学位論文要旨



No 115048
著者(漢字) 長谷川,徹
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,トオル
標題(和) 沿岸表層域のプランクトン群集による溶存態有機窒素の生成機構の解析
標題(洋) Release of dissolved Organic nitrogen by planktonic community in coastal waters
報告番号 115048
報告番号 甲15048
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3812号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小池,勲夫
 東京大学 助教授 舘野,正樹
 東京大学 助教授 永田,俊
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 西田,周平
内容要旨 はじめに

 海洋生態系における主たる低次生産を担っているのはプランクトン群集であり、一次生産者として植物プランクトン、二次生産者として動物プランクトン、細菌を挙げることができ、さらに動物プランクトンはそのサイズによりネット、および微小動物プランクトンに分類される。これらの生産は様々な生物的・非生物的な要因によって支配されるが、中でも重要な要因の1つと考えられているのが窒素の供給である。

 海洋中での窒素はその存在形態によって3つのグループに大別される。有機態窒素の区別は一般にろ過により行われ、殆どのプランクトン群集が含まれる懸濁態有機窒素と溶存態有機窒素(以下DON)とに分けられる。海洋表層ではDONの現存量が相対的に大きく、少なくともその一部はプランクトン群集の窒素源として重要であると考えられてきた。

 DONの生成に関しては様々な栄養段階の生物が関わっていることが間接的な証拠から推測されている。それらのプロセスとして(1)植物プランクトンによるDONの漏出、(2)動物プランクトンの摂餌・排泄に伴なうDONの生成、(3)細菌群集による懸濁態有機物の分解過程でのDONの溶出などを挙げることができ(3)は主に中・深層への沈降過程で重要と考えられる。しかしDONが非常に多くの化合物により構成されていること、構成比が時空間的に変化すること、DONの存在量が非常に大きいためその濃度変化を検出し難いこと、消費と生成のプロセスが同時に存在することなどの理由によりDONの動態に関する知見は最近までごく限られたものであった。

 海洋生態系における窒素循環の研究において窒素の安定同位体である15Nトレーサーの果たした役割は大きい。最近DONについてもこれらの分画における15N量の測定法が開発され、DONの動態に関する知見が蓄積しつつある。しかしDONの動態に、植物プランクトン、微小動物プランクトンおよびネット動物プランクトンがどの程度寄与しているかは明らかでなかった。

 本研究は北海道厚岸湾を沿岸生態系のモデルとして選び、表層水中のプランクトン群集をサイズ分画等の処理後、15Nトレーサー実験を行うことによって、沿岸表層域におけるDON生成に対してそれぞれのプランクトンがどの程度寄与しているのかを見積もり、さらに沿岸生態系においてDONが全体の窒素循環の中で果たす役割を評価することを目的とした。

結果と考察1.DON中の窒素安定同位体比(15N atom%)の測定法の検討

 15N atom%の測定にはDONと無機態窒素との分離が不可欠であるが、従来の測定法ではこの前処理に長い時間(1週間)を要するため分析法の改良を行った。主な改良点は試水から無機態窒素を除去する過程で減圧濃縮を用いた点である。この結果、前処理にかかる時間を半減しつつ高い無機態窒素の除去率およびDONの高い回収率を可能にすることができた。

2.厚岸湾の特性

 厚岸湾は比較的閉鎖性の高い湾であり、最大水深約30m、面積は128.4km2となっている。この湾の一次生産は他の中緯度域の湾に比べ高いことが知られている。実験期間中、水温は-1〜17℃、無機態窒素は検出下限以下〜12M、クロロフィルaは2〜12gl-1の範囲で変化した。

3.微小プランクトン群集(94m以下)によるDON生成

 厚岸湾表層水中の94m以下の分画においては、植物プランクトンの大部分、原生動物、後生動物の幼生、細菌が含まれる。これらの生物のDON生成への寄与を見積もるため、3月から11月の異なる季節において以下の実験を行なった。

(1)15NH4+添加による植物プランクトンの評価

 海洋表層における一次生産の大部分は植物プランクトンにより担われ、従属栄養生物の大部分はこの有機物生産を何らかの形で利用している。植物プランクトンの現存量が高い沿岸表層域においてはNH4+の大部分は植物プランクトンに取り込まれ有機物へと合成される。このため培養実験の開始と同時に15NH4+を添加した場合、比較的短時間の内に生成される15NでラベルされたDON(以下DO15N)は主に植物プランクトンにより漏出されるものと考えられる。

 15NH4+を添加した後、明条件下で12時間の培養実験を行ない各態窒素中の15N量の経時変化を求めた。アンモニア態窒素中の15N量は時間とともに直線的に減少し、懸濁態窒素中の15N量は直線的に増加した(図1)。

図1 厚岸湾表面海水(1998年6月)を用いた培養実験におけるNH4+,懸濁態有機窒素(PON)および溶存態有機窒素(DON)中の15N量の変化.図中の直線は回帰直線.

 これは主に植物プランクトンの15NH4+の取り込みによると考えられる。一方DON中の15N量は経時的に増加して行くものの増加率は徐々に下がって行くことが観察された。これは生成されたDONが細菌により消費されていることを示唆するものである。

 またプランクトン群集構造の違いがDONの生成過程に及ぼす影響を評価するためにメッシュサイズ20mと94mのプランクトンネットでサイズ分画を行ない、それぞれに15NH4+を加え明条件下で培養実験(1および6時間)を行なった。全有機態15N生産に対するDO15Nの生成量の百分率(PER)は、15NのPONへの取り込みが2つの分画で殆ど変わらない6月を除くと94m以下の分画に比べ20m以下の分画で高い値を示した(表1)。この結果は小型の植物プランクトンは大型のものに比べてDON生成の効率が高いことを示すものと考えられた。

表1 厚岸湾表面海水を用いたサイズ分画培養実験後の懸濁態有機窒素(PON)、溶存態有機窒素(DON)中の15N濃度(nM)および全有機態15N生産に対する溶存態有機15N生成の百分率(PER).数値は平均値(±レンジ).
(2)希釈法による微小動物プランクトンの評価

 微小動物プランクトンはネット動物プランクトンに比べ単位炭素量当りの摂餌速度および呼吸速度が高いことが報告されており窒素循環に果たす役割も高いことが期待される。しかし微小動物プランクトンの大きさの分布はその餌生物である植物プランクトンと重なっているため、天然プランクトン群集を扱う際には、上記のようなサイズ分画法では微小動物プランクトンのDON生成に果たす役割を評価することは困難である。本研究では微小動物プランクトンによる摂餌速度を見積もるのに利用される希釈法と15Nトレーサー実験を組み合わせることにより微小動物プランクトンのDON生成に対する寄与を見積もった。15NH4+を加え数日の前培養を行ない餌生物である植物プランクトンを15Nでラベルした。この海水を用いて希釈系列を作成し暗条件下で6および12時間の培養実験を行なった。すべての実験において無希釈(100%)の海水ではDO15Nの増加が認められたが希釈の程度に応じてDO15Nがより減少する傾向が見られた。植物プランクトンおよび微小動物プランクトンをDO15N生成要因、細菌をその消費要因としてモデルをたてて重回帰分析を行なうとDO15Nの生成者として微小動物プランクトンを挙げることができた。DO15Nの生成と細菌による消費は良く釣り合いが取れており、培養時間内に生成されたものの58〜103%に当たるDO15Nが消費されていた(表2)。

表2.厚岸湾表面海水中(1998年)の微小動物プランクトンによる溶存態有機窒素生成速度およびバクテリアによる消費速度(nmol l-1h-1).
4.ネット動物プランクトン(Copepods)によるDONの生成

 Copepodsは海洋生態系の代表的なネット動物プランクトンであり、植物プランクトンとCopepodsの間の捕食、被食の関係は古くから重要なものとして認識されてきた。厚岸湾のCopepodsのDON生成に対する寄与を見積もるため、3月〜11月の各季節において15NH4+を加え数日の前培養を行なった試水にCopepodsを加えて6および12時間の培養実験を暗条件下で行なった。15Nトレーサーの懸濁態分画からの除去とCopepodsの体内への蓄積を比較すると、除去されたものの内25から91%もの窒素が未回収となった。この主要な原因として餌の一部を周囲の海水中に食べこぼすいわゆる"sloppy feeding"を挙げることができ、これら溶存化したもののかなりの部分が有機物であることが示唆された。一方、DON中に15Nトレーサーは殆ど回収されなかった。これは上記の実験でも観察されたように、生成されたDONが細菌により消費されることによると考えられた。

5.厚岸湾表層におけるDON生成に対する各生物群集の寄与

 1998年3〜11月における3〜5回の15Nトレーサー実験の結果から得られた厚岸湾表層生態系における植物プランクトン、微小動物プランクトンおよびCopepodsそれぞれのDON生成に対する寄与を図2にまとめた。Copepodsはかなり効率よくDONを生成することが示唆されたが、現場でのCopepodsの現存量が低いため単位試水あたりの生成に対する寄与は他の生物群集と比較すると小さいことが明らかになった。一方本研究期間中の現場における無機態窒素濃度は11月を除いて低い為、サイズ分画法でのアンモニアの添加は植物プランクトンによるDON生成を過大評価している可能性がある。それにもかかわらず微小動物プランクトンによるDON生成に対する高い寄与率が推定されていることは厚岸湾表層生態系におけるこの生物群集のDON生成に対する重要性を示すものと考えられた。一方、微小動物プランクトンにより生成されるDONの窒素量は同じ系内で再生産されるアンモニアの窒素量の59%に匹敵することが明らかとなった。

図2厚岸湾(1998年)の各プランクトン群集による溶存態有機窒素の生成速度(nmol l-1h-1)
まとめ

 厚岸湾表層生態系におけるDON生成に微小動物プランクトンが重要な働きを果たしていることが明らかとなった。またDON生成のプロセスの如何にかかわらず生成されたDONは速やかに細菌により消費されることが示唆された。DONは表層生態系の重要な窒素源であり、回転時間の速いDONプールが存在することが明らかになった。

審査要旨

 本論文は全7章からなり、第1章は研究の背景と目的、第2章は実験・分析方法と研究海域の記載、第3章、4章、5章はそれぞれ現場の植物プランクトン、微小動物プランクトン、コペポーダによる溶存有機窒素(DON)の排出、第6章は窒素循環に対するコペポーダの影響、第7章は沿岸域表層での各生物群集のDON生成に対する寄与の評価について述べられている。本研究は海洋における窒素循環の中で大きな現存量を持ちながら分析の困難さから解析が遅れていたDONの主に生成過程について各栄養段階の生物群集の定量的な寄与に注目し15-Nトレーサーを用いて定量的に評価することを目的としている。

 第2章では、これまでの15-N DONの分析方法を再検討し、試料の処理時間を半減しながら高い精度で15-N濃度の分析を可能にした方法について述べている。この手法を使って、第3章、4章、6章では北海道の厚岸湾の測点における各生物群集による15-N DONの生成速度を春から秋にわたって測定した結果を示した。まず第3章では15-Nアンモニアを植物プランクトンに取り込ませ短時間に生成される15-N DONを主に植物プランクトン起源と考えて、サイズが20m以下と94m以下の分画でDONの生成速度を比較したところ、前者の方がDONの生成効率は高くなった。この結果は小さいサイズの植物プランクトンの方がDON排出能が高いことを示している。また15-Nの植物プランクトンへの取り込みは12時間の間ほぼ直線的に増加したがDONへの取り込みは速度は時間と共に減少し、細菌群集による速やかな取り込みが考えられた。

 第4章では現場での微小動物プランクトン群集によるDONの生成速度を摂餌実験で用いられる希釈法と15-Nトレーサーを組み合わせることで初めて成功した結果が示される。実験では希釈段階が進むにつれて15-N植物プランクトンを摂餌して生成される15-N DONの減少が見いだされた。植物プランクトン、微小動物プランクトンを15-N DON生成者、細菌群集をその消費者としてモデルを作り、重回帰分析を行った結果季節を変えて5回行ったすべての実験で、15-N DONの主たる生成者として微小動物プランクトンが挙がった。又微小動物プランクトンによるDONの生成と細菌群集による消費はこれらの実験でもほぼバランスしていた。さらに微小動物プランクトンにより生成されるDONの窒素量は、同じ系内で有機窒素の分解によって生産されるアンモニアの約60%に達することも示された。

 第5章および6章では、海洋生態系の代表的な2次生産者であるコペポーダのDONの生成に対する寄与を評価するために2つのアプローチを行っている。1つは15-Nアンモニアを植物プランクトンに十分取り込ませた系にコペポーダを添加して培養を行い、懸濁態窒素中とコペポーダ中の15-N量を比較したところ、懸濁態から除去された15-Nの25-90%もの窒素がコペポーダに取り込まれず、溶存化していることが明らかになった。この原因の1つとしてコペポーダが餌の一部を周囲の海水中に食べこぼす現象が起きていることが推測され、又溶存化された窒素の多くはDONであると考えられた。さらにアンモニアから始まる窒素循環に対するコペポーダの影響を評価するため、15-Nアンモニアとコペポーダの添加を同時に行う実験を行った。その結果、コペポーダの無添加の系と比較して、植物プランクトンが卓越する季節には15-N DONの生成に対するコペポーダの効果は促進的だったが、懸濁物に占める植物プランクトンの割合が低下する時期ではその効果は抑制的であった。この結果はコペポーダによる微小動物プランクトンの摂餌が間接的に15-N DONの生成を制御している可能性を示している。

 第7章では厚岸湾表層での溶存有機物(DON)生成およびその消費における各栄養段階の生物群集の寄与率を季節ごとに検証した。ここで用いた手法では植物プランクトンおよびコペポーダの寄与は過大評価になるにもかかわらず、微小動物プランクトンのDON生成の寄与が季節を平均して約80%近くを占めたことは、微小動物プランクトン群集がこの海域での主要なDON生成者であることを示している。さらに本研究の結果は溶存有機窒素のある部分は沿岸表層で活発に微小動物プランクトンなどにより生成され、それが細菌群集により速やかに代謝されることで食物連鎖によるアンモニアの再生産を促進し植物プランクトンによる生産を増加させている機構が考えられた。

 以上の研究は海洋での溶存有機窒素の生成機構、特に各栄養段階の生物群集の役割について新しい知見を与えるものとして高く評価できる。なお本論文第3章、4章および6章は他の2名との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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