霊長類間の比較研究はヒトを生物学的に理解するために重要で、人類学の命題の一つである.そしてその比較研究は行動学的研究から分子生物学的研究まで多岐にわたっている。近年、分子生物学技術の進歩に伴って大量の塩基配列データが得られるようになり、ヒトを科学的に研究する上で貴重な資料の一つになってきている。これに伴い、国際誌や学会において、「遺伝子の何が我々ヒトを形作っているのか?」という問題がトピックになってきている。その意味においてヒトと他の霊長類との差異を理解するための遺伝学的データの蓄積は不可欠であると提言されるようになってきた。にもかかわらず、ヒト以外の霊長類ではその研究の基盤となる塩基配列データの蓄積が極めて乏しいのが現状である(Table 1)。さらに、現在これらのデータベースに登録されている配列は機能的重要度が低いと考えられている配列、いわゆるゲノム中のジャンク配列が多い。またタンパク質をコードするmRNA配列についてもグロビンやMHC関連など特定の遺伝子に偏っている。 Table 1 GenBankにおける霊長類塩基配列のエントリー数(1999年11月現在) 塩基配列に基づいたヒトと他の霊長類との比較研究は、チンパンジー、ゴリラなどのヒト上科を中心になされてきている。その結果、ヒトとチンパンジーとの分岐年代はおよそ500〜600万年前、そして両者のゲノム配列の相同性はおよそ98.5%であると考えられるようになった。ヒト上科以外の霊長類では新世界ザルや原猿のメガネザルでその系統学的研究結果が報告されている。一方、それら以外の霊長類である旧世界ザルに関しては、ヒト上科のアウトグループとして研究に用いられることが多く、ミトコンドリアや、グロビン擬遺伝子などの配列に基づいたヒトとの比較研究が報告されている。そして、近年では、cathepsin K,IFN gammaなどいくつかの遺伝子に関してヒト配列との比較が報告されている。しかし、複数の遺伝子配列を対象とした比較研究はほとんどなされておらず、ヒトと旧世界ザルの遺伝情報の類似性を示す研究は70,80年代のDNA:DNAハイブリダイゼーション法によるものが主に知られているだけである。そのため、実際にはヒトと旧世界ザル間における遺伝子配列の類似性や相異性はよくわかっていない。 現在、様々なシークエンスプロジェクトによって次々に遺伝情報が公開されてきているが、その中でもっとも多いものはexpressed sequence tags(ESTs)であり、現在リリースされているGenBankの配列のうちの70%を占める。ヒトでは一般に8〜16万の遺伝子が存在するといわれているが、実にその10倍ものESTsが公開されている(約140万ESTs、約8万種類)。それにもかかわらず、データベースに登録されているESTではその多くのmRNAに関して、転写や翻訳開始部位など5’末端の情報を知ることは不可能である。それはcDNAライブラリー作製法の性質上、得られる情報がmRNAの3’末端側に偏り、5’末端側が欠けてしまうためである。丸山と菅野(1993)によって開発された「オリゴキャッピング法」はmRNAの5’末端に存在するキャップ構造を任意のオリゴと置換する方法である。この手法を利用することによって、mRNA5’末端のキャップ部位から3’末端のポリA部位までの全長cDNAを高率に含んだcDNAライブラリーを作製することが可能となる。また、そのライブラリーのクローンをシークエンスすることで現在のデータベースに欠けている翻訳開始部位など5’端側の情報を得ることができる。 本研究では、旧世界ザルとヒトとのmRNAの翻訳開始部位周辺の類似性、相違性を調べるためにカニクイザルを材料とした。カニクイザルの遺伝情報を得るために、脳、心臓、腎臓、肝臓からオリゴキャッピング法を用いて17のcDNAライブラリーを作製した。(脳に関しては以下の部位ごとに分けて作製した;大脳新皮質前頭、大脳新皮質側頭、大脳新皮質頭頂、大脳皮質、小脳皮質、中脳、延髄、下垂体、脳幹) 作製したライブラリーからクローンをランダムに選んでシークエンスを行い、合計約2,000のESTsを得た。GenBankに対してホモロジー検索を行った結果はTable2の通りである。全体としては得られたESTsのうち、52%が既知のmRNA配列に、12%がESTのみに、19%が偽遺伝子やゲノムのドラフトシークエンスなどと相同性を示した。一方、残りの17%はデータベースの配列と相同性がない「unknown」配列であった。これら「unknown」配列のうちいくつかはそのORFからデータベースには未登録の新規遺伝子であることが示唆された。また、今回得られた2,000を越えるESTsのうち95%以上がヒト以外の霊長類としては初めての配列であった。 Table2 作製されたcDNAライブラリーとホモロジー検索(blastn)の結果 カニクイザルの6種類の脳領域(前頭葉皮質、側頭葉皮質、小脳、下垂体、中脳、延髄)のcDNAライブラリーから転写開始部位や翻訳開始部位を含む68種類のESTsを選び、ヒトのオーソロガスmRNAと比較を行った。比較できた領域は5’非翻訳領域(5’UTR)で平均約100bp、コード領域(CDS)で平均約350bpであった。比較の結果、これまで知られていた以上に、ヒトとカニクイザルのmRNA配列が酷似していることがわかった。その相同性は5’UTRで平均93%、CDSとアミノ酸配列で平均98%であった。G+C含量はヒトとカニクイザルでほぼ等しく、5’UTRが平均63%、CDSが平均55%であった。また、コード領域内の第三塩基についても同様に比較分析を行った結果、その相同性とG+C含量はそれぞれ95%、65%であることが分かった。すなわち5’UTRと第三塩基において、その塩基置換率、及びG+C含量は酷似していることが示された。5’UTRは、その機能として転写や翻訳やmRNAの細胞内局在に関係していると考えられているが、これまで分析がほとんどなされておらず、実際どのような機能があるのかはよくわかっていない。本研究からはここで示されたようにヒトとカニクイザルの間ではその5’UTRは考えられていた以上に保存的であった。一方でその塩基置換率、及びG+C含量は第三塩基のそれとよく似ていることも分かった。このことより、第三塩基に同義的、非同義的塩基があるように、5’UTRには塩基置換が機能に影響を及ぼすような重要な構成配列がいくらかは存在するが、比較的変異の自由度が高い領域、言い換えるとプロモーターに似た領域かもしれないと推察された。さらにこれらカニクイザルの転写開始部位や翻訳開始領域を含むESTsに関して、ヒトとマウスのオーソロガスmRNAを用いて、5’UTRとCDSそれぞれについて系統解析を行った。その結果、5’UTRはCDSに比べておよそ5倍の速さで塩基置換を起こしていることが示された。また以前の研究で、ヒト上科と旧世界ザルとの分岐後の塩基の置換速度は、ヒト上科の方が遅い(Li and Tanimura,1987)、両者に明らかな差はない(Easteal,1996)と指摘されているが、本解析ではこれらとは矛盾する旧世界ザルの方が遅いという結果も得られた。それは今回解析に用いた配列が脳で発現している遺伝子のもので、比較した領域がmRNAの翻訳開始部位周辺に限られていることに関わりがあるのかもしれない。このことはより多くの遺伝子の様々な領域について解析することにより、解決されるだろう。 本研究で示されたようにヒトとカニクイザル間でmRNA翻訳開始部位周辺の配列は高度に保存されていることがわかった.しかし、mRNAの転写開始する位置がヒトとカニクイザルとで異なる遺伝子も見つかった。それはグルコースリン酸の異性化に働く酵素、neuroleukinで、カニクイザルの7つのクローン(脳cDNAライブラリー由来)では全て同じ塩基から転写が開始されているのに対し、ヒトクローン(大腸cDNAライブラリー由来)では転写開始位置が一定でなくシフトしていた。転写開始部位の上流のゲノム構造を調べるべく、inverse-PCRを行い、塩基配列を決定した。ヒトとカニクイザルとで配列を比較したところ、その相同性は52%と極めて低いことがわかった。転写開始部位より上流の領域は遺伝子の転写制御に関わるプロモーター領域と考えられ、今回の結果はneuroleukinの発現様式がヒトとカニクイザルにおいて違いがあることを示唆しているのかもしれない。ただ、今回の相違点が種の違いに因るものではなく、組織の違いに因るものである可能性を否定できない。今後、さらにいろいろな組織を材料にして配列を蓄積することにより、ヒトと他の霊長類との相違点を明らかにできることが期待される。 |