長期記憶の維持には遺伝子発現が必要である。また記憶の神経細胞レベルでの素過程とされる長期増強(long-term potentiation;LTP)の維持にもタンパク、RNAの合成が必要である。私は記憶の維持にどのような遺伝子発現が必要なのかを調べるため、ラット海馬歯状回でのin vivo LTPを記憶のモデルとして、この際に発現変化を示す遺伝子群をdifferential display法によって網羅的に探索した。 まずはじめにラットにおいて麻酔下で刺激電極および記録電極をそれぞれperforant pathway、海馬歯状回に挿入し、perforant pathwayに高頻度電気刺激を与えることで急性的にLTPを誘導した海馬を用いてスクリーニングを行った。この際脳で発現しているとされる約30000種類の遺伝子をどれも90%以上の確率で少なくとも一回表示するために、合計459のプライマー組を用いた。またスクリーニングの再現性を高めるために一次スクリーニングでは各比較群について2個体から由来した独立のcDNAサンプルを用い、発現変化を確認するための二次スクリーニングではさらに別の個体由来のcDNAを一個体ずつから用意した。その結果表示された全70000バンド中80バンドにおいて、LTP誘導後45分、または3時間45分における海馬でnaiveと比べて異なった発現量を示していた。これら80バンドはその発現変化のタイムコースから1)LTP誘導後45分で一過的な発現誘導を示すもの、2)LTP誘導後45分で発現誘導を示し、3時間でも発現上昇が持続しているもの、3)LTP誘導後3時間で発現誘導を示すもの、4)LTP誘導後45分で発現誘導を示し、3時間でも発現上昇が持続しているがややレベルが下がっているもの、5)LTP誘導後45分、3時間にかけて徐々に発現が増加してゆくもの、6)LTP誘導後3時間で発現が減少するもの、7)LTP誘導後45分で一過的な発現の減少を示すもの,の7つのタイプに分類でき、1、2のタイプが多数を占めた(table 1)。一方LTP誘導後に発現低下を示すもの(タイプ6、7)も見られ、LTPの維持に転写レベルでの複雑な分子基盤が存在することが示唆された。 Table 1 上記方法によるLTP誘導は記録電極による海馬の損傷や、手術および記録中の麻酔が脳での遺伝子発現に影響を与えている可能性を否定できない。そこで次に、これらの影響を排除するためにperforant pathway、海馬歯状回にそれぞれ刺激電極、記録電極を慢性的に埋め込んだラットで長期持続型LTPを誘導する実験条件を用いスクリーニングを行った。この際control群としてLTPを誘導しないような低頻度電気刺激を与えられた海馬を用いた。実験群として用いた動物に誘導した歯状回LTPは少なくとも一週間にわたって集合電位の増強が持続するようなものであることを確認した。またできるだけ様々な遺伝子をまんべんなく表示するために、differential displayで用いるarbitrary primerのGC contentの度数分布を実際にデータベース(Genhank)に登録されているcDNA配列の3’側のGC contentの度数分布に一致するようarbitrary primerを用意し、PCRの際にcDNAがanchor-arbitraryで増幅されるようanchor primerの濃度を最適化した。そして一次スクリーニングでは各比較群(LTP誘導後75分、3時間30分、24時間、およびそれぞれに対応する低頻度刺激群)につき3個体、二次スクリーニングではさらに別の一個体ずつからcDNAをそれぞれ用意することでfalse positiveのバンドを拾う可能性を減らした。スクリーニングの結果480のプライマー組を用いて表示された全72000バンド中17バンドにおいて再現性よく発現変化を示すバンドが見出された。これらは全てLTP誘導後75分で発現上昇が認められ、24時間後までには元のレベルに戻るものであった。クローニングの結果これらは少なくとも10種類の遺伝子からなることが分かり(table 2)、1)未知の遺伝子(3つ;RM1-3)、2)既知であるがLTPによる誘導の知られていなかった遺伝子(2つ;RM3,4)、および3)既知でありLTPによる誘導も既に報告されている遺伝子(5つ;RM6-10)、という3つのグループに分類された。グループ1、2の遺伝子群についてさらに詳細な発現様式の解析を行ったところ、これらの発現誘導は全てNMDA型グルタミン酸レセプターをブロックすると抑制されることが明らかになった。このことからこれら遺伝子の発現誘導が単なる神経細胞膜の脱分極によるものではなく、LTPの誘導によるものであることが分かった。さらに、電気刺激後60分では集合電位の増強が見られるが24時間後には元のレベルに戻るような比較的弱い電気刺激によって引き起こされる非持続型LTPにおいてはこれらグループ1、2の遺伝子は発現誘導を示さないことが明らかになった。このことからこれら遺伝子の発現誘導と長期持続型のLTPとの間に強い相関があることが分かった。またノザンブロットによる発現解析の結果、グループ1の遺伝子はどれも比較的限られた組織で発現しており、脳発生段階において生後シナプス形成等が盛んに行われる時期以降に発現していることが分かった。このことからグループ1の遺伝子群が成体脳での神経可塑性に重要な役割を果たしている可能性が示唆された。さらにクローニングの結果、RM3は新規RING fingerタンパク(potentin)をコードしていることが明らかになり、これとのEGFP融合タンパクはPC12細胞において核には少なく、細胞質に主に存在した。このことからpotentinは転写因子として以外のはたらきをしている可能性が示唆された。 Table 2 グループ2の遺伝子として見出されたGADD153/CHOPはもともと様々な細胞ストレスに応答して発現誘導されるC/EBP transcription factor familyの遺伝子であり、その発現はCREB2によって制御されていることが知られている。GADD153/CHOPタンパクは他のC/EBPタンパクとへテロダイマーを形成してさらに下流の遺伝子発現を制御しているとされている。そしてこれら下流の遺伝子としてアクチン結合タンパクであるvillin、gelsolinのホモログであるDOC6が同定されている。CREBが長期記憶およびLTPの維持に必須であることを考えると、学習に伴うCREBの活性化によって発現誘導された GADD153/CHOPがアクチン動態に関与する遺伝子の量を調節することで、長期記憶におけるニューロンの形態変化などのダイナミックな可塑性を制御している可能性がある。 |