蓄熱槽あるいは建築躯体を利用した蓄熱技術は、室内温熱環境の保持に必要なエネルギー需要と、そのために生産されるエネルギー供給の時間的、定量的不一致を許容する。このようなことから、蓄熱システムに関する研究は、様々な方面で行われている。特に近年、建築躯体を蓄熱体とした躯体蓄熱の研究が盛んに行われるようになった。これには、エネルギー供給からくる蓄熱システムの必要性と、蓄熱体として、既存のコンクリート床スラブを使用できることの経済性に起因するものと思われる。 また、躯体蓄熱システムを適用する建物は、アクティブな蓄熱に因らなくとも、RC造のように建築躯体の熱容量の大きさから、そのパッシブ的な蓄熱効果も期待できる。主要な効果として、壁面温度変動、室内空気温度変動の平準化効果、および熱負荷変動の平準化効果がある。しかしながら、木造のような熱容量の小さい建物においては、その効果は期待できない。 そこで、本論文では、木造など、熱容量の小さい建物での利用を念頭に置き、熱容量の小さい建物に、潜熱蓄熱材によって熱容量を付加することによる、室内温熱環境改善、および熱負荷平準化効果に関する検討を行った。また、蓄熱効果を有効利用するために、潜熱蓄熱材の熱的特性、および性能が重要となるため、潜熱蓄熱材に関する検討も行った。 現在、蓄熱体として一般的に利用されている建築躯体としては、コンクリートやレンガなどが主である。これは、構造用の躯体をそのまま使用できるという長所がある。反面、顕熱のみの利用しかできないため、熱容量を増加させるためには、コンクリートやレンガなどの量を増加させなければならず、熱容量を増やすことが困難である。当然、木造の建物は、この対象外となる。一方、上記以外の蓄熱体しては、その蓄熱材として潜熱蓄熱材と呼ばれるものが、多く利用されている。主要なものとして、無機系水和物の硫酸ナトリウム十水和物(Na2SO4・10H2O)や、塩化カルシウム六水和物(CaCl2・6H2O)、有機系のパラフィンなどがある。これらは主に、蓄熱空調システムや蓄熱式床暖房などに使用されている。しかしながら、これらの蓄熱システムに使用されている蓄熱材は、潜熱蓄熱体の長所である潜熱量を利用するという観点からは、暖房、または冷房のいずれかに限定した使用となっている。そのため融点が、概ね暖房用では30℃以上、冷房用では10℃以下のものがほとんどである。 しかしながら、融点が室温レベル(20〜30℃)の潜熱蓄熱材を使用することによって、冷房時・暖房時共に、潜熱蓄熱材の潜熱量を利用することが可能となる。そこで、本論文では、融点が室温レベルの潜熱蓄熱材を対象とした。本論文での対象は、熱容量の小さい建物に、潜熱蓄熱体を壁体として適用し、熱容量を付加した建物である。また、蓄熱用冷暖房機器によるアクティブな蓄熱は行わず、潜熱蓄熱体を壁体として使用した建物における、パッシブな蓄熱による室内温熱環境改善、および熱負荷平準化効果の検討を行った。 本論文では、以下の構成にて検討を行った。 第1章「序章」では、本研究の目的を明らかにするとともに、研究背景、および既往の研究について述べる。 第2章「潜熱蓄熱材の検討、開発」では、数値シミュレーション手法検証用の潜熱蓄熱壁体を試作するために検討を行った。現在一般的に使用されている潜熱蓄熱材の中から、潜熱容量、相変化温度などの視点から、本研究の目的に適合した潜熱蓄熱材の選定を行った。本研究の目的に適合した潜熱蓄熱材の中からさらに、潜熱容量の挙動把握が比較的容易である単一化合物のn-オクタデカンを選出し、潜熱蓄熱壁体を試作した。 第3章「潜熱蓄熱壁体の基本熱性能把握」では、数値シミュレーション手法の検討における、熱容量モデル化に必要な潜熱蓄熱壁体の、熱容量測定手法の提案、および測定を行った。既存の熱容量測定法は、装置の簡略化が困難であり、相変化を伴う場合、または塊状の試料などの測定に制限を有するものが多い。そこで、本論文では、面状ヒーターにより潜熱蓄熱壁体を加熱し、それに伴う潜熱蓄熱壁体への流入出熱量を熱流計にて測定し、熱容量の測定を行う簡易熱容量測定手法を提案した。この手法で、試作した潜熱蓄熱壁体の熱容量測定を行い、その測定手法の簡易性、妥当性を確認した。 第4章「基本性能比較フィールド実験」では、フィールドでの試作した潜熱蓄熱壁体の効果を確認するために、試作した潜熱蓄熱壁体を敷設した実験棟(PCM棟)、および石膏ボードを敷設した実験棟(PB棟)を建築し、実験を行った。 実験は、自然状態での室内温熱環境測定、および室内空気温度制御時における室内温熱環境、供給熱量の測定などを行った。この実験を、両実験棟において同時に行い、その差異を比較検討した。その結果、自然状態では、室内空気温度、および壁面温度変動の標準偏差が、PB棟に比べ、約40%〜80%程度に減少した。室内空気温度制御時には、供給熱量がPB棟に比べ、約88%〜94%程度まで減少した。 また、融点の異なる潜熱蓄熱壁体を使用した、室内上下温度分布低減効果の検討、および冷房ピークカット運転の検討を行った。上下温度分布低減効果の検討では、室内空気温度分布までは、その効果がはっきりとは現れなかった。しかし、壁面温度には、その効果が現れており、室内放射環境を考慮すると、室内温熱環境の改善効果が確誌できた。冷房ピークカット運転においては、その効果が明らかに認められ、潜熱蓄熱壁体の適用は、ピークカット時における、室内空気温度上昇抑制に効果的であるという結果を得た。なお、本章における計測結果を、第5章での数値シミュレーション手法の検討における検証用データとして使用した。 第5章「数値シミュレーション手法の検討、および実験データによる検証」では、潜熱蓄熱壁体の熱容量のモデル化を行い、この熱容量モデルを適用した、室モデルの数値計算プログラム(室シミュレーション)を作成した。潜熱量のモデル化は、第3章で測定した熱容量をもとに、潜熱量を、本来の顕熱量に加えた"みかけの比熱"を用いてモデル化した。これによって、本来、移動境界値問題として扱わなければならない解析が、熱容量が温度により変化する通常の非線形の熱伝導問題となり、計算が非常に簡略化された。この"見かけの比熱"のモデル化のパターンをいくつか提案し、その中で妥当なモデル化を決定した。また、その熱容量モデルを適用した室シミュレーションを作成し、その妥当性検証を行った。妥当性検証には、第4章のフィールド実験での実験棟をモデルとし、実験の測定結果で検証を行い、良好な結果を得た。 第6章「数値計算による温熱環境改善、および熱負荷平準化の評価」では、数値計算にて、潜熱蓄熱壁体の物性値の差異による検討を行うと共に、潜熱蓄熱壁体の有効性が高いピークカット運転の検討を行った。 潜熱蓄熱壁体単体での、熱伝導率、潜熱量、および材厚の差異による、蓄熱量に関する予備検討を行った。予備検討の結果を踏まえて、潜熱蓄熱壁体の(1)工法、(2)潜熱量、(3)熱伝導率、(4)融点、(5)材厚、(6)導入面積などの影響による、室内温熱環境改善、および熱負荷平準化の効果について、室シミュレーションによって検討した。 室内空気温度、および壁表面温度の標準偏差において、工法の差異による影響は大きく、特に、間欠冷暖房時における潜熱蓄熱壁体を使用したモデル(PCM造)は、RC造に近い、またはそれ以上の標準偏差の減少効果が得られた。その他には、融点の差異による影響が大きく、適切な融点を持った潜熱蓄熱壁体の選定が重要であることが明らかとなった。 最大暖房負荷と最大冷房負荷の差(供給熱量較差)においても、工法の差異、融点の差異による影響が大きい。本検討では、融点の差異による検討以外は、融点25℃の潜熱蓄熱壁体を使ったため、多くのパターンでRC造より熱負荷平準化効果が少ない結果となった。しかし、融点の差異による検討から、融点の適切な選定により、ほぼRC造と同等、またはそれ以上の熱負荷平準化効果が得られることが明らかとなった。 ピークカット運転の検討において、真夏日の冷房停止時にPCM造は、RC造とほぼ等しい室内空気温度上昇抑制効果が確認でき、潜熱蓄熱壁体は、ピークカット運転に有効であることが確認できた。 第7章「総括」では、本論文のまとめを示すと共に、今後の展望、および課題について述べる。 本論文では、数値シミュレーション手法の検討、および妥当性検証のために、一般的な潜熱蓄熱材の中から、n-オクタデカンを使用して、潜熱蓄熱壁体を試作し、実験を行った。数値シミュレーション手法の検討では、潜熱蓄熱材の潜熱量を"見かけの比熱"を用いてモデル化し、その妥当性を確認した。また、室シミュレーションで、潜熱蓄熱壁体による温熱環境改善、および熱負荷平準化効果の検討を行い、潜熱蓄熱壁体の物性値の差異による影響が把握できた。本論文では、潜熱蓄熱壁体をパッシブシステムとして検討したが、現在、多くの研究が行われている、躯体蓄熱システムのような、アクティブシステムに適用することも効果的であると思われる。 しかし、潜熱蓄熱材は、相変化を利用し、化学変化などを伴うこともあるため、その変化の中には未知な部分が多い。そのため研究を進めるに際して、予測困難、または精度の低下を招いている。そこで今後は、これらの現象をより明らかにすることが重要となる。 |