本論文は全7章からなり、第1章は研究の背景と目的、第2章は実験・分析方法と研究海域の記載、第3章、4章、5章はそれぞれ現場の植物プランクトン、微小動物プランクトン、コペポーダによる溶存有機窒素(DON)の排出、第6章は窒素循環に対するコペポーダの影響、第7章は沿岸域表層での各生物群集のDON生成に対する寄与の評価について述べられている。本研究は海洋における窒素循環の中で大きな現存量を持ちながら分析の困難さから解析が遅れていたDONの主に生成過程について各栄養段階の生物群集の定量的な寄与に注目し15-Nトレーサーを用いて定量的に評価することを目的としている。 第2章では、これまでの15-N DONの分析方法を再検討し、試料の処理時間を半減しながら高い精度で15-N濃度の分析を可能にした方法について述べている。この手法を使って、第3章、4章、6章では北海道の厚岸湾の測点における各生物群集による15-N DONの生成速度を春から秋にわたって測定した結果を示した。まず第3章では15-Nアンモニアを植物プランクトンに取り込ませ短時間に生成される15-N DONを主に植物プランクトン起源と考えて、サイズが20m以下と94m以下の分画でDONの生成速度を比較したところ、前者の方がDONの生成効率は高くなった。この結果は小さいサイズの植物プランクトンの方がDON排出能が高いことを示している。また15-Nの植物プランクトンへの取り込みは12時間の間ほぼ直線的に増加したがDONへの取り込みは速度は時間と共に減少し、細菌群集による速やかな取り込みが考えられた。 第4章では現場での微小動物プランクトン群集によるDONの生成速度を摂餌実験で用いられる希釈法と15-Nトレーサーを組み合わせることで初めて成功した結果が示される。実験では希釈段階が進むにつれて15-N植物プランクトンを摂餌して生成される15-N DONの減少が見いだされた。植物プランクトン、微小動物プランクトンを15-N DON生成者、細菌群集をその消費者としてモデルを作り、重回帰分析を行った結果季節を変えて5回行ったすべての実験で、15-N DONの主たる生成者として微小動物プランクトンが挙がった。又微小動物プランクトンによるDONの生成と細菌群集による消費はこれらの実験でもほぼバランスしていた。さらに微小動物プランクトンにより生成されるDONの窒素量は、同じ系内で有機窒素の分解によって生産されるアンモニアの約60%に達することも示された。 第5章および6章では、海洋生態系の代表的な2次生産者であるコペポーダのDONの生成に対する寄与を評価するために2つのアプローチを行っている。1つは15-Nアンモニアを植物プランクトンに十分取り込ませた系にコペポーダを添加して培養を行い、懸濁態窒素中とコペポーダ中の15-N量を比較したところ、懸濁態から除去された15-Nの25-90%もの窒素がコペポーダに取り込まれず、溶存化していることが明らかになった。この原因の1つとしてコペポーダが餌の一部を周囲の海水中に食べこぼす現象が起きていることが推測され、又溶存化された窒素の多くはDONであると考えられた。さらにアンモニアから始まる窒素循環に対するコペポーダの影響を評価するため、15-Nアンモニアとコペポーダの添加を同時に行う実験を行った。その結果、コペポーダの無添加の系と比較して、植物プランクトンが卓越する季節には15-N DONの生成に対するコペポーダの効果は促進的だったが、懸濁物に占める植物プランクトンの割合が低下する時期ではその効果は抑制的であった。この結果はコペポーダによる微小動物プランクトンの摂餌が間接的に15-N DONの生成を制御している可能性を示している。 第7章では厚岸湾表層での溶存有機物(DON)生成およびその消費における各栄養段階の生物群集の寄与率を季節ごとに検証した。ここで用いた手法では植物プランクトンおよびコペポーダの寄与は過大評価になるにもかかわらず、微小動物プランクトンのDON生成の寄与が季節を平均して約80%近くを占めたことは、微小動物プランクトン群集がこの海域での主要なDON生成者であることを示している。さらに本研究の結果は溶存有機窒素のある部分は沿岸表層で活発に微小動物プランクトンなどにより生成され、それが細菌群集により速やかに代謝されることで食物連鎖によるアンモニアの再生産を促進し植物プランクトンによる生産を増加させている機構が考えられた。 以上の研究は海洋での溶存有機窒素の生成機構、特に各栄養段階の生物群集の役割について新しい知見を与えるものとして高く評価できる。なお本論文第3章、4章および6章は他の2名との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |