内容要旨 | | 芳香族化合物は有機化学において非常に重要な位置を占める化学種である。一方,周期表においてケイ素は炭素のすぐ下に位置することから,芳香環の炭素原子をケイ素で置き換えた含ケイ素芳香族化合物は,古くから注目を集め活発に研究が行われてきた。しかしこれまでの検討によると,含ケイ素芳香族化合物はいずれも極めて高反応性であり,極低温下等の限られた条件でスペクトル的観測がなされているのみであった。筆者は修士課程において,2,4,6-トリス[ビス(トリメチルシリル)メチル]フェニル基(以下Tbt基と略)を用いてケイ素上を保護することで,初めての安定な含ケイ素芳香族化合物である2-シラナフタレン1の合成に成功し,その性質を明らかにした。そこで博士課程においては,より単純な構造を持ち,含ケイ素芳香族化合物本来の性質を検討するのに適していると考えられるシラベンゼン2の合成を行い,その性質について検討を行った。 1.安定なシラベンゼンの合成 シラベンゼン2の前駆体を合成するにあたり,種々の合成ルートについて検討を行った結果,含スズ環状化合物3から出発し,スズーリチウム交換反応後Tbt基を有するトリヒドロシランとの反応により4を合成し,さらにブチルリチウムを用いて分子内環化させることで,5aおよび5bの混合物を得ることに成功した。 5a,5bの混合物は分離困難であったが,一旦ブロモシランとし,加水分解後分離精製を行うことで,シラノール6を純粋な形で得ることに成功した。さらに6にPCl5を作用させ,シラベンゼンの前駆体となる7を合成した。 次に,得られた7に塩基を作用させることでシラベンゼンの合成を試みた。各種条件検討の結果,塩基としてLDAを用いることで反応が収率よく進行することが判明し,シラベンゼン2を純粋な形で得ることに成功した。 シラベンゼン2は不活性ガス雰囲気下,溶液中100℃まで加熱しても変化せず,Tbt基によりシラベンゼン環が効果的に保護されていることが明らかとなった。 2.シラベンゼンの構造 シラベンゼン2の中心ケイ素は29Si NMRにおいて93.6ppmという低配位ケイ素に特有な低磁場領域にシグナルを示した。またシラベンゼン環はNMR的に対称であり,1Hおよび13C NMRにおいて環部のシグナルはいずれも通常の芳香族化合物の領域に観測された。これらの値はモデル化合物についての理論計算から得られた値とも良好な一致を示した。 シラベンゼン2の構造は最終的に-180℃でのX線結晶構造解析により決定した。その結果を右図に示す。シラベンゼン環は,全体として平面でありTbt基のベンゼン環とほぼ直交している。環内のケイ素-炭素結合長は1.765(4)および1.770(4)Åでほぼ等しく,通常のケイ素-炭素単結合と二重結合の中間の値を示した。また炭素-炭素結合長は1.381(6)〜1.399(6)Åで温度因子による誤差の範囲内で等しく,ベンゼンの結合長ともほぼ同じ値を示した。すなわち,シラベンゼンがベンゼンに類似の非局在化した構造を取っていることが明確に示された。 図表 また溶液中での構造については,NMRにおけるケイ素-炭素結合定数から検討を行った。シラベンゼン2の1JSiC値は83Hzであり,通常のケイ素-炭素単結合における値(50Hz程度)より大きく,2-シラナフタレン1における二つのケイ素-炭素結合の中間の値であり,結合定数からもシラベンゼン環の非局在化した構造を支持する結論を得た。 3.シラベンゼンの反応性 各種二重結合化合物との反応において,シラベンゼン2は1-シラブタジエンとして反応し,対応する1,4-付加体8-10を与えることが判明した。一方メシトニトリルオキシドとの反応では1,2-付加体11のみを与えた。 またシラベンゼン2とメタノールとの反応では,1,4-付加体12と1,2-付加体13の両方を与えた。 これらの結果は,2-シラナフタレン1の付加反応においていずれも1,2-付加体が得られていることと対照的であり,骨格を単純にすることで含ケイ素芳香族化合物本来の性質を明らかにすることができたものと考えられる。 シラベンゼン2の熱的安定性を検討すべく,2を溶液中室温で放置したところ,2か月間で1/3程度変化するという非常にゆっくりした速度ではあるが,二量体14を与えることが判明した。しかし,この二量体は熱的に不安定であり,80℃で加熱すると容易にシラベンゼン2を再生した。 一方,低温マトリックス中で合成されたシラベンゼンについては,光照射によりデュワー型へ異性化すると報告されているものの詳細については明らかになっていない。そこで,2に対して高圧水銀灯を用いパイレックス管中で光照射を行ったところ,一部が別の化合物15へと変化した。この化合物15は,29Si NMRにおいて-71.6ppmという含ケイ素3員環化合物に特有な高磁場領域にシグナルを示し,また分離精製後16に示す加水分解体を与えた。このことから,シラベンゼンの光異性化においては,下の式に示すベンズバレン型の異性体も生成しうることが判明した。 以上,かさ高い置換基を用いてケイ素上を立体的に保護することで,安定なシラベンゼンの合成に初めて成功し,その興味深い構造および性質を明らかにすることができた。 |
審査要旨 | | 本論文は7章からなり,第1章は序論,第2章はシラシクロヘキサジエンの合成,第3章はシラベンゼンの合成,第4章はシラベンゼンの構造,第5章はシラベンゼンの反応,第6章はケイ素-ケイ素三重結合化学種合成の試み,第7章は結論について述べられている。 芳香環の炭素原子をケイ素で置き換えた含ケイ素芳香族化合物は,古くから注目を集め活発に研究が行われてきた。しかしこれまでの検討によると,含ケイ素芳香族化合物はいずれも極めて高反応性であり,極低温下等の限られた条件でスペクトル的観測がなされているのみであった。論文提出者は修士課程において,右図に示すTbt基を用いてケイ素上を保護することで,初めての安定な含ケイ素芳香族化合物である2-シラナフタレン1の合成に成功し,その性質を明らかにした。本論文においては,より単純な構造を持ち,含ケイ素芳香族化合物本来の性質を検討するのに適していると考えられるシラベンゼン2の合成を行い,その性質について検討を行っている。 シラベンゼン2の前駆体を合成するにあたり,各種検討の結果,含スズ環状化合物3から出発し,スズ-リチウム交換反応後Tbt基を有するトリヒドロシランとの反応により4を合成し,さらにブチルリチウムを用いて分子内環化させることで,5aおよび5bの混合物を得ることに成功した。 5a,5bの混合物は分離困難であったが,一旦ブロモシランとし,加水分解後分離精製を行うことで,シラノール6を純粋な形で得ることに成功した。さらに6にPCl5を作用させ,シラベンゼンの前駆体となる7を合成した。 次に,得られた7に塩基を作用させることでシラベンゼンの合成を試みた。各種条件検討の結果,塩基としてLDAを用いることで反応が収率よく進行することが判明し,シラベンゼン2を純粋な形で得ることに成功した。 シラベンゼン2は不活性ガス雰囲気下,溶液中100℃まで加熱しても変化せずTbt基によりシラベンゼン環が効果的に保護されていることが明らかとなった。 シラベンゼン2の中心ケイ素は29Si NMRにおいて93.6ppmという低配位ケイ素に特有な低磁場領域にシグナルを示した。またシラベンゼン環はNMR的に対称であり,1Hおよび13C NMRにおいて環部のシグナルはいずれも通常の芳香族化合物の領域に観測された。これらの値はモデル化合物についての理論計算から得られた値とも良好な一致を示した。 シラベンゼン2の構造は最終的に-180℃でのX線結晶構造解析により決定した。その結果を右図に示す。シラベンゼン環は,全体として平面でありTbt基のベンゼン環とほぼ直交している。環内のケイ素-炭素結合長は1.765(4)および1.770(4)Åでほぼ等しく,通常のケイ素-炭素単結合と二重結合の中間の値を示した。また炭素-炭素結合長は1.381(6)〜1.399(6)Åで温度因子による誤差の範囲内で等しく,ベンゼンの結合長ともほぼ同じ値を示した。すなわち,シラベンゼンがベンゼンに類似の非局在化した構造を取っていることが明確に示された。 図表 各種二重結合化合物との反応において,シラベンゼン2は1-シラブタジエンとして反応し,対応する1,4-付加体8-10を与えることが判明した。一方メシトニトリルオキシドとの反応では1,2-付加体11のみを与えた。 またシラベンゼン2とメタノールとの反応では,1,4-付加体12と1,2-付加体13の両方を与えた。 シラベンゼン2の熱的安定性を検討すべく,2を溶液中室温で放置したところ,2か月間で1/3程度変化するという非常にゆっくりした速度ではあるが,二量体14を与えることが判明した。また,この二量体は80℃で加熱すると容易にシラベンゼン2を再生した。 2に対して高圧水銀灯を用いパイレックス管中で光照射を行ったところ,一部が別の化合物15へと変化した。この化合物15は,29Si NMRにおいて-71.6ppmという含ケイ素3員環化合物に特有な高磁場領域にシグナルを示し,また分離精製後16に示す加水分解体を与えた。このことから,シラベンゼンの光異性化においては,下の式に示すベンズバレン型の異性体も生成しうることが判明した。 以上本論文においては,かさ高い置換基を用いてケイ素上を立体的に保護することで,安定なシラベンゼンの合成に初めて成功し,その興味深い構造および性質を明らかにしている。 なお,本論文第2章から第6章は時任宣博・岡崎廉治・永瀬茂の共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験及び検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める。 |