本論文ではショウジョウバエの成虫背中(notum)における位置情報とパターン形成についての分子発生学的研究の結果、特にモルフォゲンとそれによる領域特異的な標的遺伝子の発現制御機構について述べられている。本論文は二章から成り、第一章はBarH1/H2ホメオボックス遺伝子の末梢神経系形成における役割及び発現制御機構に関する研究で、第二章はDecapentaplegic(Dpp)によるwingless(wg)の発現制御機構についての研究である。 従来、背中におけるproneural遺伝子achaete-scuteの発現とそれに伴う剛毛の形成は前後軸に沿った縦長の領域で発現するprepattern遺伝子群(iroquois,pannier,wingless)の組み合わせによって制御されると考えられていた。BarH1とBarH2はBar遺伝子座に存在する互いに相同性の高いホメオボックス遺伝子であり、幼虫末梢神経系での研究等から機能的にも互いにredundantであると考えられている(以後あわせてBarと記載する)。本章においてはまず抗Bar抗体、Barエンハンサー・トラップ、Bar機能欠失株、あるいはBarによるレスキュー等により、Barが背中の前端部の横長の領域で発現し、achaete-scuteの発現を活性化することにより剛毛の形成を制御していることを示した。この発見は前後軸とは直交した横長の領域で発現するprepattern遺伝子の存在を初めて示したもので、転写制御因子の発現の組み合わせによるチェッカーボード状の場が様々な発生過程において重要な役割を果たすとの考えに対する大きな証拠となった。さらにBarの発現が正中線側および後部側においてDppモルフォゲン・シグナルによって制限され、またBarの発現の側面側の境界は別のモルフォゲンWgが決定していることを示した。更にBarが逆にwgの発現を前部側から抑制していることを示唆した。 DppとWgは分泌性の蛋白質であり、様々な系においてモルフォゲンとして重要な役割を果たしている。さらにdppとwgの互いの発現制御が様々な系において報告されていたので、背中における両者の互いの発現制御について解析した。その結果、wgの前後軸に沿った矩形状の発現が、Dppシグナルによって正および負に制御され、中程度のDppシグナルを受ける細胞のみがwgを発現することを見いだした。これは中程度のDppシグナルによって標的遺伝子の発現が活性化される初めての例である。この系についての解析からパターン形成の一般的なメカニズムについての知見が得られると考え、Dppからwgに至る経路について解析したところ、wgの発現制御には4通りの経路があることが明らかになった。そのうち2つはpannier(pnr)とu-shaped(ush)を介し、他の2つはそれらとは無関係であった。pnrとushの発現はDppによって正に制御され、正中線側ではPnrとUshの複合体がwgの発現を抑制する。より側面側ではUshの発現は起こらず、Ushに結合していないPnr及びpnr/ush非依存的なDppの互いに独立した働きによってwgの発現が活性化された。さらにwgは自分自身の発現を弱く活性化した。このように、Dppシグナルの下流にはwgの発現を正に制御する経路と負に制御する経路が存在し、そのバランスによって最終的に中程度のDppシグナルを受ける細胞がwgを発現すると考えられる。尚、従来他の系で提案されていた、UshがPnrに結合しその活性化機能を阻害するという考えが背中でのwg発現に関しては成立せず、むしろPnr/Ush複合体が直接DNAに結合しリプレッサーとして働く可能性が大きいことを示した。更にPnr/Ush複合体は、ushの発現維持にも必要で、その場合には正の因子として働くことも見出した。 以上のように、本研究はモルフォゲンによる位置情報、位置情報による領域特異的な遺伝子(prepattern遺伝子)の発現、さらに二次的なモルフォゲン(Wg)の発現といった、位置情報とパターン形成における基本原理をin vivoにおいて示しており、極めて重要な研究である。なお、本論文第一章は小嶋徹也、道上達男、西郷 薫、第二章は西郷 薫との共同研究であるが、いずれも論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |