学位論文要旨



No 115052
著者(漢字) 嶋永,元裕
著者(英字)
著者(カナ) シマナガ,モトヒロ
標題(和) 相模湾漸深海底定点における小型深海底生生物群集の個体数・垂直分布・繁殖活性の季節変動、および種の多様性に関する研究
標題(洋) Seasonal changes in abundance,vertical distribution and reproductive activity, and species diversity of the meiofaunal community at a bathyal site in Sagami Bay,Central Japan
報告番号 115052
報告番号 甲15052
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3816号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,秀
 東京大学 教授 雨宮,昭南
 京都大学 教授 白山,義久
 東京大学 教授 松本,忠夫
 東京大学 助教授 小島,茂明
内容要旨

 深海底は1970年代前半まで、外界から隔離された食糧供給の乏しい安定した世界であると思われていたが、海洋表層で生産された有機物粒子が季節的に大量に沈降し、それによって生態系が短期間で変化することが、大西洋の大洋底(水深4500m)における研究から明らかになってきた。しかし、深海底の変動を長期に渡って定期的に観察することは時間面・財政面から難しく、全海底の90%以上を占める深海底生物群集の時間的変動の全貌を明らかにするには至っていない。

 海面から海底までの物質循環の時空間変動を生物学・地質学・化学の視点から解析するため、複数の大学の研究者グループが、相模湾内の漸深海底定点(水深1400m)における周年観測を1996年12月より、1998年8月まで約1ヶ月ごとに継続して行った。その一環として行われた本研究の目的は、海洋表層で生産された物質が最終的に到達する深海底に棲息する小型生物群集の時間的変動の解明である。そのために、海底に到達する一次生産物(深海性メイオファウナの主な食糧源)の指標となる堆積物中のクロロフィル由来物質(CPE:chloroplastic pigment equivalent)の量、最大の第一次消費者であるバクテリアの全菌数を測定した。また、堆積物中の生物活性の指標としてEC(Adenylate energy charge=(ATP+1/2ADP)/(ATP+ADP+AMP))の変動、さらに食物連鎖における高次消費者として多細胞性メイオファウナ各生物群の個体数・堆積物中垂直分布の時間変動、およびカイアシ類の繁殖活動と種の多様性に関する調査を行った。

堆積物中のCPE、バクテリア全菌数、EC、メイオファウナ個体数・生物量の変動

 1997年5月、1998年4・5月では、堆積物中表層2cm以浅に、高い濃度のCPEが検出され、その変動には5%水準で有意差が検出された(図1)。上記におけるCPE濃度の増加は、プランクトンブルームで生産された一時生産物、あるいは比較的分解の進んでいない物質が海底に到達したためと思われる。しかし、それ以外の季節でもCPEは消失せず、堆積物各層で安定した値をとり、その値はほぼ同じ水深の他海域の海底から報告された値よりも高かつたが、これは、相模湾では有機物質が通年海底に供給されていることを示唆している。また、これらの結果は、海面、および海中で観測された一次生産量・植物由来の海中沈降粒子量の変動パターンと矛盾しない。また表面下9cmの堆積物中にも通年高濃度のCPEが存在するが、堆積物表層に多数観察された管棲ゴカイなどのマクロファウナによる有機物の輸送が一因として考えられる。

 バクテリアの全菌数は、冬にやや少なくなる傾向があり、堆積物表層から5cmまでのバクテリア全菌数の合計は季節間で有意差があったが、その変化はCPEの値ほど顕著ではなく、変動幅は1.6倍程度であった(図1)。バクテリア全菌数は、堆積物表層から深くなるにつれて減少する傾向が見られたが、その減少は急激なものではなく、表面下9cmの堆積物中でも表層堆積物中の1/2程度のバクテリア個体数が観察された。ECの値は常に0.5程度の低い値をとり、その変動に季節的なパターンは見られず、検定でも有意差は検出されなかった(図1)。

 メイオファウナ全体の個体数は平均1044(標準偏差±362)×103ind./m2、生物量は0.25(±0.08)gC/m2であった。これらの値は他の同程度の水深から報告された個体数・生物量と同等か、やや大きい。個体数で最も優占した分類群は、線虫類(65%)であったが、カイアシ類(成体+コペポダイト幼体;14%)、ノープリウス幼体(大部分はカイアシ類の幼体と思われる;13%)も多く観察され、この3つのグループが通年全個体数の90%以上を構成していた。メイオファウナの全個体数・生物量は、97,98年共に、春増加する傾向が見られたものの、その変動に有意差は検出されなかった(図1)。各生物群の個体数にも明確な季節変動は検出されなかった。また、体サイズの変化にも季節的パターンは見出されなかった。ただし、この体サイズは500m,250m,125m,63m,31mの各篩に分画された個体数の割合を元に算出されており、生物の成長によるサイズの変化を同定できる精度がない可能性もある。

図1.CPE・バクテリア全菌数・EC・メイオファウナ全個体数の変動
メイオベントスの堆積物内垂直分布の季節変動とファイトデトリタスとの関連

 堆積物を深度に沿って、0-0.25cm,0.25-0.5cm,0.5-0.75cm,0.75-1cm, 1-2cm,…,4-5cmの8つの層に分け、異なる季節に採集された堆積物中の各層のメイオベントス分類群構成を元にクラスター解析を行った結果、それらは4グループに大別されることがわかった。表面下2cm以深の堆積物層では生物相が線虫類で占められており、季節を問わずそのほとんどが1つのグループに含まれた。一方2cm以浅の堆積物各層は他の3グループに振り分けられた。メイオベントスの主な分類群のうち、堆積物中最も上層に分布していたのは貝虫類で、ノープリウス幼体、カイアシ類、動吻類、多毛類、線虫類の順に鉛直分布の中心はより深い方にずれていた(図2)。上記の分類群のうち、カイアシ類、およびその抱卵メスとノープリウス幼生、動吻類の鉛直分布は季節的に変動した。このうちカイアシ類全体と動吻類の鉛直移動は堆積物表層のクロロフィル由来物質の濃度変動と相関が見られた。この結果は、海面表層におけるプランクトンブルームに関連して、海底堆積物表層に蓄積される比較的新鮮な有機物の量が増加すると、それに誘発されて上記の動物群が、個体群全体として堆積物の上層に移動することを示唆している。また、2cm以浅の堆積物層がクラスター解析により複数グループに分かれたのは、これらの動物群が各層に股がって垂直移動し、その結果、各層の分類群構成が季節的に変化したためと考えられる。カイアシ類の抱卵メスとノープリウス幼生はクロロフィル由来物質の濃度変動との有意な相関が検出されなかったが、カイアシ類全体・抱卵メス・ノープリウス幼生の鉛直分布は互いに強く相関した。これは、カイアシ類の成体メスが、新鮮な食糧に誘発されて表層にただちに移動して摂食するのに対し、それらのメスがその後抱卵し、卵からノープリウス幼生が孵るまでに生じる時間差によるものと考えられる。一方、線虫類・多毛類・貝虫類の鉛直分布には有意な変化は見られなかった。浅海では、堆積物表層に分布するカイアシ類が新鮮な有機物を利用するのに対して、より深いところに分布している線虫類が比較的古い有機物を利用することが知られている。今回の研究結果は、浅海同様、深海でもメイオベントス分類群間で海底に供給される有機物に対する反応が異なることを示唆している。

図2.メイオベントス各動物群の堆積物中の平均鉛直分布の変動
カイアシ類の繁殖活性の季節変動、および種の多様性

 線虫類に次いで優占したカイアシ類では、個体数変動に季節パターンは見られなかったが、カイアシ類の個体群全体に占める抱卵メスの割合は、97,98年共に堆積物中のCPE濃度が相対的に増加した時期、あるいはその直後に増加し、その変動は有意であった。有意差は検出されなかったものの、カイアシ類に対するノープリウス幼体の割合にも同様の季節パターンが見られた。

 これらの値の変動は、海底の到達する有機物の増大に伴ってカイアシ類の個体群全体で繁殖活性が増加し、カイアシ類1個体当たりのノーブリウス幼生の出生率が上がったことを示唆している。一方、カイアシ類全体に占めるコペポダイト幼体の割合には、これまでに浅海で観察されたような季節的変動が観察されなかった。96年12月に採集された堆積物中のカイアシ類の種多様度(rarefraction curveを元に算出された50個体当たりの種数の期待値は29)は、これまでに報告された深海底における種多様度と比較して同等かそれより高いことがわかった(図3)。2,3種が優占する浅海と違い、本研究海域では成長速度の異なる多数の種で繁殖活性が季節的に高まる可能性があり、その場合成長過程の後期であるコペポダイト期に達する時間にばらつきが生じるため、浅海のような顕著なコペポダイト幼体の比率の変化が見られず、常に一定の値をとったと考えられる。優占種の一つであるCervinia sp.の個体数の季節的変動パターンには有意差が検出されたが、全個体数に占める抱卵メス/コペポダイト幼体の比率、および堆積物中の垂直分布には季節的変動は見られなかった。本種はカイアシ類の中では大きい体サイズ(1.3mm)を持ち、急激な成長をするとは考えにくい。したがって本種は、堆積物表層付近の比較的浅い部分に棲息し、はっきりした繁殖期を持たずに1年のかなり長い期間にわたって産卵を行い、比較的長い寿命を持つと考えられる。

図3.Rarefraction curveで表示した相模湾と他の深海底におけるカイアシ類の種の多様度

 以上の結果は、本研究海域は海底に供給される有機物質量には季節的な変動があるものの、通年供給が行われており、そのため生物群集の個体数・活性には劇的な変動が現れないことを示唆している。その一方で、深海においても堆積物表層に蓄積される有機物の増加に合わせてカイアシ類と動吻類の垂直分布が変化し、特にカイアシ類全体では、その直後に繁殖が活性化されることが示唆された。深海産のメイオファウナは種の同定が困難であり、本研究でもカイアシ類1種の個体群動態が追えたのみである。深海生態系の知見を広げるための近未来の課題として、本研究海域に棲息するカイアシ類各種の動態の解明に取り組みたい。

審査要旨

 深海底は外界から隔離された食糧供給の乏しい安定した世界であると思われてきた。しかし、海洋表層で生産された有機物粒子が季節的に大量に沈降し、それによって生態系が短期間で変化する可能性もいくつかの海域で指摘されたが、全海底の90%以上を占める多様な深海底の季節変動を一般化して説明するには、調査海域、立地条件、サンプリング間隔とその継続性において十分とはいえなかった。そこで、学位申請者らは深海底の生物環境の変動を長期に渡って定期的に実証する研究を計画し、相模湾内の漸深海底定点(水深1400m)における周年観測を1996年12月より、1998年8月まで約1ヶ月ごとに継続した。

 本論文の主眼目は、海洋表層で生産された物質が最終的に到達する深海底に棲息する小型生物群集の時間的変動の解明であり、以下の3部からなっている。

 第1部.1997年5月、1998年4・5月では、堆積物表層2cm以浅に高い濃度のクロロフィル由来物質(CPE)が検出され、その変動は5%水準で有意であった。上記におけるCPE濃度の増加は、プランクトンブルームで生産された一次生産物、あるいは比較的分解の進んでいない物質が海底に到達したためと結論できる。しかし、それ以外の季節でもCPEは消失せず、堆積物各層で安定した値で検出された。バクテリアの全菌数は、冬にやや少なくなる傾向があり、季節間で有意差があったが、その変化はCPEの値ほど顕著ではなく、変動幅は1.6倍程度であった。生物活性の指標であるECの値は常に0.5程度の低い値をとり、その変動に季節的なパターンは見られず、検定でも有意差は検出されなかった。メイオファウナ全体の個体数・生物量は他の同程度の水深から報告された個体数・生物量と同等か、やや大きかった。これらの値は、97・98年共に春増加する傾向が見られたものの、その変動に有意差は検出されなかった。以上の結果は、本研究海域は海底に供給される有機物質量には季節的な変動があるものの、通年供給されており、そのため、生物群集の個体数・活性には劇的な変動が現れないことを示した。

 第2部.メイオベントスの主な分類群のうち、カイアシ類およびその抱卵メスとノープリウス幼生、動吻類の堆積物内鉛直分布は季節的に変動した。このうちカイアシ類全体と動吻類の鉛直移動は堆積物表層のCPEの濃度変動と相関が見られた。この結果は、海底堆積物表層に蓄積される比較的新鮮な有機物の量が増加すると、それに誘発されて上記の動物群が個体群全体として堆積物の上層に移動することを示唆している。一方、線虫類・多毛類・貝虫類の鉛直分布には有意な変化は見られなかった。これらの結果から、浅海と同様、深海でもメイオベントス分類群間で海底に供給される有機物に対する反応が異なることを示した。

 第3部.線虫類に次いで優占したカイアシ類の種多様度は、これまでに報告された深海底における種多様度と比較して同等かそれより高かった。その多様性の高さから、すべての種の個体群動態は追えなかったが、カイアシ類の個体群全体に占める抱卵メスの割合は、97および98年共に堆積物中のCPE濃度が相対的に増加した時期、あるいはその直後に増加し、その変動は有意であった。有意差は検出されなかったものの、カイアシ類に対するノープリウス幼体の割合にも同様の季節パターンが見られた。これらの値の変動から、海底の到達する有機物の増大に伴ってカイアシ類の個体群全体で繁殖活性が増加し、カイアシ類1個体当たりのノープリウス幼生の出生率が上がったことを証明した。

 なお、本論文第1と第2部は白山義久、北里洋らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析・考察したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク