学位論文要旨



No 115079
著者(漢字) 何,宏林
著者(英字)
著者(カナ) ヘ,ホンリン
標題(和) チベット高原南東縁部の第四紀の地殼変動に関する研究
標題(洋) Quaternary Tectonic Deformation in the Southeastern Margin of the Tibetan Plateau
報告番号 115079
報告番号 甲15079
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3843号
研究科 理学系研究科
専攻 地理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 池田,安隆
 東京大学 教授 米倉,伸之
 東京大学 助教授 佐藤,比呂志
 東京大学 助教授 須貝,俊彦
 京都大学 教授 岡田,篤正
内容要旨

 Molnar and Tapponnier(1975)によるアジアの新生代テクトニクスについての先駆的な論文以来,チベット高原の側方への押し出しモデルが注目されるようになった。しかし,チベット高原の側方への移動量や運動様式については,未だに大きな見解の相違がある。チベット高原の側方への押し出し発生以降の総移動量は,数10kmから1000km位までと推算されている。例えば,数10km(Wang,1996),400km(Yue and Liou,1999).450km(Armijo et al.,1989),500〜750km(Peltzer and Tapponnier,1988),1000km(Mo1nar and Tapponnier,1975)などの値が推算されている。一方,インドとアジアの現在の衝突量の内,どのくらいの割合がチベット高原の側方への押し出しによって解消されているのかも推定されている(20%(England and Searle,1986),30%(Armijo et al.,1989),50%(Avouac and Tapponnier,1993))。本研究の目的は,中国西南部のテクトニクス変形を精査することにより,チベット高原の側方への押し出しモデルを検証することである。

 チベット東部においては,康定断層帯(Kangding fault zone)が,東方に押し出されているチベット地殻を2つに分割している。そのうち北部の地塊は,阿拉善(Alashan)・鄂璽多斯(Ordos)・四川(Sichuan)の安定地塊によって東方への押し出しを阻まれて,その前方に龍門山(Longmenshan)・六盤山(Liupanshan)・祁連山-河西走廊(Qilianshan-Hexi Corridor)の衝突構造帯を形成している。南部の地境(チベット南東ブロック)は,弧状に伸びる康定断層帯に沿って,その押し出し方向を東方から南東方向へ変化させている。それ故,チベット南東ブロックとその周辺部は,チベット高原の東方への押し出し過程を包括的に理解するのに最適な地域であると考えられる。本研究においては,過去2年間の現地調査によって推定した康定断層沿いの変位速度と総変位量のデータから,(1)押し出しテクトニクスの開始時期と,(2)インドプレートとユーラシアプレートの衝突量のうち,どのくらいの割合がチベット南東ブロックの東方への押し出しと削剥によって解消されているかを見積もった。

 康定断層帯は5つの主要な断層(北から南へ,甘孜断層-Ganzi fault・鮮水河断層-Xianshuihe fault・安寧河断層-Anninghe fault・則木河断層-Zemuhe fault・小江断層-Xiaojiang fault)で構成されている。本研究においは,康定断層帯南部の安寧河断層・則木河断層・小江断層において現地調査を行った。その結果,下記のような各断層の横ずれ速度が推定された。

 (1)安寧河断層は逆断層成分を若干含む左ずれ断層である。更新世後期あるいは完新世における左横ずれ速度は,約3〜7mm/aと推定される。

 (2)則木河断層は正断層成分を若干含む左ずれ断層である。更新世後期以降の平均横ずれ速度は5.8〜8.5mm/aと見積もられる。

 (3)小江断層は典型的な左ずれ断層である。更新世後期以降の平均変位速度は13.0〜16.5mm/aと推定されている。そのうち,西方の分岐断層の変位速度が7.0〜 9.0mm/a,東方の分岐断層が6.0〜7.5mm/aである。

 小江断層の変位速度は,安寧河断層や則木河断層の約2倍に達する。また,康定断層帯北部の鮮水河断層の変位速度は15±2mm/a(Allen et al,1991)あるいは10〜17mm/a(Zhao,1985)と推定されており,それらの値は小江断層の値(安寧河断層や則木河断層の2倍)と調和的である。この事実は,康定断層帯中部において,全体の横ずれ運動のうち半分は安寧河断層・則木河断層以外の断層によって解消されていることを示唆する。実際,安寧河断層と則木河断層の東方数10kmには,普雄河-布托断層帯(Puxionghe-Butuofault zone)が存在し,地震記録や現地調査から第四紀以降活動していることが明らかになっている(Tang et al.,1993)。また,中世代後形成された龍門山-塩源(Longmenshan-Yanyuan)スラスト帯とその東側のforeland basinは断層によってこれらの160km左ずれしている(安寧河断層と則木河断層に沿いに90km,普雄河-布托断層帯に沿って70km)。よって,康定断層帯全長にわたって横ずれ速度分布は一様で,その速度は15±2mm/aと結論される。

 上記のすべり速度が康定断層帯の発生以来一定であったと仮定すると,この断層の総変位量160kmを生じるのに要する時間は約11Maである。これは,康定断層帯の発生時期,すなわち押し出しテクトニクスの発生時期が,インドとユーラシアの衝突開始(50Ma)よりずっと新しいことを示している。

 康定断層帯は長大な弧状の断層帯である。断層線はヒマラヤ弧東端部付近(21.37°N,87.99゜E)を中心とする小円で近似できる。この断層帯沿いの横ずれ速度はほぼ一様(15±2mm/a)なので,チベット南東ブロックはヒマラヤ弧の東端部を中心として時計回りに4.31〜5.63×10-7deg/aの角速度で回転していると推定される。

 チベット南東ブロック,揚子地塊(Yangtze Platform),および甘-青ブロック(Gan-Qing block)は,それぞれ康定断層帯と龍門山スラスト帯(Longmenshan thrust zone)によって境されている。チベット南東ブロックの甘-青ブロックに対する回転運動ベクトルと,揚子台地のチベット南東ブロックに対する回転運動ベクトルは大きさが同じで方向が逆となる。よって,揚子台地の甘-青ブロックに対する角速度はほぼ0となる。これは,龍門山スラスト帯は後期更新世以降活動していない,あるいは活動していたとしても活動度は非常に小さいことを示唆する。龍門山スラスト帯は龍門山スラストと龍泉山スラスト(Longquanshan thrust)から成る。龍門山スラスト帯を横切る河川の段丘の調査から,後期更新世以降の龍門山スラストと龍泉山スラストの垂直変位速度は,それぞれ1mm/a以下および0.1mm/a以下であると推定される。

 最後に,チベット高原における地殻物質の収支を見積もった。チベット高原を地殻物質の集積の場とみなしたとき,インド大陸がアジアに突入するのはこの巨大な容器の中への物質注入であり,地塊の東方への押し出しや河川による削剥はこの巨大な容器の中から物質放出である。約5.00〜8.99×108m3/aの物質が地塊の東方への押し出しによって放出されており,その内,約3.92〜6.04×108m3/aは,チベット南東ブロックの側方への押し出しによる。また,チベット高原の南東部とヒマラヤにおける河川(Jingshajiang,Mekong,Salween,Ganges/BrahmaputraとIndus)にょる削剥によって約11.34〜11.38×108m3/a解消されている。

 ヒマラヤ収束帯におけるインドプレートのアンダースラストの速度20±10mm/a(Avouac and Tapponnier,1993)はインド地殼からチベット高原に物質注入する速度であると仮定する。その物質注入量(7.60〜22.8×108m3/a)と,チベット地殼の東方への押し出しと削剥による物質放出量(16.34〜20.37×108m3/a)は,ほぼ同じである。これは,チベット高原が物質収支においてバランスがとれており,現在成長していないことを示する。そして,インドプレートとユーラシアプレート間の衝突よる収束速度のうち,インドプレートのアンダースラスト分を除いた残り30±10mm/aは,チベット高原の北側のユーラシア内陸部でのプレート内変形あるいはチベット内部での南北方向水平短縮など,他のプロセスによって解消されていると考えられる。

審査要旨

 Molnar & Tapponnier(1975)によって提唱されたチベット高原の"lateral extrusion model"は,プレートの収束運動に伴う中国大陸内部の変形を説明するモデルとして広く受け入れられてきた.しかしこの"lateral extrusion model"は,未だに具体的なデータに基づいて十分検証されてはいない.それは,検証の鍵となるチベット高原の主要な活断層のすべり速度に関する確実なデータが不足していることに起因する.特に,チベット高原南東縁部に分布する横ずれ断層のデータが決定的に不足している.本論文提出者は,チベット高原南東縁部の主要活断層について野外調査を行い,主要な活断層の第四紀後期におけるすべり速度と,断層発現以来の総すべり量を明らかにした.本論文は,この調査結果を記載するとともに,論文提出者が取得した新たなデータを拘束条件として"lateral extrusion model"の定量的検証を試みた.

 本論文は5章からなる.第1章では,チベット高原のテクトニクスに関する過去の研究のレビューと本研究の目的とが述べられている.第2章では,野外調査対象地域であるチベット高原南東縁部の地質構造と地史が詳述されている.本論文の主要部は,第3章および第4章である.第3章にはチベット高原南東縁部の主要活断層のすべり速度に関する調査結果が記載され,第4章ではこの結果に基づきチベット高原の内部変形の様式が議論されている.

 論文提出者は主としてチベット高原南東縁部のKangding断層帯の調査を行った.Kangding断層帯は,北から南へ,Gunzi,Xianshuihe,Anninghe,Zemuhe,およびXiaojiangの5つの断層からなる.断層変位地形の測量と14C法および熱ルミネッセンス法による地形面の年代測定を行った結果,同断層帯の中・南部3断層の第四紀後期における左ずれ速度は,Anninghe断層が3-7mm/yr,Zemuhe断層が5.8-8.5mm/yr,Xiaojiang断層が13.0-16.5mm/yrであることがわかった.同断層帯の北部のXianshuihe断層の左ずれ速度は15±2mm/yr(Allen et al.,1991)であり,断層帯南部のXiaojiang断層の速度と一致する.一方,同断層帯中部の2断層のすべり速度はこれより有意に小さい;これは,Anninghe-Zemuhe断層とその東方10kmを平行して走るPuxionghe-Butuo断層とでSlip partitioningが生じているためと推定される.以上の結果から,Kangding断層帯は全長にわたって15±2mm/yrの一様なすべり速度を有することが分かった.

 本論文では,上記の調査結果からチベット高原の内部変形の様式を考察し,以下の主要な結論を得た:

 (1)Kangding断層帯の活動開始時期は,同断層帯のすべり速度と総すべり量(160km)から,約11Maと推定される.これは,チベットのlateral extrusionがインドとユーラシアの衝突開始時期(50Ma)より有意に新しいことを示す.

 (2)Kangding断層帯が全長にわたって一様なすべり速度分布を有することがら,四川盆地西縁のLongmenshan断層(スラスト)は非活動的であると推定される.これは,lateral extrusionが四川盆地の安定地塊を越えて更に東方まで及んでいることを示す.

 (3)主要活断層のすべり速度と削剥速度データから,ヒマラヤ・チベット山塊の地殻物質の収支を見積もった.その結果,lateral extrusionと削剥作用によって単位時間に放出される地殻物質の量は,インドプレートのアンダースラスト(20±10mm/yr)によって供給される地殻物質の量と等しいかそれを上回っていることが分かった.プレート収束速度(50mm/yr)のうち,アンダースラスト分を除いた残り30±10mm/yrは,チベット内部での水平短縮,あるいはタリム盆地より北方でのプレート内変形によってまかなわれていると推定した.

 以上のように本論文は,プレートの収束運動に伴う中国大陸の内部変形メカニズムに関する従来のモデルを,論文提出者自らが取得した確実な野外調査データを拘束条件として,定量的に検証しようと試みた点で画期的である.本論文で得られた成果は,地球上で最も壮大な地質現象であるヒマラヤ・チベット山塊の形成とそれに伴う広範なプレート内変形現象に対する理解を深めることに寄与したのみならず,同地域の地震災害の軽減にも重要な貢献をするものと考えられる.

 なお,本論文の第3章は,LI Chuanyou,SON Fangmin,および池田安隆との共著であるが,論文提出者が主体となって調査及び検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.従って,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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