学位論文要旨



No 115026
著者(漢字) 佐甲,徳栄
著者(英字)
著者(カナ) サコウ,トクエイ
標題(和) 多原子分子における振動の代数論的構造
標題(洋) Algebraic Structure of Vibration in Polyatomic Molecules
報告番号 115026
報告番号 甲15026
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3790号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 助教授 田島,裕之
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 助教授 菱川,明栄
内容要旨 I.

 多原子分子の多様な振動形態、特に高振動励起状態における複雑な振る舞いを理解することは、微視的な化学反応過程の解明、さらには多体ポーズ粒子系ダイナミクスの統一的理解につながる。近年、実験および計算技術の革新的進歩によって、多原子分子の複雑な核の運動およびその化学反応との関係が解明されようとしている。計算速度の飛躍的向上によって、分子振動を支配するポテンシャルエネルギー曲面(PES)の第一原理計算が可能となった。しかし現在までのところ、第一原理計算によって定量的な議論に耐えうる多原子分子のPESを求めること難しい。一方、レーザー分光学の発展によって、多原子分子の高振動励起状態を含むエネルギー構造を直接観測することが可能となってきた。本研究では、観測スペクトルが与える振動エネルギー構造から振動ダイナミクスを抽出することを目的として以下の研究を行った。

 II.ではSO2状態の振動構造を振動力場展開法を用いて解明する。振動力場展開法は、基準振動という独立調和振動子を出発点とし、振動子間の相互作用を基準振動座標を用いた展開項によって表現する。この非調和展開項はWeyl-Heisenberg代数によって記述される単純な選択則を持つため、非調和結合による振動形態の変化を、簡単な非調和共鳴ネットワークによって理解することができる。状態は複雑な振動エネルギー構造を持つために基準振動による帰属が難しく、これまで適切な振動量子数の帰属が行われていなかった。振動力場展開を用いて振動エネルギー準位のフィットし、得られた振動波動関数の形状に基づいた、一般化した量子数の帰属を導入する。そして波動関数の節構造を調べることによって状態の解離速度の揺らぎが説明できることを示す。一方、振動力場展開法は調和振動子を基底関数として用いるため、ハミルトニアン行列の構造が簡潔である反面、高振動励起状態を扱う場合には非常に多くの基底関数を必要とする問題点がある。近年Iachelloらによって導入された代数アプローチ[1]と呼ばれるハミルトニアン展開法は、非調和振動子を基底関数として用いるため、高振動励起状態を少ない基底関数を用いて表現できると期待される。しかしこの代数アプローチは、共鳴を記述するMajorana演算子の選択則によって多重項量子数(ma+c)が保存する理論形式をもつために、多重項量子数を破る相互作用は表現できないという問題点がある。そこで、III.において我々は代数的振動力場展開と呼ぶ新しいハミルトニアン展開法を導入する。この方法を用いることによって、従来の振動力場展開法および代数アプローチの問題点を克服し、双方の利点を継承できることを示す。IV.ではこの代数的振動力場展開法をSO2電子基底状態に応用し、実測の振動エネルギー準位から高振動励起状態におけるSO2の振る舞いを探る。

II.振動力場展開・波動関数・解離ダイナミクス

 SO2-遷移は235nmから165nmにおよぶ広いFranck-Condon領域をもつため、分光学的方法によって状態の振動構造に関する多くの情報を得ることが可能である。さらに、219nmから短波長領域で前期解離(SO2(1B2)→SO(3-)+(3P)が起こるため、SO2状態は振動ダイナミクスと解離反応との関係を調べる最適なシステムである。一方、状態は複雑な振動エネルギー構造を持つために,これまで適切な振動帰属が行われていなかった。そこで(i)C状態の振動構造を解明すること、および(ii)解離と振動状態との関係を明らかにすることを目的として、以下の研究を行った。振動帰属を行うためにはエネルギー準位およびFranck-Condon遷移強度の情報を必要とする。-遷移は、これまで広範囲のエネルギー領域にわたりレーザー誘起蛍光スペクトルが測定され、振動エネルギー準位が明らかにされてきたが[2]、前期解離のために短波長領域においてはLIF強度は遷移強度と対応しなくなる。そこで、超音速ジェットの条件下において-遷移の吸収スペクトル(220-206nm)を測定し、遷移強度の情報を得た。さらに、吸収強度とLIF強度とを比較することによって各々の振動準位について解離速度を求めたところ、解離速度に明確な振動準位依存性が見出された。次に、振動エネルギーを振動力場展開法を用いたモデルハミルトニアンにフィットし、フィットから得られた振動波動関数を用いて計算した遷移強度と実測の吸収強度とを比較することによって、確実な振動帰属を行った。最終的な帰属に基づいて振動波動関数を計算しその形状を調べた結果、状態の伸縮振動は、対称伸縮振動と反対称伸縮振動が1:2のFermi共鳴によって強く結合した振動形態を持ち、振動波動関数はFermi共鳴に特有の二種類のタイプに分類されることが判明した(図1(a),(b))。そして,これらの振動波動関数の節構造と解離座標に沿った散乱波動関数の節線の方向を考えることよって、解離速度の振動準位依存性が説明できることが示された。

図1.フィットから得られた状態の振動波動関数。横軸・縦軸はそれぞれ対称伸縮振動座標・反対称伸縮振動座標を表す。(a)解離が速い状態。(b)解離が遅い状態。図中、括弧で示した3組の整数は一般化した量子数を表す。
III.代数的振動力展開法:振動力場展開法と代数アプローチの融合

 従来分子分光学で用いられてきた振動力場展開法は、独立振動子に立脚した明確な物理描像および扱いの容易さという利点を持つ反面、非常に多くの基底関数を必要とするため高振動励起状態を扱う場合には困難を伴う。実際、II.で行ったSO2状態の解析においては非常に多くの基底関数を必要とした。一方、代数アプローチによるハミルトニアン展開は、物理的描像が不明確であること、および、多重項量子数を保存する理論構造を持つために、多重項量子数を保存しない相互作用(例えばII.のFermi共鳴)をもつ分子振動には適応できないという問題点がある。そこでU(2)代数アプローチを拡張して、従来の振動力場展開および代数アプローチの問題点を克服した、代数的振動力場展開と呼ばれる方法を開発した。

III-1.非直線分子の代数的振動力場展開

 代数的振動力場展開ではノーマル座標およびローカル座標のそれぞれの場合について非直線3分子の振動ハミルトニアンを以下のように展開する:

 

 右辺第一項目のaiiは非調和振動子(Morse振動子・Poschl-Teller振動子)のハミルトニアンを表し、代数的振動力場展開ではこのaiiを対角にする表現を用いる。このため、ポテンシャルおよび座標系に応じて、適切な非調和性をaiiに導入することによって、対角要素に値が集中した、収束が速いハミルトニアン行列が得られる。演算子iおよびSiはこの非調和振動子に作用する生成・消滅演算子を用いて定義され、零次ハミルトニアンの非調和性が零の極限(調和極限)でそれぞれ座標演算子および運動量演算子に一致する。実際ハミルトニアン(1),(2)は、調和極限で従来の振動力場展開のハミルトニアンに一致する。すなわち、この代数的振動力場展開法は、従来の振動力場展開の利点である明確な物理的描像と、非調和振動子を用いることによる代数アプローチの特徴である収束の速さの、両方の利点を兼ね備えた方法である。この代数的振動力場展開および従来の振動力場展開のハミルトニアンを用いてH2Oの伸縮振動エネルギー準位をフィットした結果を図2に示す。横軸・縦軸はそれぞれ基底関数の数・最小自乗の残差自乗和を表す。図2より、代数的振動力場展開は同数の展開項を持つ従来の振動力場展開と比較して、少ない残差を与えること、および、非常に少ない基底関数を用いて振動エネルギーが表現できることが示された。またこの特徴は、ローカル座標のハミルトニアンを用いた場合に顕著であることが判明した。

図2:H2Oの振動エネルギー準位のフィット
III-2.直線分子の代数的振動力場展開

 非直線分子の代数的振動力場展開では全ての振動自由度をU(2)Lie代数を用いてモデル化した。一方、直線分子は二重縮重した変角振動を持ち、振動角運動量という非直線分子にはない自由度を持つため、U(2)による変角振動のモデル化は困難を伴う。近年 Iachello らは、U(3)Lie代数を用いることによって代数アプローチに振動角運動量が導入できることを示した。本研究ではU(3)Lie代数の生成演算子を用いて、以下のような変角振動のモデル化を行った:

 

 演算子Bは調和極限(N→∞)で二次元等方調和振動子の動径座標rの二乗に対応する。伸縮振動自由度をIII-1で導入したU(2)、変角振動自由度を上記のU(3)によってモデル化した代数的振動力場展開をCO2の振動エネルギー準位に応用した。その結果、図3に示すように代数的振動力場展開は従来の振動力場展開と比較して、直線分子の場合においても非常に少ない基底関数を用いて振動エネルギー準位が表現できることが示された。

図3:CO2の振動エネルギー準位のフィット
IV.代数的振動力場展開法による高励起核ダイナミクス

 代数的振動力場展開法は、従来の振動力場展開法の単純な理論構造、および代数アプローチの速い収束を継承しているため、高振動励起状態の複雑な振動ダイナミクスを解明するための有効な方法と考えられる。SO2の電子基底状態は、広範囲のエネルギー領域(0〜22000cm-1)にわたって振動エネルギー準位が実験的に調べられている数少ない系である。Childらのローカルモード理論によればSO2は低エネルギー領域において極限的なノーマルモード分子であることが知られている[3]。このノーマルモード分子の代表であるSO2が、高振動励起状態においていかなる振動形態を持つのかを調べることを目的として、代数的振動力場展開のモデルハミルトニアンに振動エネルギーをフィットし、振動波動関数の形状を調べた。

 対称伸縮振動が励起した振動系列(1,0,0)について系統的に節構造を調べたところ、1=20付近において波動関数はローカルモードに特徴的な共鳴構造を持ち、(1-1,0,1)の振動状態とローカルモード二重項を形成することが見出された。さらに系列(1-2,0,2)の節構造を調べたところ、図4に示すように、1=20付近において一度対称伸縮振動状態を形成し(図4(b))、その後ローカルモードを形成すること(図4(c))が見出された。

図4:SO2の振動波動関数
参考文献[1]Iachello and Levine,Algebraic Theory of Molecules(Oxford,1995).[2]Yamanouchi et al.,J.Mol.Struct.352,541(1995).[3]Child and Lawton,Faraday Discuss.Chem.Soc.71,273(1981).
審査要旨

 本論文は、観測スペクトルが与える振動エネルギー構造から振動波動関数を抽出し、多原子分子のもつ多様な振動形態、特に高振動励起状態における振動ダイナミクスを明らかにしている。特に代数アプローチと呼ばれる新しい数学的手法を用いて、分子高振動励起状態における複雑な振動準位構造が少ない基底関数で記述できることを見いだした。これにより、従来困難であった高振動励起状態における分子の複雑なふるまいについての理解を可能にした。

 本論文は全5章から構成されており、2章ではSO2状態の振動構造を従来の振動力場展開法を用いて解明している。振動力場展開法は、基準振動という独立調和振動子を出発点とし、振動子間の相互作用を基準振動座標を用いた展開項によって表現する。状態は複雑な振動エネルギー構造を持つために基準振動による帰属が難しく、これまで適切な振動量子数の帰属が行われていなかった。振動力場展開を用いて振動エネルギー準位のフィットし、得られた振動波動関数の形状に基づいた、一般化した量子数の帰属が導入されている。状態における前期解離過程(SO2(1B2)→SO(3-)+(3P)は、その速度が振電準位によって大きく揺らぐことが知られている。得られた波動関数の節構造を調べることによってこの解離速度の揺らぎは、状態における振動波動関数と解離座標に沿った基底状態における散乱波動関数の重なり積分の大きさによって支配されていることが示された。

 振動力場展開法は調和振動子を基底関数として用いるため、ハミルトニアン行列の構造が簡潔である反面、高振動励起状態を扱う場合には非常に多くの基底関数を必要とする問題点がある。Iachelloらによって導入された代数アプローチと呼ばれるハミルトニアン展開法は、非調和振動子を基底関数として用いるため、高振動励起状態を少ない基底関数を用いて表現できると期待される。第3章では、この手法をSO2電子基底状態に応用し、振動力場展開法と比較して少ない基底関数で高振動励起状態を記述できることが示されている。

 この代数アプローチは、共鳴を記述するMajorana演算子の選択則によって多重項量子数(vm=va+vc)が保存する理論形式をもつために、多重項量子数を破る相互作用は表現できないという問題点がある。この問題を克服するために、第4章および第5章では代数的振動力場展開と呼ぶ新しいハミルトニアン展開法が導入されている。この手法においては、ポテンシャルおよび座標系に応じて、適切な非調和性を非調和振動子に作用する生成・消滅演算子に導入し、これを用いてハミルトニアンを展開する。このため、零次ハミルトニアンの非調和性が零の極限(調和極限)でこのハミルトニアンは、従来の振動力場展開におけるハミルトニアンに一致する。この方法を用いることによって、従来の振動力場展開法および代数アプローチの問題点を克服し、双方の利点を継承できることが示された。第4章ではこの代数的振動力場展開法をSO2電子基底状態に応用し、実測の振動エネルギー準位から高振動励起状態におけるSO2の振る舞いを明らかにした。また第5章では、この手法を直線分子に応用し、CO2基底状態の振動準位構造の記述を行った。

 第6章では、この代数的振動力場展開法により得られたハミルトニアンに基づいて、SO2電子基底状態の高振動励起状態における振動波動関数の形状を調べた。特に、対称伸縮振動が励起した振動系列(v1,0,0)について系統的に節構造を調べたところv1=20付近において波動関数はローカルモードに特徴的な共鳴構造を持ち、(v1-1,0,1)の振動状態とローカルモード二重項を形成することが見出された。さらに系列(v1-2,0,2)の節構造を調べたところ、v1=20付近において一度対称伸縮振動状態を形成し、その後ローカルモードを形成することが初めて明らかとなった。

 以上、論文提出者による多原子分子の高振動励起状態に関する新たな理論研究は、独創性が高いものと認められる。なお、本論文第2章は、菱川明栄、山内薫、片桐秀樹、矢崎武巳、恩田健、吉野耕一との共同研究、第3章は山内薫との共同研究、第4章および第6章は、山内薫、Francesco Iachelloとの共同研究であるが、いずれの場合にも論文提出者が主体となって理論研究を進めたものであり、その寄与は大きい。したがって、審査委員会は、論文提出者 佐甲徳栄に博士(理学)を授与できると認める。

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