学位論文要旨



No 115068
著者(漢字) 坂内,博子
著者(英字) Bannai,Hiroko
著者(カナ) バンナイ,ヒロコ
標題(和) 運動中の鞭毛における微小管滑り運動のCa2+による制御機構
標題(洋) Calcium regulation of microtubule sliding in reactivated flagella
報告番号 115068
報告番号 甲15068
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3832号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 真行寺,千佳子
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 野中,勝
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 上村,慎治
内容要旨 序論

 真核生物の鞭毛・繊毛の運動の大きな特徴は,周期的屈曲運動を行うことである,鞭毛・繊毛の軸糸は9本のダブレット微小管と中心の2本の中心小管とから構成され,ダブレット上にはモータータンパク質ダイニンが規則正しく配置している.ダイニンがダブレット間に滑り運動を起こすことにより,屈曲が周期的に形成されるが,その滑りの制御機構はまだよくわかっていない.

 ところで,細胞内Ca2+濃度の変化により鞭毛・繊毛の運動波形は変化する.細胞内Ca2+濃度が高くなると,鞭毛・繊毛運動の停止,運動方向の逆転,波形の非対称性の変化などがみられるようになる.このような変化は,Ca2+が微小管の滑り運動に対して何らかの影響を与える結果引き起こされるのであろうと推測される.ところが不思議なことに,プロテアーゼ処理軸糸や抽出したダイニンを用いて測定された微小管の滑り速度は,Ca2+濃度の上昇により変化しないと報告されている.このことから,Ca2+はダイニンに直接作用するのではなく,微小管の滑り運動を制御する機構に作用する可能性が高いと考えられる.従って,鞭毛・繊毛運動におけるCa2+の役割を明らかにするには,運動中の鞭毛における微小管の滑りを解析することが重要である.

 本研究では,Ca2+による微小管滑り運動の制御機構を明らかにすることを目指した.本研究は二部から構成する.第一部では,運動中のウニ精子鞭毛において,屈曲角度と周波数との積から推定される微小管滑り速度に対するCa2+の効果を検出することを試みた.ここでは,過去の研究における問題点を独自の生理的手法と化学的手法を組み合わせることによって克服した.さらに,滑り速度の変化がどのような軸糸内構成要素と関係するかについても独自の手法を用いて検討し,中心小管の重要性を明らかにした.また,Ca2+反応に影響を与えると報告されている低濃度トリプシン処理と,カルモジュリン阻害剤とを用いた実験から,滑り速度の制御機構について重要な知見を得た.第二部では,第一部の結果を基に,Ca2+による微小管の滑りの制御に関わる軸糸内タンパク質の推測を試みた.

材料と方法

 第一部の滑り速度の解析には,バフンウニ(Hemicentrotus pulcherrimus)の除膜した精子を用いた.ウニ精子は除膜後様々なMgATP濃度,Ca2+濃度下で再活性化した.精子の頭部をガラス微小ピペットで吸引固定し,そのピペットに周期的振動(11-60Hz)を与え,この時の波形を高速度ビデオで記録し解析した.各実験条件について6-7例の精子の各々約30の波形について屈曲角度を求め,これと振動の周波数との積の2倍として微小管滑り速度を算出した.

 第二部ではバフンウニとムラサキウニ(Anthocidaris crassispina)の精子を用い,SDS-ポリアクリルアミドゲル電気泳動(SDS-PAGE)により軸糸内タンパク質を解析した.

結果と考察第一部再活性化したウニ精子鞭毛における微小管滑り速度と滑りのパターンに対するCa2+の効果

 ウニ精子鞭毛では,頭部に関して両方向に形成される屈曲は大きさが異なる.大きい方の屈曲をprincipal bend,小さい方の屈曲をreverse bendと呼ぶが,Ca2+濃度が10-7-10-5Mの範囲で高くなるとこれらの差はより大きくなり,非対称性が増大する.さらに高いCa2+濃度(約10-4M)では,1つのprincipal bendのみが鞭毛の根元に形成され,鞭毛は運動を停止する(’quiescence’とよぶ),精子の頭部に強制振動を与えた時,10-6-10-5M Ca2+存在下でも,再活性化したウニ精子鞭毛はピペットの振動に同期して安定した運動を示したが,Ca2+非存在下に比べて波形はより非対称であった.この時の微小管滑り速度は,<10-9M Ca2+の時と同様に振動の周波数の増大により大きくなり,振動前の周波数以上ではMgATP濃度により規定される最大の滑り速度を示した.しかし,この最大の滑り速度は,10-6-10-5M Ca2+において<10-9Mの時より15-20%減少することがわかった.さらに,滑り速度の減少の原因は,reverse bend angleの減少であることも明らかとなった.Ca2+による滑り速度の減少は,250,54,27MいずれのMgATP濃度においても確認された.

 ウニ精子の頭部を吸引固定したピペットに与える強制振動の面を回転させると,この回転に伴って鞭毛の屈曲面が回転する.この時,9本のダブレット微小管は回転しないことが確かめられている.そこで,この屈曲面の回転を調べることにより,滑り速度の減少を引き起こす軸糸内構成要素を明らかにすることを試みた.波形の非対称性は,10-5M Ca2+存在下でもCa2+非存在下と同様に振動面の回転に伴って180度回転した.また,principal bendもreverse bendも屈曲面の回転前後で大きさが有意に変わらなかった.これらの結果は,Ca2+は特定のダブレット上のダイニンに作用するのではなく.屈曲形成と滑りのパターンを制御する「回転しうる」軸糸内構成要素に作用することを示している.従って,軸糸内で唯一「回転しうる」とされている中心小管が,このCa2+による滑り速度の減少に関与していると考えられる.クラミドモナスの鞭毛では,中心小管はradial spokeを介してリン酸化/脱リン酸化によりダイニンの活性を制御するという報告がある.ウニ精子鞭毛でも同様の機構で微小管滑り速度が制御されている可能性が推測される.興味深いことに,この屈曲面の回転は,MgATP濃度が250Mと54Mではみられたが,27Mではみられなかった.従って,高いATP濃度の時,中心小管はCa2+による滑り速度の制御に関わっている可能性がある.このことは,低いATP濃度では中心小管はCa2+による波形変化に必須ではない,という過去の報告とも一致する.ウニ精子のATP濃度は通常5-10mMといわれているので,中心小管が滑り速度の制御に重要である可能性は高いと考えられる.

 次に,Ca2+による滑り速度の減少の特性をさらに明らかにするため,滑り速度に対する低濃度トリプシン処理の効果を検討した.除膜したウニ精子を0.1g/mlトリプシンで2-3分間処理した後,微小管滑り速度を測定した.Ca2+による滑り速度の減少は,低濃度トリプシン3分処理により完全に阻害された.一方10-4MCa2+によるquiescenceの誘導は,2分以上の処理により阻害された.10-6MCa2+による滑り速度の減少にかかわるタンパク質はトリプシシ3分処理により,一方10-4MCa2+によるquiescenceの誘導に関わるタンパク質は2分処理により壊されている可能性がある.

 ウニ精子鞭毛内には,他の鞭毛・繊毛と同様Ca2+結合タンパク質のカルモジュリンが存在することが知られている.そこで,滑りの制御におけるカルモジュリンの役割を検討するために,滑り速度に対するカルモジュリンの阻害剤trifluoperazine(TFP)とW-7の効果を調べた.10-5M Ca2+による滑り速度の減少はカルモジュリン阻害剤存在下でもおこったので,10-5M Ca2+存在下における滑り速度の減少にはカルモジュリンはほとんど関与しないと考えられる.ところが,10-4M Ca2+によるquiescenceの誘導は10-50M TFP,20MW-7で阻害された.Quiescenceを示した鞭毛はTFPの作用によって非対称ではあるが安定した運動を示すようになり,この時の微小管滑り速度は10-5M Ca2+存在下に近い値を示した.これらの結果は,10-6-10-5M Ca2+により誘導される非対称性の増加と,10-4M Ca2+により誘導されるquiescenceは独立の機構により制御されている可能性を示唆している.

第二部カルシウム反応に関わる軸糸内タンパク質に対する低濃度トリプシン処理の効果

 第一部で述べたように,低濃度トリプシン処理はCa2+による滑り速度の減少やquiescenceを阻害する.このことは,低濃度トリプシン処理により壊される軸糸タンパク質がCa2+による微小管の滑りの制御に関わる可能性を示唆している.SDS-PAGEにより軸糸タンパク質を調べた結果,低濃度トリプシン2分処理により,カルモジュリンを含む12種類のポリペプチドが影響を受けていることがわかった.10-5M Ca2+による滑り速度の減少はトリプシン3分処理で完全に失われるが,12種類のポリペプチドの中では,約160kDaのポリペプチドのみがトリプシシ3分処理により完全に分解されているようだった.一方,カルモジュリンは,quiescenceの誘導を阻害するトリプシン2分処理ですでに大部分が消化されていた.従って,カルモジュリンはquiescenceの誘導に重要な役割を担っているのではないかと思われる.

 以上のように本研究では,運動中のウニ精子鞭毛においてCa2+により微小管滑り速度が減少することを初めて明らかにし,この滑り速度の制御には中心小管が関わっている可能性が高いことを示した.本研究ではさらに,滑り速度の減少とquiescenceが異なる機構により制御されているらしいこと,quiescenceの誘導にはカルモジュリンが関与することも明らかにした.今後は,Ca2+による滑り速度の減少がどのようなダイニンの活性の制御により引き起こされるのかを明らかにしなければならない.

審査要旨

 真核生物の鞭毛・繊毛は,周期的屈曲運動を行う.鞭毛・繊毛の軸糸は9本のダブレット微小管と中心小管とから構成され,ダブレット上に規則正しく配置しているモータータンパク質ダイニンがダブレット間に滑り運動を起こす.この滑り運動により屈曲が周期的に形成されるが,滑りの制御機構はまだよくわかっていない.細胞内Ca2+濃度が,屈曲波形の制御に関与することは以前から知られているが,Ca2+が微小管滑り運動に対して影響を与えることはこれまでに示されていない.過去の報告の分析から,Ca2+は微小管の滑り運動を制御する機構に作用する可能性が高いと考えられる.従って,Ca2+の役割を明らかにするには,運動中の鞭毛ないしは滑りの制御系を残した状態で滑りを解析することが待たれていた.本論文は,運動中のウニ精子鞭毛において微小管滑り速度を予想するというユニークな手法により,Ca2+による微小管滑り速度の減少とその制御における中心小管の役割を明らかにしたものである.

 本研究では,まず,再活性化したウニ精子鞭毛における微小管滑り速度に対するCa2+の効果を検討した.ウニ精子鞭毛は,頭部に関して非対称な屈曲principal bendとreverse bendを形成する,精子の頭部を微小ピペットに吸引固定してこれに強制振動を与えた時,鞭毛はピペットの振動に同期する.10-6-10-5M Ca2+存在下でも,鞭毛は同期して安定した運動を示したが,Ca2+非存在下に比べて波形はより非対称であった.この時の鞭毛内の微小管滑り速度を,振動の周波数と屈曲角度の平均値の積の2倍として推定したところ,周波数の増加に伴う滑り速度の変化は<10-9M Ca2+の時と同様であったが,最大の滑り速度は,10-6-10-5M Ca2+において<10-9Mの時より15-20%減少すること,この滑り速度の減少の原因は,reverse bend angleの減少であることが初めて明らかとなった.Ca2+による滑り速度の減少は,250,54,27MいずれのMgATP濃度においても確認された.

 本研究では,滑り速度の減少に中心小管が関わることを示す興味深い結果を得た.強制振動の面を回転させるとこの回転に伴って鞭毛の屈曲面が回転する.この時,9本のダブレット微小管は回転しない.この屈曲面の回転を調べたところ,波形の非対称性は10-5M Ca2+存在下でもCa2+非存在下と同様,振動面の回転に伴って180度回転した.また,principal bendもreverse bendも屈曲面の回転前後で大きさが有意に変わらなかった.この結果は,Ca2+は屈曲形成と滑りのパターンを制御する「回転しうる」軸糸内構成要素,すなわち中心小管に作用することを示している.興味深いことに,250Mと54M MgATPでは屈曲面の回転はみられたが,27Mではみられなかった.このことは,低いATP濃度では中心小管はCa2+による波形変化に必須ではない,という過去の報告と一致する.ウニ精子のATP濃度は通常5-10mMといわれているので,中心小管が滑り速度の制御に重要である可能性は高い.これらの結果は,Ca2+反応における中心小管の役割とATP濃度との関係を初めて明確に示唆したものである.

 本研究ではさらに,低濃度(0.1g/ml)トリプシン処理の効果を検討し,Ca2+による滑り速度の減少は,3分処理により完全に阻害されるが,10-4M Ca2+によるquiescenceの誘導は,2分以上の処理により阻害されることを見いだした,また,カルモジュリンの阻害剤(trifluoperazineとW-7)の効果を調べた結果,10-5MCa2+による滑り速度の減少にはカルモジュリンはほとんど関与しないが,10-4M Ca2+によるquiescenceの誘導はTFPとW-7で阻害されるという結果を得た.

 以上のように本研究では,Ca2+による微小管滑り速度の制御を明らかにすることを目的として研究を行い,(1)運動中のウニ精子鞭毛においてCa2+により微小管滑り速度が減少すること,(2)この滑り速度の減少には中心小管が関わっている可能性が高いことを示唆する結果を得ることに成功した.さらに,(3)滑り速度の減少とquiescenceは異なる機構により制御されているらしいこと,(4)quiescenceの誘導にはカルモジュリンが関与する,という重要な知見も得ることができた.これら4つの知見は,Ca2+による鞭毛の滑りの制御機構の全容を解明する上でいずれも極めて重要な発見である.

 なお,本論文は,吉村美幸子氏,高橋景一氏,真行寺千佳子氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54782