状態を実空間で測定できる点である。しかし、STM像には実際の凹凸や電子的な変調などが合わさった状態が観察されるため、しばしば解釈が困難となっている。実際、STM像形成のメカニズムは必ずしも明らかにはなっていない点がある。特に、最表面より下にある電子状態の寄与については未だ議論が行われている段階である。修士課程では、層状半導体ヘテロ構造MoSe2/MoS2に見られる変調構造(図1(a))の成因解明を通じ、この問題の解明を目指した。STMを用いたスペクトル測定(STS)により、図1(b)に示すような局所状態密度に相当する情報を得たが、この変調の原因は明らかにできなかった。

 そこで、博士課程では、まず、図1のSTM/STSの結果を再検討し、これらを説明し得るモデルの提示を試みた。その際、MoS2表面についてのSTM/STSの結果を考慮に入れ、量子力学的な観点から、"層状半導体表面に電子波が存在する"と仮定した。さらに、"電子波の干渉"を考慮した一次元的なモデル(図2)により、図1(b)のスペクトルに見られるようなバンドの広がりと、バンドギャップの減少が起きることを説明した。このモデルを2次元に拡張し、電子波の干渉を2次元にマッビングした結果、図3に示すようなパターンを得た。さらに、電子波の散乱効果を仮定すると、図1(a)に示すような特徴的な像が説明されると共に、STM像の試料電圧依存性も説明できた。この"電子波の干渉"と"散乱効果"を考慮したモデルにより、従来から提唱されてきた変調構造形成の仮説である"モアレ説"を否定した。

図1 MoSe2/MoS2の(a)STM像と(b)STS図表図2"電子波の干渉"モデル / 図3"電子波の干渉"モデルの2次元マッピング

 しかし、以上の解析で仮定した"電子波"の成因などその詳細は、仮説の段階に止まっている。つまり、最表面層より下の電子が表面電子波にどのように寄与しているのかという問題、すなわち、表面Se層の下にあるMo層のd軌道の寄与は、明らかではない。遷移金属二カルコゲン化物(0001)面のSTM像における遷移金属層の寄与については、その立体構造や電子状態の特徴ゆえに、最近の研究の中でもなお議論されている。

 そこで、上記の研究に続いて、層状半導体(MoS2,MoSe2)に以下に示す方法で不純物原子を導入した試料のSTM/STS測定を行った。ここでは、一般にSTM像が不純物による変調に敏感であることを利用した実験を行った。すなわち、不純物原子の存在により電子状態の変調を引き起こさせ、その変調から、Moのd軌道に関する情報を導き出すことを目的とした。

 まず、MoS2,MoSe2表面にアルカリ金属を照射した試料についてSTMによる測定を行った。アルカリ金属は、イオン化エネルギーが小さいため、化学吸着後は、ドナーとして働くと考えられる。当研究室の研究でも明らかになったように、STM像に、アルカリ金属の種類によらない、ナノスケールの局所的な変調構造を観測した。同様の局所変調構造を人工的に合成したMoSe2襞開面でも観測した(図4)。なお、天然物由来のMoS2からはこのような局所変調構造は観察されておらず、その原因は合成時に混入したアルカリ金属であると考えられる。試料バイアス電圧によるSTM像の変化から(図5)、局所変調構造の中心部には正の電荷が存在し、その一方で、その周縁部(直径0.7nmの領域をピークとした局所領域)に電子が注入され、電子状態の強い変調が起きていることが分かった。さらに、STSにより、この局所変調を詳細に調べた結果、図5に示すようなスペクトルの変化を得た。この変調を、より明らかにすべく、変調ない領域との差スペクトルを計算したところ、VS=-0.8eVと+0.7eVに半値幅約0.2eVの輻の狭いピークを観測した。

 次に、ReをドーブしたMoSe2についても同様のSTM/STS測定を行った。ReはMoと置換されて結晶構造を変えることなくドナーとして働くことから、この実験は、結晶内部に埋め込まれた電荷による変調を調べることに相当する。その結果、STM像に、ナノスケールの局所変調構造を観測し(図6)、その中心部は両バイアス共に直径0.7nmの平坦部であることを明らかにした。この結果から、Reにより引き起こされた局所変調構造の中心部にも正の電荷が存在し、周縁部に局在した電子変調領域が存在することが示唆された。この局所変調をSTSにより測定した結果、変調はスペクトルにも強く現れた。また、差スペクトルには、図5と同様に、VS=-0.8eVと+0.7eVに半値幅約0.2eVの幅の狭いピークを観測した(図7)。

図表図4 MoSe2に観測された変調構造のSTM像とその断面 / 図5 MoSe2上の局所変調構造(図3)の強度に見られるバイアス電圧依存図5 MoSe2上の局所変調構造のSTS図6 ReドープしたMoSe2に観測された変調構造のSTM像図7 ReをドープしたMoSe2変調構造のSTS

 以上のように、アルカリ金属に由来した変調構造とReに由来した変調構造、両者の結果には、変調の局在性や、特徴的な構造を持つSTSの差スペクトルなど、多くの共通点が見られたことから、両局所変調構造の成因は本質的には同じであると考えられる。いずれの不純物原子も、ドナーとして働くことから、観測された局所変調構造は、電子1個の注入に起因すると考えられる。ところが、CaAsなどのs1p電子からなる半導体では、n型ドーパント周辺には本研究で観測されたような複雑な変調構造は観測されておらず、本研究に見られたSTSのような結果も報告されていない。そこで、STM像に見られた変調の局在性や、STSに見られた幅の狭いピークの存在から示唆される、"d電子"の寄与に注目して、局所変調構造の成因解明を試みた。まず、1個のドナーにより注入された電子は遷移金属のd軌道に入るが、このd電子と周辺のd電子による電子相関の効果を考慮に入れると、この遷移金属のd軌道は分裂する。このような一粒子状態密度の分離はd電子やf電子といった強相関電子系でしばしば観察される現象である。次に、分裂によりできた準位が、結晶のdバンドと相互作用、すなわち、最近接の6個のMo(原子間の距離が0.3288nm)との間で強い相互作用を起こすと考えれば、STSから示唆されているように、バンドには若干の幅が生じる。以上に述べたように、"d電子の電子相関を考慮したモデル"により、STSに見られるような二つの幅の狭いピークの出現することを説明できた(図8)。また、この議論を実空間に適用すると、相互作用により電荷密度の振動が起きることや、局所的な電子状態の変調が直径0.7nm大のリング上に強く現れることなどのSTM像の特徴が説明できた(図9)。

図8 電子相関を考慮したモデルによるSTSの解釈図9 電子相関を考慮したモデルによるSTSの解釈

 考察により、不純物により引き起こされた局所変調は、d電子の電子相関、遷移金属軌道間の相互作用に起因することを明らかにした。つまり、MoS2,MoSe2の表面電子状態を考える上でも、カルコゲンのs1p電子だけではなく、Mo-Mo相互作用が重要であることを示した。これらの諸物性は、不純物が導入されていないMoS2,MoSe2のSTM/STSだけでは明らかにされないものである。この結論は、MoSe2のSe欠陥周辺のSTM像には、電子波の散乱など強い電子変調が観察されていないことからも支持される。従って、MoS2,MoSe2の表面電子波は、d電子やMo-Mo相互作用に強く支配されたものであると考えられる。

 本研究により、STM像を解釈する際、STS測定を行い、特に、軌道間の相互作用に注目した議論を行うことが重要であることを示した。さらに、実空間及びエネルギーの両面から電子状態の議論をすることで、単なるSTM像の解釈に止まらない、局所的な物性の解明が行えることも示した。また、不純物による変調を調べた研究から明らかになったように、"不純物(特に電荷)による変調を利用した、STM像の詳細な解析"が、"通常は観測されていない情報が得られる"と言う点で、物性の解明に有効な方法であることを明らかにした。

審査要旨

 本論文は4章からなり、第1章では本研究の背景について、第2章では走査トンネル顕微鏡(STM)ならびに走査トンネル分光手法(STS)ついて、第3章ではMoS2基板上に成長させたMoSe2単層膜の変調STM像のSTM/STS複合測定による解明について、そして第4章ではMoS2ないしMoSe2劈開面の不純物原子による局所変調STM像について述べられている。

 走査型トンネル顕微鏡の表面分析機器としての特徴は、表面電子波などフェルミ準位付近における固体表面の電子状態を実空間で測定できる点にある。しかし、STM像には実際の凹凸や電子的な変調などが合わさった状態が観察されるため、しばしば解釈が困難となっている。実際、STM像の形成メカニズムは必ずしも明らかにはなっていない。特に、最表面より下にある電子状態の寄与については未だ議論が行われている段階である。

 本論文ではまず、層状半導体ヘテロ構造MoSe2/MoS2に見られる変調構造の成因の解明を目指した。STMを用いたスペクトル測定(STS)により、局所状態密度に相当する情報を得て,これらを説明し得るモデルの提示を試みた。"電子波の干渉"を考慮した一次元的なモデルにより、バンドの広がりと、バンドギャップの減少が起きることが説明された。このモデルを2次元に拡張し、電子波の干渉を2次元にマッピングした結果、実験で得られる変調パターンを再現することに成功した。さらに、電子波の散乱効果を仮定することにより、STM像の試料電圧依存性も説明できた。この"電子波の干渉"と"散乱効果"を考慮したモデルにより、従来から提唱されてきた変調構造形成の仮説である"モアレ説"は否定された。

 以上の解析で仮定した"電子波"の成因などその詳細は、仮説の段階に止まっている。すなわち、最表面層より下の電子が表面電子波にどのように寄与しているのかという問題、つまり、表面Se層の下にあるMo層のd軌道のSTM像への寄与がどの程度あるのかは、明らかではない。遷移金属二カルコゲン化物の劈開面のSTM像における遷移金属層の寄与については、その立体構造や電子状態の特徴ゆえに、最近の研究の中でもなお議論が続いている。

 そこで、上記の研究に続いて、層状半導体(MoS2,MoSe2)に不純物原子を導入した試料についてSTM/STS測定を行った。まず、MoS2,MoSe2表面にアルカリ金属を照射した試料についてSTMによる測定を行った。その結果、STM像にアルカリ金属の種類によらない、ナノスケールの局所的な変調構造が見出された。同様な局所変調構造は,人工的に合成したMoSe2劈開面でも観測された。試料バイアス電圧によるSTM像の変化から、局所変調構造の中心部には正の電荷が存在し、その一方で、その周縁部(直径0.7nmの領域をピークとした局所領域)に電子が注入され、電子状態の強い変調が起きていることが分かった。さらに、ReをドープしたMoSe2についてもSTM/STS測定を行なったところ,同様な結果を得た。

 以上のように、アルカリ金属に由来した変調構造とReに由来した変調構造の両者の結果には、変調の局在性や、特徴的な構造を持つSTSの差スペクトルなど、多くの共通点が見られ、両局所変調構造の成因は本質的には同じであると考えられる。いずれの不純物原子も、ドナーとして働くことから、観測された局所変調構造は、MoS2ないしMoSe2への電子の注入がその成因であると考えられる。考察の結果、不純物により引き起こされた局所変調は、注入された電子とd電子の電子相関に起因することが明らかにされた。

 以上述べたように,本論文によって,STM像を解釈する際、STS測定を行い、特に、軌道間の相互作用に注目した議論を行うことが重要であることが示された。さらに、実空間及びエネルギーの両面から電子状態の議論をすることで、単なるSTM像の解釈に止まらない、局所的な物性の解明が行えることが示された。なお本論文の第3章と第4章は,小間篤氏ならびに片岡耕太郎氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって,博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める。

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