学位論文要旨



No 115091
著者(漢字) 若林,直子
著者(英字)
著者(カナ) ワカバヤシ,ナオコ
標題(和) 都市居住者の防災意識の構造に関する研究 : 行政の住民に対するアプローチのあり方についての考察
標題(洋)
報告番号 115091
報告番号 甲15091
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4586号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 平手,小太郎
 東京大学 教授 菅原,進一
 東京大学 教授 鎌田,元康
 東京大学 教授 坂本,雄三
 東京大学 助教授 佐久間,哲哉
内容要旨

 阪神・淡路大震災に代表されるような大規模災害時には、住民による自発的な防災活動が被害や混乱を軽減する鍵になる。このような活動は、地縁的なつながりが強い地域であれば、ある程度、自然発生的に行われると期待できる。しかし、地域コミュニティが希薄であり、かつ多様な人々が暮らす都市において、自発的な活動が行われるか否かは、住民一人ひとりの意識にかかってくる比重が高いと考えられる。

 以上の認識から、全国各地の都市では、住民の「防災意識」を向上させることを目指した事業(防災啓発事業)が盛んに行われている。静岡県、東京都、神奈川県等、いわゆる「防災先進地域」の事業が全国に波及し定着してきているが、事業の効果や方法等が客観的に問われたことはない。形骸化している事業も多く、事業推進側からですら疑問の声があがっているものもある。

 この原因の一つには、事業目的でもある住民の「防災意識」が曖昧なまま定着しているという現状がある。本研究ではこの点に着目し、既往の研究事例より「防災意識」の概念について整理した。この結果、多くの研究において「危機意識の向上等が防災対策等を促す」という前提に基づいた調査や結果の分析が行われているが、この前提が正しいか否かの検証は行われておらず、また、どうすれば危機意識等が向上するのかに関する知見がないことがわかった。

 そこで、本研究では、住民の「防災意識」とは何か、どうすれば大規模災害時の被害軽減に寄与する意識を導くことができるのか等の知見を得るため、「防災先進地域」における都市居住者を対象とした一連のアンケート調査(表1)を行い、その結果をもとに「防災意識」構造のモデル化を行った。目的は、都市居住者の「防災意識」の構造を把握することにより、防災啓発事業のあり方、つまり、行政の住民に対するアブローチのあり方を検討することである。

表1 全調査の概要

 調査結果の分析にあたり、まず、調査時期、調査対象者の居住地域や個人属性の違いによって「防災意識」がどのような影響を受けるかを個別に検討した。

 これらのうち「防災意識」が最もダイナミックな影響を受けたのは調査時期の違いであった。調査期間中に発生した阪神・淡路大震災による影響である。震災直後は、家庭内で災害時の行動について話し合う世帯が増え、食料・飲料水の備蓄等を中心に、家庭内の防災対策の実行率が高まった。また、自宅周辺を危険だと感じる人が急増した。ただし、この変化の多くは一過性のものであり、時間とともに徐々に元の状態へと戻る傾向がみられた。以上の結果は既往研究の多くと一致する。本研究ではこの変化を「イベント効果」と呼ぶことにした。

 注目すべきことに、この「イベント効果」が現れたのは「家庭や個人に関わる項目」だけであった。防災訓練への参加経験や地域の防災活動への参加意向など「地域に関わる項目」では、震災の影響すら現れなかったのである。本研究では、両者の差を生んだ主な原因として「日常生活における実行の容易さ、簡便性」に着目した。

 なお、調査対象者の居住地域の違いは、フェイス項目や居住環境評価に関する項目等には影響するが、総合的な判断や意見に関わる項目には直接的には影響しない。後者の項目で差がみられたのは、地域活動への参加状況等の個人属性である。地域活動への参加状況が高い方が、地域社会との接点が強く、防災を含む地域活動等への参加意向が高く、防災に関する知識や経験が豊富だという傾向があった。

 次に、「防災意識」の一般的な構造を把握するために、グラフィカルモデリング等、統計的因果分析の手法を用いて調査項目間の直接的な関連を抽出し、「防災意識」の因果モデル(独立グラフ)を作成した。

 各調査の項目は各々「フェイス項目」「評価,認識」「意見,行動」の3レベルに分類される。モデル作成に先立ち、「フェイス項目」側が原因系、「意見,行動」側が結果系という因果の向きを設定した。防災意識を高めるという視点において、さしあたっての目的となるのは「意見,行動」である。その実現のために操作可能な変数は「評価,認識」となる。本研究では、望ましい「意見,行動」を導くにはどのような「認識,評価」を持たせるべきかを検討することができるモデルの構築を目指した。なお「フェイス項目」は、このモデルにどう影響するかをみるために検討対象としている。

 因果モデル作成手順は、調査データを数値化し、因子分析を行い、その結果を参考に相関の高い変数群を統合して合成変数とし、偏相関係数行列を求める、というものである。偏相関係数がゼロでないならば、その変数間には「直接的な因果関係がある」と考えることができる。因果関係がある変数間を線で結んだグラフが因果モデルである。

 因果モデルは調査1〜3の各々より作成した。これらは調査時期や対象地域、対象者層は異なるが以下の構造は共通であった。

■「意見,行動」の構造

 ◇「防災への関心」「参加意向」がキーになり、防災対策や知識、経験等に結びつく。なお、「参加意向」は防災に直接関連する意向だけでなく、地域行事への参加意向、近所づきあいは必要だという意見等が含まれる。

 ◇「行政依存傾向」「災害に対する深刻感」はこれらと負の相関がある。

■「評価,認識」の構造

 ◇具体的な満足・不満足を表す項目から、地域の印象を介して、「まちへの愛着」という総合評価に至る階層構造がみられる。防災に直接関わる項目である「災害に対する居住地域の安全性の認識」等も、「居住環境の公園や街並みが不満」等の項目と同様に、この階層構造に含まれる。

■原因系から結果系に至る構造

 ◇「評価,認識」の最上位項目である「まちへの愛着」は、「防災への関心」等に直接結びつく。つまり、一見防災とは関係ないさまざまな認識が「愛着」を介して防災に対する意向等に結びついているといえる。

 ◇「災害に対する地域の安全性の認識」等は、災害に対する危機感を表す一指標であるが、必ずしも望ましい意識に結びつかない。「住み良くない」等の認識を介して「防災への関心」等に結びつくというルートはあるが、直接「被災への深刻感」「行政依存傾向」に結びつくルートもある。

 ◇「フェイス項目」では「近所づきあいの程度」が「参加意向」等に直接関連する。

 最後に、以上の検討結果を総合し、防災啓発事業において目標とすべき防災意識の範囲を整理した上で、都市居住者の「防災意識」構造モデルを作成した(図1)。図中の「◎」および「○」印は目標とすべき防災意繊を高める上で効果的む項目、「×」印は逆の効果がある項目、「△」印はどちらでもある項目を示す。

図1 都市居住者の「防災意識」構造モデル

 また、このモデルより望ましい「防災意識」を導くためのアプローチ方法に関する次の基本原則を抽出し、各原則の防災啓発事業等への適応例を考察した。

■範囲に関する基本原則

 ◇防災に特定しない日常的な文脈によるアプローチを心がける。

■方針に関する基本原則

 ◇危機感を煽るのではなく、居住地域への愛着感を高めることが有効である。

■手がかりに関する基本原則

 ◇「地域社会への参加」は有効な手がかりである。

 現在頻繁に行われている典型的な防災啓発事業には、防災バンフレットやビデオの作成・配布、防災訓練や講演会の企画・実施等があるが、いずれも防災に特定した内容である。また、そのアプローチ方法は、実際の災害事例を示し災害の恐ろしさを伝える等の「恐怖コミュニケーション」が多い。このような方向性は、上記の原則に照らし合わせると望ましいコミュニケーションのあり方とはいえない。

 原則からすると、住民の「防災意識」を高めるには、「まちへの愛着」を高め「地域社会への参加」を促進するような、まちづくり等の総合的な施策が効果的だといえる。このような施策は、現在の分類では防災啓発事業の範疇に入らないが、今後は、事業主体である行政機関において、防災の面からも効果があるものとして積極的に位置づけていくという方向性が望まれる。

 本研究では、住民の「防災意識」の構造は、肪災に直接関連する概念だけでは語れないことが示された。社会的に望ましい「防災意識」を導くためには、防災や災害に限定されたアプローチでは限界があり、より総合的かつ日常的な視点が必要だという結果である。これは、ある意味で「危機意識の向上等が防災対策等を促す」という暗黙の前提を否定する結果であり、「恐怖コミュニケーション」一辺倒の従来型のアプローチの限界を示すものである。行政機関の縦割り的な組織構造になじんだ事業展開では、住民意識の変化を促すことは難しいといえる。

 今後は、「地域社会への参加」に関する実態調査を進める等、本研究の成果を掘り下げて、より実際的な知見に発展させると同時に、今後の筆者の実務活動において本研究の成果を生かしていく必要があると認識している。

審査要旨

 「都市居住者の防災意識の構造に関する研究-行政の住民に対するアプローチのあり方についての考察-」と題する本研究は、都市居住者の「防災意識」の構造に関する検討を行ったものであり、その目的は、「防災意識」の向上を目指した公共事業(防災啓発事業)のあり方、つまり、行政の住民に対するアプローチのあり方を検討することに置かれている。

 まず、第1章では、研究の背景等が論じられ、研究目的が設定されている。大規模災害時には住民による自発的な防災活動が不可欠であり、そのためには「防災意識」の向上が必須だという認識から、全国各地の都市では、特に阪神・淡路大震災以降、防災啓発事業が盛んに行われていることを示している。ただし、多くの事業が定番化しているにも関わらず、その効果や方法等が客観的に問われたことはなく、中にには形骸化している事業も多く、本研究では、この原因として、「防災意識」という語が曖昧なまま社会に定着している現状に着目している。例えば、多くの既往研究では「危機意識の向上等が防災対策等を促す」という図式を前提としているが、この検証はなされていない。そこで、本研究では、どうすれば災害時の被害軽減に寄与する意識を導くことができるのかを検討するため、都市居住者を対象としたアンケート調査を行い、その結果をもとに「防災意識」構造のモデル化を行うこととしている。

 第2章では、1993年から99年にかけて実施された「防災意識」に関するアンケート調査の概要、回答者の属性が述べられている。主な対象地域は、全国から防災啓発事業の手本とされている「防災先進地域」にあたる東京都北区である。

 第3章では、調査結果より、調査時期、対象者の居住地域や個人属性の違いによって「防災意識」がどのような影響を受けるかを個別に検討している。最もダイナミックな影響が現れたのは調査時期の違いであった。阪神・淡路大震災による影響である。震災直後は、家庭内の防災対策実行率が高まっり、自宅周辺を危険だと感じる人が急増した。ただし、この変化は一過性であり、時間とともに徐々に元の状態へと戻る傾向が見られ、この変化が現れたのは「家庭や個人に関わる項目」だけだったとしている。さらに、防災訓練への参加経験や地域の防災活動への参加経験や意向など「地域に関わる項目」では、震災の影響すらみられないこと。居住地域の違いは、居住環境評価項目等には影響するが、総合的な判断や意見に関わる項目には直接的には影響しないこと。後者の項目で差がみられたのは、地域活動への参加状況等の個人属性であったこと。などを導き出している。

 第4章では、グラフィカルモデリング等、統計的因果分析の手法を用い、各調査項目間の直接的な関連を抽出して因果モデル(独立グラフ)を作成し、「防災意識」の全体的な構造を検討している。因果の向きは、調査項目の3分類である「フェイス項目」「評価,認識」「意見,行動」の順に設定されている。これにより、望ましい「意見,行動」を導くにはどのような「認識,評価」が必要かの検討をしている。各調査結果を用いて3種の因果モデルが作成し、これらに共通する主な結果として、

(1)「意見,行動」の構造

 1)「防災への関心」「参加意向」がキーになり、防災対策や知識、経験等に結びつく。なお、「参加意向」は防災に直接関連する項目だけでなく、地域行事への参加意向等が含まれる。

 2)「行政依存傾向」「災害に対する深刻感」はこれらと負の相関がある。

(2)「評価,認識」の構造

 1)具体的な満足・不満足を表す項目から、地域の印象を介して、「まちへの愛着」という総合評価に至る階層構造が想定できる。「災害に対する居住地域の安全性の認識」も、防災に直接関連しない項目と同様に、この構造に含まれる。

(3)原因系から結果系に至る構造

 1)「まちへの愛着」は、「防災への関心」等に直接結びつく。つまり、一見防災とは関係ないさまざまな認識が「愛着」を介して防災に対する意向等に結びついているといえる。

 2)「地域の安全性の認識」等からは「住み良くない」を介しての「防災への関心」等へのパス、および「被災への深刻感」「行政依存傾向」へのパスがある。

 3)「フェイス項目」では「近所づきあいの程度」が「参加意向」等に直接関連する。などを得ている。

 第5章では、以上の結果を総合して、都市居住者の「防災意識」構造のモデル化を行い、望ましい「防災意識」を導くためのアプローチ方法に関する次の基本原則を抽出している。

 1)防災に特定しない日常的な文脈によるアプローチを心がける。(範囲)

 2)危機感を煽るのではなく、居住地域への愛着感を高めることが有効である。(方針)

 3)「地域社会への参加」は有効な手がかりである。(手がかり)

 最後に、第6章では、研究成果のまとめと今後の課題が述べられている。

 都市居住者の「防災意識」は、過密都市の安全を考えるにあたって不可欠な要素だと言えるが、本研究は、「防災意識」の構造を対象とした初めての研究であり、「災害への危機感を煽る」という行政の従来型のアプローチの限界を示すなど、具体的な成果を挙げている。学術面に限らず実務面においても、本論文の成果の防災分野への寄与は大きいものと考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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