学位論文要旨



No 115089
著者(漢字) 岡本,和彦
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,カズヒコ
標題(和) 精神療養環境についての建築計画的研究 : ある精神病院の移転を通じて
標題(洋)
報告番号 115089
報告番号 甲15089
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4584号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 大野,秀敏
 東京大学 教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 曲渕,英邦
内容要旨

 本論文は従来の精神病院建築が患者の療養に十分寄与できなかったという認識のもとで、ある精神病院での移転新築を挟んだ継続的な調査を通じて患者の療養に必要な環境を見出し、次の世代の精神療養環境の構築に向けた指針を提案するものである。

 論文は全7章から構成されており、第1章の序論で精神医療制度と精神病院建築に関する基礎的な項目について解説した後、第2章で精神病院建築に関する既往研究に対して本調査の位置付けを示し、その目的と概要を述べた。第3章から第6章では調査に対する分析を行い、第3章は公共空間について、第4章は病室について、第5章は庭について、第6章は移転に伴う印象の変化についてそれぞれ分析した。以上の結果をもとに第7章で考察と提案を行い、将来の展望を予測した上で新しい精神療養環境に対する一つの案を示した。

 第1章では現在の精神医療が患者のコミュニケーションを重要視した生活療法・精神療法中心のものに変化しているにも関わらず、精神病院建築が依然として隔離収容型の没コミュニケーション施設であることを指摘した。この原因は、制度の不備が精神病院に治療施設・社会リハビリ施設・痴呆老人ケア施設・触法患者の一時収容施設といった様々な役割を持たせている上、少ないスタッフ数や低い診療報酬で治療せざるを得ない状況を与えられているため、マンパワーの不足を閉鎖処遇で補っているためである。しかし、現在は患者を24時間取り囲む環境や患者とのコミュニケーションこそが重要な治療手段として認識され始め、実際に医師自らが病院を設計する例もいくつかあることを紹介した。また、閉鎖病棟や保護室といった精神病院特有の建築要素について、その根拠と実態を解説した。

 第2章では精神病院に関する建築的な研究について、初期の段階から患者の行動に着目したものが存在し、精神病院と周辺施設の発展と共に広がりを見せてきたが、内容に関しては定量的な研究がほとんどであったため、コミュニケーションに着目した患者の個々の動きが見える本研究は、治療方針の変化に乗った今後の主要な流れになると位置付けた。調査概要では本調査が移転を挟んだ2年にわたって行われ、その調査手法は患者の場を乱さないように最小限の人員で時間をかけて患者に納得してもらって行ったものであることを説明した。また、調査対象であるN病院の治療方針や移転前後での患者の周辺環境の変化を比較し、治療方針や基本的な平面構造に変化がないため、移転による環境の変化は主に面積やしつらえといった建築的要素を中心としたものであることを確認した。特に、公共空間である1階と2階の両ホールは移転前後で性格付けが変更され、移転後の2階ホールは読書などの音の出ない行為を行う専用の空間に変更され、1階ホールに音楽・運動・喫煙・お茶といった主要な機能が集中的に配置された。

 第3章では公共空間での患者の行動やコミュニケーションの変化をマップ調査、追跡調査、アンケート調査から分析した。N病院の公共空間では比較的椅子に坐って過ごす患者が多いことを利用して、マップ調査で得られた平面図データをデータベースソフトに入力して時間や場所ごとの集計を容易にする手法をとった。マップ調査の結果、移転後の広くなった公共空間に患者が多く出てくるようになったことが裏付けられたものの、スタッフの印象はむしろ出てこなくなったというものが多く見受けられた。これは移転前後でホールに出て来る面積当たりの人数に変化がなく、移転後は歩き回る患者の数が減ったことが影響していると思われる。また、喫煙などの同じ目的で集まった集団でも、その集団の中でコミュニケーションが生まれる頻度は少なく、コミュニケーションが生まれた集団も短時間で崩壊する事例など、他人とコミョニケーションをとるのに大きなエネルギーを消費する様子が数多く観察された。その一方で、無言でありながら次々と集団を渡り歩く患者や、あてもなくさまよいながら多くの偶発的なコミュニケーションを得る例が見られ、コミュニケーションに対する潜在的な欲求が存在し、積極的な患者やスタッフの働きかけによって引き出されることが追跡調査から窺えた。アンケート調査からは公共空間に行く理由が移転後は多様化し、公共空間の性格付けが患者の行動原理に影響を及ぼしていることが分かった。その中には公共空間が単なるコミュニケーション空間ではなく、患者によっては他人との関係から逃れるための空間としても利用されることを示す回答も含まれていた。

 第4章では畳とベッドの病室で患者の過ごし方や療養効果がどの程度違うのかをアンケート調査と観察調査から分析した。アンケート調査ではベッドの病室が機能的で処置に向いているのに対し、畳の病室は同室者やスタッフとのコミュニケーションに有効に働くという意見が看護者と患者の双方から多く出された。特に、畳の病室については連帯感を感じるといったベッドの病室には見られない一体感を挙げた患者も多かった。これは観察調査でも裏付けられ、女性の畳の病室でコミュニケーション集団が集合・分散する様子が観察された。また、ベッドの上で畳部屋のような過ごし方をする患者も女性に多く見られた。その一方で男性は布団を収納しなくてよい、すぐ横になれるという理由でベッドを支持する声が多く、性別による好みや過ごし方の違いが垣間見えた。以上の結果から、畳の病室は療養上の、ベッドの病室は看護上の利点が大きく、互いを補う関係にあることが分かった。

 第5章では庭の持つ意味を観察調査とアンケート調査から探った。観察調査では主に運動に使われる様子が記録されたが、アンケート調査によって運動以外にもお喋りといった少人数のコミュニケーションをとるための場所や、病院内の対人関係から逃れて一人になるための場所として利用する患者が意外と多いことが明らかになった。また、庭でやりたい事は何かという項目には、花火やキャンプファイヤーといったイベント性の高い行為を挙げる患者が多く、日常生活からの逃避の場所としての可能性を見ている印象を受けた。

 第6章では移転に伴って患者の好きな場所や一人になりたい時に行く場所がどのように変化したか、また移転によって良くなった点や悪くなった点をアンケート調査から調べた。患者からは新病院の誰もいない静かな空間が必ずしも好まれず、騒がしかった旧病院のほうが「落ち着く」という回答がいくつか見られた。一人になるためには誰もいないことはさして重要ではなく、一人で行為に没入できることが大事だと答える患者が数人いたことが印象的であった。スタッフが感じる移転による患者の変化は、移転前に比べて引きこもるようになったという回答と活発になったという回答に分かれたが、病状が悪化したという回答はなかったため、移転後は行動が落ち着いたと考えるのが適当であろう。しかし広くなった病棟と引き換えに看護量の増加を訴える看護者が多く、患者の快適さと看護者の労働量のバランスを考慮する必要がある。

 第7章では今後の精神病院が周辺施設の充実に伴って治療に専念する施設に変化し、周辺施設との連繋が重要になることを踏まえた上で、これまでの分析から得られた知見を精神病院建築設計の提案に盛り込み、両者を合わせたものをこれからの精神療養環境の一つの指針として提出した。まず精神病院を取り巻く施設は長期入院に対する診療報酬の低下や特別養護老人ホームの一般化に伴う老人患者の減少と、精神障害者用グループホームの認可や小規模社会福祉法人による社会復帰訓練施設の増加による社会的入院患者の退院により、ようやく精神病の治療に専念する本来の姿になることができる。さらに、その中から急性期治療を行う部門を切り離し、急性期部門は入口の施設として短期集中治療による次の施設への患者の振り分けを行い、次の精神病院でじっくりと治療を行った後で周辺施設を経て社会復帰する流れが理想であろう。そのためにはこれらの施設間の連繋をとりまとめる支援センターが中央に存在することが効果的であり、支援センターを中心とした精神病療施設群が社会的に構築されることが望ましい。その上で、精神病院自体も従来の患者の保護だけを目的とした設計から、患者の治療に有効なコミュニケーションに着目した設計を目指すべきである。今回の調査で得られた患者のコミュニケーションについての知見は、まわりの人との関係から導かれるもの、スタッフの関係から導かれるもの、外部の人との関係から導かれるもの、他の患者との関係から導かれるものの4種類に分類し、それぞれについてプライバシーや関わりの観点から見た新しい設計方法を数項目ずつ提案した。この提案から、本当の保護室は開放空間である、あるいは患者を治療するのは患者であるといった新たな視点を得ることができた。

 最後に、調査対象のN病院がたまたま調査に適していた病院であり、本調査が一般性を持つには治療方針の異なる他の病院で更なる調査を行うことが課題であること、また治療効果の指標である平均在院日数については減少している印象はあるが、もう少し長期にわたる評価が必要であることなどを説明し、本論文の締め括りとした。

審査要旨

 この論文は、ある精神病院での移転新築を挟んだ新旧の建築的環境における比較・継続的調査を通して患者の療養に必要な環境を見出し、次の世代の精神療養環境の構築に向けた指針を提案することを目的としている。

 論文は全7章から構成される。

 第1章の序論では、精神医療制度と精神病院建築に関する基本的な項目について解説している。

 第2章では、精神病院建築の既往研究に対して本調査の位置付けを示し研究の目的と調査概要を述べている。初期から患者行動に着目した既往研究が存在し精神病院と周辺施設の発展と共にその広がりを見せて来たが、大半が定量的な研究である中で、患者個々の動きをコミュニケーションに着目して捉える本研究は治療方針の変化に則った今後の方向性に沿っていると位置付けている。調査は患者の場を乱さないように最小限人員で、患者にも納得の上で行ったもので移転を挟んだ2年にわたっていること、また調査対象のN病院は移転によっても治療方針や基本的な平面構造に変化がないため環境の変化が面積やしつらえとなど建築的要素を主としていることを確認している。

 第3章では公共空間での患者の行動やコミュニケーションの変化をマップ・追跡・アンケート調査から分析を行っている。マップ調査では平面図データをデータベースソフトに入力して時間や場所ごとの集計を行う手法をとっている。移転後は広い公共空間に患者が出る頻度が増えたが、スタッフの印象はむしろ逆になっていること、他人とのコミュニケーションにエネルギーを消耗する様子が観察されている。追跡調査ではさまざまなコミュニケーションのとり方、アンケート調査では公共空間へ出る動機づけを分析している。

 第4章では、病室での患者の状況についてアンケート・観察調査から分析を行っている。アンケート調査では畳とベッドの病室の得失、観察調査では畳とベッドの病室での男女別のコミュニケーション手段の違いを分析している。

 第5章では、庭の持つ意味を観察・アンケート調査から探っている。観察調査では主に庭が運動に使われる様子を、アンケート調査では少人数のコミュニケーションをとるため、あるいは院内の対人関係から逃れる場所としての利用実態を明らかにしている。

 第6章では、移転の前後でのさまざまな変化をアンケート調査から分折している。特に一人になるためには誰もいないことよりも、一人で行為に没入できることが大事だという回答が印象的である。

 第7章では、以上の分析から得られた知見を精神病院建築設計の提案に盛り込み、両者を合わせてこれからの精神療養環境への一指針として提示している。まず、今後の方向性として、長期入院に対する診療報酬低下、特別養護老人ホームの一般化に伴う老人患者の減少、精神障害者用グループホームの認可や小規模社会福祉法人による社会復帰訓練施設の増加に伴う社会的入院患者の退院により、近い将来精神病院が単なる患者の収容からようやく治療に専念できる本来の姿を予想している。そして、急性期治療部門を短期集中治療による次の施設への患者の振り分けという入口の施設として位置付け、次の精神病院でじっくりと治療を行った後で周辺施設を経て社会復帰する流れを理想として、施設間連繋の支援センターの存在を提案している。

 以上を前提として、精神病院自体も患者保護だけを目的とした従来の設計から、治療に有効なコミュニケーションに着目した新しい視点の設計を目指すことを主張している。今回の研究で得られた患者のコミュニケーションについての知見を、まわりの人一般、スタッフ、外部の人、そして他の患者との関係から導かれるものの4種類に分類し、例えば本来の保護室は開放空間であるとか患者を治療するのは患者であるといった設計上の新たな視点を提案している。

 以上のように、本研究は従来の精神病院建築が患者の療養に十分寄与できなかったという認識に立ち、一例ではあるが長期に亘るかつ忍耐強い調査を遂行して、精神医療の建築的療養環境に関する通常得ることが出来ない知見を示したもので、建築計画研究の分野において新しい貴重な指摘と提案を行ったものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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