神経細胞が如何にしてその特性を獲得し分化していくかを解明することは発生生物学上極めて重要な問題である。神経分化の際、神経細胞はその分化の過程で決まった数の神経細胞を個体によらず産み出すようにプログラムされている。この数を決めるという過程が、遺伝子によってどのようにプログラムされているかを知ることは、神経細胞のみならず、発生過程の全ての細胞に共通した問題を解くことにつながる。これらのことを念頭に置きながら、私はショウジョウバエをモデル生物として、本研究を行った。 神経細胞の中でも特に視神経細胞は、その発生過程において様々な生物種間に共通な一群の転写因子遺伝子群によって制御されていることが分かってきている。このことは形態的には相当に異なっているように見えても、眼の形成が進化上普遍的な遺伝情報によってプログラムされていることを示している。これらの遺伝子群にはtwin of eyeless(toy),eyeless(ey),sine oculis(so),eyes absent(eya),dachshund(dac)などがある。 ショウジョウバエの幼虫視神経細胞(Bolwig’s organ:以下BOとする)は、構造が単純で細胞の数が12個と少ないので、視覚器官の形成における初期の分子相互作用の研究に有用と思われる。BOのproneural遺伝子としてatonal(ato)が知られており、この遺伝子が外皮の一部の細胞で発現することによって、その細胞に視神経細胞として分化する最初のきっかけを与えていると推測されていた。近年、BOの形成過程のモデルとして、2段階分化のモデルが提唱された(Daniel et al.,1999)。それによれば、先ず第一段階としてはatoを発現する3個の創始細胞(founder ce11s)の形成が起こる。これらの細胞は最初の視細胞に分化すると考えられる。第二段階として、創始細胞を取り巻く細胞群が、創始細胞から発せられた勧誘シグナルによって二次的な視細胞へと分化する。このモデルは、複眼における視細胞の分化過程とよく似ている。 hedgehog(hh)は体節極性遺伝子として単離された遺伝子であるが、近年神経発生においても重要な役割を持っていることが知られている。脊椎動物では脊索や床盤で発現したHedgehogが神経管の神経細胞の特性をその濃度勾配依存的に決定している。また、ショウジョウバエでも複眼の神経分化の初期の段階で働いたり、中枢神経の神経芽細胞の分化を制御している。これらのことはHedgehogシグナルが体節の極性を決めることのみならず、神経発生の様々な段階で決定的に働いていることを示しており、体節極性の場合と比較してそのシグナルの分子メカニズムはあまり解析されていない。私は眼特異的な転写因子群とHedgehogシグナルがproneural遺伝子であるatoの転写を活性化しているという事をまず発見し、それに基づいてそれらの遺伝子産物が分子レベルでどのように相互作用しているかを遺伝学的に解析した。 BOの形成においては先程述べた眼特異的な転写因子群のうちsoとeyaが関与していることが分かった。すなわち、soとeyaはBOに将来分化する領域、前駆領域(Bolwig’s organ primordium:以下BOPとする)で発現し(図1)、atoの転写を活性化していることが分かった。atoはBOP全体のおよそ14個の細胞で初めに発現する(図1)。また、hhはBOPに隣接する領域で発現し(図1)、これもまたatoの転写を活性化していることが分かった。遺伝学的な解析からsoとeyaはhhの下流または平行で働いていることが分かった。このことはHedgehogシグナルと眼特異的な転写因子のsoとeyaが協調的にatoの転写を活性化していることを示している。Hedgehogシグナル経路は近年詳細に解析されており、その経路上にはpatched(ptc:リセプター)、smoothened(smo:膜タンパク質)、fused(fu:リン酸化酵素)、cubitus interruptus(ci:転写因子)等があるとされており、これらは様々な生物種間、形成器官間において普遍的に保存されていると考えられている。私は、Hedgehogシグナル経路がBOの形成においても保存されており、Hedgehogシグナル経路には必須の転写因子であるciがsoやeyaと協調してatoの転写を行っていることを確かめるために、経路上にあるとされる遺伝子群の各々を遺伝学的に解析した。その結果、smoとptcはBOの形成に必要であり、個の経路上にあることが分かったが、驚くべき事にfuとciはatoの発現、ひいてはBOの形成に不必要であり、このHedgehogシグナル経路にはfuとciは無関係であることが分かった。ciに関してはCiの活性化型もしくは抑制型の双方ともにBOの形成に不必要であり、このHedgehogシグナル経路には無関係であることが分かった。これらの結果をまとめると、将来BOに分化するBOP細胞の内部では、Smoの下流で未知のHedgehogシグナル経路が存在し、SoとEyaが直接Hedgehogシグナルを受けてatoの転写を活性化するか(図2:modelA)、未知の転写因子(X)がSoとEyaとが協調的にatoの転写を活性化する(図2:modelB)ことがわかった。なかでも、ci非依存的なHedgehogシグナル経路は現在まで報告された例はない。このことは生物種間で広く保存されているとされていた従来の概念と対峙するものであり、Hedgehogシグナル経路の構成因子が異なる発生段階、あるいは発生器官に依存して多様性を持ち得ることを示しており極めて興味深いと考える。 図1図2 次に私はBOのの発生段階における形成機序について解析をおこなった。上で述べたようにBOの発生機序については2段階の形成の機序が提唱されている。このモデルでは、atoがproneural遺伝子としてその分化を制御している複眼の視神経細胞や、胚や成虫肢の伸展感覚神経細胞の分化様式の類推から、BOにおいても神経分化は少数の創始細胞からまず起こると考えられていた。しかし、神経細胞特異的なマーカー分子を染色してみると、BOにおいては、創始細胞が選出される以前の、かなり初期の段階から神経分化がBOP全体(14細胞前後)で起こっていることが分かった。また、atoが欠損した変異体では結果的にBOは形成されていないことが知られていたが、初期の段階では野生株と同様に神経分化が起こっていることが分かった。しかし、hh、so、eyaはそれぞれ神経分化に対しても必要であることが分かったので、先に述べたHedgehogシグナルはatoの転写の活性化と共に、神経分化をも制御しており、これら二つの現象はHedgehogシグナルの下流で平行に存在することが示唆された。また、視細胞特異的なマーカー分子の発現は創始細胞を中心に周辺細胞に対して徐々に誘導されているように観察される。以上のことを考え合わせると、atoは創始細胞の選出に関わっており、既に分化した周辺の神経細胞に対して、視細胞としての特性を付与する役割を担っていると予想される。このことはatoのproneural遺伝子としての役割はある程度保存されていると考えられる。BOの形成機序に関する以上の結果をまとめたのが図3である。BOではまず神経細胞の特性を得てから次に視細胞の特性を得ることを示している。この分化機構はショウジョウバエの他のproneural遺伝子群(achaete-scute complex等)が制御する神経系を広く見渡してみても、非常に特異的であり、神経分化の分子メカニズムの多様性を示していると共に、従来の概念に一石を投じたものと考える。 図3 |