内容要旨 | | 有性生殖を行う動物は個体発生の進行に伴い雌雄の特徴が現れる。そして雌雄がそれぞれ卵子、精子を生じ、受精を行ない、次世代を創る。すなわち、それぞれの種が地球上で増殖・繁栄するためには、個々の生物が雌雄にわかれる性決定・性分化は極めて重要な過程である。さらに、最初の生命体から今日地球上に生息するすべての動植物が進化してきたことを考えると、この基本的営みを支える共通の遺伝的仕組みがあるはずであろう。しかし、生物の性決定・性分化の機構は極めて多様であり、分類学上ごく近縁とされる生物の間でも大きな違いが認められる。例えば、性決定において、哺乳類ではXとY染色体をもつ個体が雄になり、鳥類ではZとW染色体をもつ個体が雌になる。ある種の爬虫類では孵化温度によって性が決定される。魚類では遺伝的な性決定がおこるが環境要因によって機能的性転換がおこる。これらの脊椎動物では、性決定後の性ホルモンの作用によって性分化が誘導されることが知られている。一方、節足動物門の昆虫ショウジョウバエでは細胞ごとに性が決定され、性分化は厳密に遺伝的に決まっており、性ホルモンの関与は未だに明らかではない。ところが同じ節足動物門に属す甲殻類では性ホルモンの存在が知られている。すなわち,造雄腺と呼ばれる甲殻類の雄にのみ存在する組織で合成されるペプチド性の造雄腺ホルモンは,雄性化を促進する活性をもつ性ホルモンである。1954年,Chamiaux-Cottonはオオハマトビムシを用いてはじめて造雄腺とそこから分泌されるホルモンの役割を解明した。その後,オカダンゴムシをはじめとする多くの甲殻類で同様の現象が確認された。まもなくこのホルモンの精製が開始されたが,多くの研究者の努力にもかかわらず,つい最近までその正体は不明であった。 そこで本研究においては、先ず、オカダンゴムシの造雄腺抽出液および造雄腺部分精製物を用いて造雄腺ホルモンの物理化学的性質を検討し、造雄腺ホルモンの精製を行いN末端アミノ酸配列を解析した。次いで、それらの配列を基にプライマーを設計し、PCRを行うことによって造雄腺ホルモン前駆体cDNAを単離し、その構造を明らかにした。さらに、cDNAとバキュロウイルスおよび大腸菌発現システムを用いて組換え前駆体ホルモンを合成し、リシルエンドペプチダーゼで消化した結果、活性をもつ分子を得ることができた。また配列を基に作製した抗体が造雄腺抽出液の活性物質を特異的に吸着することがわかった。以上のことから、得られたcDNAが造雄腺ホルモンの配列を担っていることを確定することができた。 第1章:オカダンゴムシの造雄腺ホルモンの性質、精製および配列解析 精製を試みるにあたってまず造雄腺ホルモンの性質を調べた。造雄腺のみ、および造雄腺と精巣由来の試料を用い、酸性、および中性の条件下で熱処理の活性への影響を調べたところ、酸性条件下ではいずれも活性は影響を受けなかったが中性条件下では造雄腺のみの試料にだけ活性が残った。この結果から造雄腺ホルモン自身は熱に強く、精巣内に中性条件下で造雄腺ホルモンと相互作用する物質が存在することが示唆された。また、トリプシン消化および還元処理により失活したことからジスルフィド結合を含むペプチドであると推定された。さらに、レクチンカラムに活性が吸着されたことから、N結合型の糖鎖をもった糖ペプチドであると予想された。またゲルろ過高速液体クロマトグラフィー(HPLC)によって、分子量が約12,000と推定された。すなわち造雄腺ホルモンは熱に安定なジスルフィド結合を有する分子量約12,000の糖ペプチドであると推定された。 そこで、オカダンゴムシの造雄腺だけを材料にして造雄腺ホルモンの精製を開始した。2000匹のオカダンゴムシの造雄腺の抽出物から3段階のHPLCを経て,単一ピークにまで精製することができた。得られた量は0.16gであり,そのうちの38pgを若い雌に注射すると雄への性転換活性が認められた。さらに12,000匹と12,500匹から造雄腺ホルモンを精製した結果、同程度の性転換活性を有する画分を得た。2000匹と12,500匹から精製した画分のアミノ酸配列解析の結果から、それらは同じ配列を有することがわかり、造雄腺ホルモンは2本鎖のペプチドであることが示唆された。そこで、12,000匹から精製した画分を還元カルポキシメチル化し、HPLCで分離したところ、得られた画分は先に解析した2本鎖の配列のうちの一つの配列を有することがわかった。つまり3回の精製によって得られた画分から同じ配列が得られたこと、およびそれらが同程度の比活性を示したことからこの配列が造雄腺ホルモン本体に由来することが期待された。一方、フランスのマルタンらはほぼ同時期に造雄腺ホルモン含有量を高めた間性ダンゴムシを用いて造雄腺ホルモンを精製し、その部分配列を明かにした。この配列は筆者の配列と同一であると考えられた。 第2章:オカダンゴムシの造雄腺ホルモンのcDNAクローニングと発現解析 第1章のアミノ酸配列解析の結果から得られた配列とマルタンらによって明らかにされた部分配列をもとにcDNAのクローニングを行った。塩基配列解析の結果からアミノ酸配列を演繹したところ,アミノ酸配列はまったく異なるが,インスリン前駆体と類似のドメイン構成を有することが明らかとなった。すなわち,21残基のシグナルペプチドに続いて44残基のB鎖,45残基のCペプチド,そして最後に29残基のA鎖から成っていた。このうちB鎖とCペプチド,およびCペプチドとA鎖の間にはそれぞれ連続した2残基の塩基性アミノ酸が存在していた。先にアミノ酸配列解析によって得られた2本の配列は演繹したA鎖,B鎖の配列と一致した。A鎖,B鎖にはそれぞれ4個のシステイン残基が存在した。また,A鎖にはN結合糖鎖の共通配列が1ヵ所存在した。ノーザンブロット解析によってこの遺伝子の発現を調べたところ、造雄腺にのみ発現が認められ、そのサイズは約0.8kbであった。 第3章:オカダンゴムシの造雄腺ホルモンの構造と活性 単離したcDNAが造雄腺ホルモン自身をコードしていることを証明するために,このcDNAを改変し,バキュロウィルスと大腸菌の発現系を利用して組み換え体ペプチドを合成し,性転換活性を示すかどうかを調べた。さらに、A鎖のN末端部、B鎖のN末端部、大腸菌で発現した組換えタンパク質をそれぞれ抗原として得られた特異的抗体が造雄腺ホルモン活性を吸収するかどうかを調べた。 クローン化したcDNAとバキュロウイルス発現システムを用いて糖鎖とCペプチドを有するホルモン前駆体型の組換え体ペプチドを発現させた。また、同様に大腸菌で発現させたものには糖鎖が付加されていなかった。このCペプチドを有する2つの組換えタンパク質そのものは活性を示さなかったが、糖鎖を有する組換えペプチドにリシルエンドペプチダーゼを用いてCペプチドの一部を切り取り2本鎖となった組換え体ペプチドは天然ホルモンの約十分の一の活性を示した。一方、糖鎖をもたない大腸菌発現組換え体ペプチドを同様に処理したが、活性は示さなかった。これらのことから、造雄腺ホルモン活性物質はこのcDNAにコードされており、Cペプチドの切断による二本鎖の形成が活性をあらわすのに必須であることがわかった。さらに、糖鎖と活性の関係を調べるために、活性を有する組換え体ペプチドをグリコペプチダーゼで消化しN結合型糖鎖を切断したところ、活性がほぼ消失した。この結果は造雄腺抽出液を同様に酵素消化した時活性が低下したことと一致した。これらのことから造雄腺ホルモン活性に糖鎖が必須であることが示された。また、3種類の特異抗体を作製し、これらを用いて吸収実験を行った結果、造雄腺抽出液中の活性は抗体に吸着され、活性をもたない大腸菌発現組換え体ペプチドによって吸収が阻害された。この結果もクローン化したcDNAが造雄腺ホルモンをコードしていることを強く支持した。以上の結果から、オカダンゴムシの造雄線ホルモンはN結合型糖鎖をもつ2本鎖ペプチドであり、先ずプレプロ造雄腺ホルモンからシグナルペプチドが除去され、4対のジスルフィド結合が形成された後にCペプチドがLys-Arg部位で切断されることによって二本鎖となり、活性を有する成熟ホルモンが形成されると推定された。 以上に示した一連の実験結果から、オカダンゴムシの造雄腺ホルモンは2本鎖の糖ペプチドであることがわかった。また、活性を示すにはCペプチドの除去と糖鎖付加が必要であることが新たに示された。従来の甲殻類の性分化に関する研究は移植実験や構造の観察が主であったが本研究により、活性を有する組換え造雄腺ホルモン、造雄腺ホルモンのcDNA、造雄腺ホルモンに対する抗体を用いた分子レベルの研究が可能となった。今後、造雄腺ホルモンの発現および時期の調節、造雄腺細胞内での翻訳後修飾の調節などを詳細に解析することによって甲殻類の性分化の分子機構をさらに深く理解できるようになると思われる。また、ホルモンとしてのリガンドだけでなく造雄腺ホルモン受容体を単離またはクローニングすることによって標的器官および細胞内シグナル伝達の解析を行うことも重要になるであろう。本研究によって甲殻類の性分化の鍵を握るホルモンの構造がほぼ明らかになった。この成果が甲殻類のみならず動物界全体での性分化の機構を分子レベルで解析していくための基礎になることが期待される。 |
審査要旨 | | 甲殻類の雄の性分化は同じ節足動物に属する昆虫とはまったく異なり,雄特有の器官である造雄腺から分泌される造雄腺ホルモンによって制御されていることが,1954年に発見された。以来,多くの研究者が試みたにもかかわらず,ホルモンの精製は困難であった。本論文は,甲殻類の等脚目に属するオカダンゴムシを用いて,その造雄腺ホルモンの物理化学的性質,精製,構造解析,cDNAクローニング,発現系を用いた生産,構造と活性の関係について述べたものであり,3章からなる。 序論では,さまざまな分類群の動物の性決定,性分化について概説した後,これまでに明らかにされている甲殻類における性分化の機構について述べている。甲殻類における性分化および雄の性特徴の維持において造雄腺ホルモンが中心的役割を果たしており,この機構を分子レベルで明らかにするためには造雄腺ホルモンの構造の知見を得ることが必須と考えられる。 第1章では,造雄腺ホルモンの物理化学的性質,精製および構造解析について述べている。ホルモンの生物検定は,試料を注射した若い雌が脱皮した後に雄の性特徴を示すかどうか,すなわち雄への性転換活性を指標にしたすでに確立されている方法を用いた。この方法を用いて,造雄腺抽出物について失活実験を行なった。活性は熱処理に対して維持されたが,トリプシン消化,還元カルボキシメチル化によって失活した。また,レクチンカラムであるCon A-Sepharoseに吸着した。以上のことから,造雄腺ホルモンは熱に安定なジスルフィド結合を有する糖ペプチドであると推定された。また,ゲルろ過HPLCの溶出位置から分子量が約12,000と推定された。造雄腺ホルモンの精製は,造雄腺のみを出発材料にして3段階の逆相HPLCにより行ない,最終的に2000匹の個体から回収率11%で約160ngのホルモンが得られた。この活性画分は38pgで性転換活性を示した。この活性画分および別のロットから精製した同様の画分についてアミノ酸配列解析を行なったところ,各サイクルでほぼ等量の2種類のアミノ酸が同定された。このことから,2本鎖ペプチドと推定された。また,還元カルボキシメチル化し,回収された1つのペプチドの配列は先の2本鎖のうちの1本であることがわかった。 第2章では,第1章で得られたアミノ酸配列を基にそのcDNAのクローニングを行ない,さらにその遺伝子の部位特異的発現について述べている。RT-PCRおよび5’RACE,3’RACEを行ない,ペプチドをコードしているcDNAをクローニングすることに成功した。配列解析の結果,このcDNAはペプチド前駆体をコードしており,コード領域は21残基のシグナルペプチド,44残基のB鎖,45残基のCペプチド,29残基のA鎖から成り,Cペプチドの両端には2残基の塩基性アミノ酸が存在した。分子内には4対のジスルフィド結合が含まれることが予想され,A鎖にはアスパラギン結合型糖鎖の共通配列が存在していた。このcDNAをプローブにしてノーザン解析により部位特異的発現を調べたところ,この遺伝子は造雄腺にのみ発現していることがわかった。 第3章では,第2章でクローニングしたcDNAが本当に造雄腺ホルモンをコードしているかどうかを2つの方法で調べた。まず,大腸菌およびバキュロウィルス発現系を用いて前駆体を発現したところ,いずれも活性を示さなかった。しかし,後者をリシルエンドペプチダーゼで消化したところ,Cペプチドの一部が除かれ,天然物には劣るものの活性を有するペプチドが得られた。このことからcDNAが造雄腺ホルモンをコードしていることがわかった。一方,同じ処理をした大腸菌発現系で調製したペプチドには活性がなかったことから,糖鎖が活性に重要であると推定された。バキュロウィルス発現前駆体を用いて2種類のプロテアーゼ消化によって得られた断片の配列を検討することによって4対のジスルフィド結合の架橋様式を決定した。また,還元カルボキシメチル化後,リシルエンドペプチダーゼ消化によって得られた糖鎖を含む断片の質量分析の結果から,糖鎖の構造を推定した。次に,大腸菌発現前駆体を抗原にして抗体を調製し,これを用いて天然の造雄腺ホルモンの活性が吸収されるかどうかを調べたところ,吸収されることがわかった。また,この吸収は大腸菌発現前駆体によって阻害されたことから,吸収が特異的であることが示された。これらの結果はcDNAが造雄腺ホルモンをコードしていることを強く支持した。 なお,本論文の内容は慶応大学の長谷川由利子博士との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断した。 したがって,審査委員一同は博士(理学)の学位を授与できると認めた。 |