学位論文要旨



No 115092
著者(漢字) 山之内,誠
著者(英字)
著者(カナ) ヤマノウチ,マコト
標題(和) 中世讃岐国善通寺における伽藍造営と建築 : 地方顕密寺院としての特質
標題(洋)
報告番号 115092
報告番号 甲15092
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4587号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 教授 長澤,泰
内容要旨

 本論文における主たる目的は、讃岐国善通寺を例にとり、中世の地方顕密寺院における伽藍の様相を明らかにすると同時に、寺院をとりまく社会的背景が伽藍造営の様相をどのように規定しているのかを把握することにある。これまでの古代・中世の寺院建築史研究では、史料の豊富な畿内の大寺院については建築の形態や技法にとどまらず工匠の系統や造営組織の面に至るまで、非常に多くの研究が蓄積されてきた。しかし、それと較べて格段に史料が少ない地方寺院については、個々の建築の各棟解説のようなものを除くと、包括的に伽藍の歴史を扱った研究はあまりない。その主たる理由は、少数の現存史料のほとんどが一見建築には直接関係のない寺領の経営に関する文書であって、建築形態や造営組織までを明らかにしうる史料が極めて少ないことにあるだろう。しかしながら、中世は寺院建築が地方に広く展開した時代であり、この様相を様相を明らかにする努力をしない限り畿内の大寺院を中心とした歴史観から脱却することはできない。そこで本研究では、地方において中世的封建権力として勢力をもった地方顕密寺院の一例として讃岐国善通寺を例にとり、善通寺を支える政治的・経済的な社会構造に視点を据え、伽藍造営が如何なる条件の下に成立していたのかを考察することとした。

 本論部分は全体を2部構成とし、第1部では、善通寺における伽藍造営の体制が社会的背景を反映してどのように変遷したのかを通観する。一方、第2部では、伽藍内部の建築の様相を概観し、個々の建築と社会的背景の関係について検討を加える。以下、各章ごとの内容を摘記していく。

第1部伽藍造営の体制と社会的背景

 第1章「本寺主導の造営から自立的な造営へ」では、13世紀初頭から中期にかけての造営体制の変化について論じる。13世紀初頭の講堂及び常行堂の造営は、本寺(東寺長者親厳)が主導したものであったと思われるが、一方、13世紀中期の道範による誕生院の一堂の造営は、寺領収入と勧進によるものであり、本寺の関与はみられない。13世紀中期の善通寺では、寺領経営の面で本寺の影響を排除しようとする動きが生じていることから、ここにみられる造営体制の変化は、末寺たる善通寺が本寺から自立する動向の初期段階を反映したものと考えられる。

 第2章「善通寺における大勧進の性格について」では、13世紀中期から14世紀中期にかけて善通寺に存在した大勧進の性格を論じる。13世紀半ばに道範が大勧進だった頃には、大勧進は勧進集団の頭目を示す立場にすぎなかったが、13世紀末の真恵のときに給免田畠の知行権を伴い職として成立し、これ以後、大勧進職は伽藍修造とともに寺領経営にも深く関わる、寺院経営の中心的立場となった。この体制は、一時期の例外を除き、14世紀中期の誕生院宥範まで基本的に変わらなかった。しかし、宥範以後、善通寺が本寺随心院の影響を排除して誕生院を中心とした経営体制に切り替わる過程で、大勧進職の機能は誕生院住持職に吸収された。

 第3章「誕生院宥範と善通寺伽藍の復興」では、14世紀中期における宥範による伽藍復興を可能にした社会的背景を論じる。善通寺は、宥範という政治力に秀で、伽藍修造面に長けた人物が登場したことにより、一方では誕生院を足がかりに本寺随心院の勢力からの自立を遂げつつ、また他方では、領国内の顕密寺院に保護を加えて支配下におこうとする守護細川氏と協調して、伽藍修造を成し遂げた。このことは、荘園制システムの崩壊を受けて本末関係が弱体化し、本寺支配にかわって幕府=守護権力が公権として荘園諸職の保証機能を果たすようになった時代背景を如実に反映していると考えられ、中世の地方顕密寺院における伽藍経営の一典型と位置づけられる。

 第1部補章「14世紀後期以降の善通寺」では、14世紀後期以降の寺領経営の様相について論じる。14世紀末には、本寺随心院の末寺領経営からの撤退をうけ、誕生院に善通寺領の請所が成立した。しかし、15世紀前半のうちにその請所の諸職は守護代の一族香川氏に奪われてしまう。それ以後、善通寺は急速に在地領主としての勢力を失っていったものと思われる。これは寺社本所領を実力で支配下に置き、年貢を押領せんとする在地武士勢力と、なおも在地領主たらんとする寺社勢力の立場が互いに相容れないものであったことを反映していると思われ、中世寺社勢力としての善通寺はここに命脈を絶たれたと考えられる。この章は、直接的には建築や造営事業にふれないが、中世の終焉までを社会的背景として述べておく必要があるので、補章という扱いで論述した。

第2部伽藍内建築の諸相

 第4章「絵画史料等にみる善通寺伽藍の堂舎構成」では、『一円保差図』、『善通寺伽藍図』、『南海流浪記』の3史料の分析及び比較検討を行い、鎌倉時代における善通寺伽藍の様相を論じた。14世紀初頭の善通寺伽藍の様相を描いたと考えられる『一円保差図』と、ほぼ同時期に伽藍復興計画図として描かれたと考えられる『善通寺伽藍図』には、伽藍内にともに多くの堂舎が描かれているが、この様相は道範が『南海流浪記』を記した仁治4年(1243)の段階でも基本的に同様だったと考えられる。そして、建築形態の上では、金堂が二重で各重に裳階が付く薬師寺金堂のような形態であり、白鳳期の創建時まで遡るものであったと思われることや、法華堂が『南海流浪記』における「二重ノ寶塔」と同一のもので、上下層とも方形の塔であったこと、鎮守五所大明神本殿は間口二間の建物2棟から成り、元々四神を祀っていたと思われることなどが判明した。また、舞台、楽屋、五所大明神は少なくとも11世紀中期まで遡れると思われ、第5章で検討するように法華堂と常行堂も11世紀初頭までは遡れると考えられることから、古代的な四天王寺式の伽藍配置の中に様々な建築が建てられる現象は、11世紀以前から始まっていたと考えられる。

 第5章「善通寺伽藍の宗教的性格」では、仏事や安置仏の面から11世紀から13世紀に至るまでの善通寺伽藍の性格を論じた。善通寺は11世紀の法華堂・常行堂を中心とした天台宗的な性格が強い仏事構成から、13世紀には金堂における密教修法の比重が高まり、御影堂において弘法大師信仰に支えられて理趣三昧が行われるなど、真言密教寺院らしい性格が強くなった。そして、この金堂における密教修法の導入には、『南海流浪記』の著者道範が大きな役割を果たしたと考えられる。また、空海生誕の真言宗寺院たる善通寺において、法華堂と常行堂が計画的に配置された伽藍構成が早期から実現していた事実は、地方において宗派と仏事の対応関係が曖昧な状態にあったことを示唆していると考えられる。

 第6章「本薬師寺金堂及び曼荼羅寺多宝塔の善通寺移建説への反論」は、本薬師寺金堂と曼荼羅寺多宝塔が11世紀末に善通寺に移築されたとする、宮上茂隆氏の説に対する反論である。反論の論拠として、11世紀末には移建を実行できるだけの経済的基盤を善通寺の内外いずれにも求め得ないこと、11世紀末には主要堂塔のうち五重塔・常行堂の破損以外は深刻でなかったこと、金堂後壁のものとみられる白鳳期の塑像の仏頭が残存するため、白鳳期から金堂が善通寺にあったと考えられることなどが指摘できる。本章は主に、11-12世紀における善通寺を取り巻く社会的背景を確認することを主眼としている。

 第7章「讃岐国利生塔について」では、善通寺内に設置された讃岐国利生塔が、宥範が再興して永禄元年(1558)に焼失した木造五重塔だとする通説とは異なり、現存する石塔の方であることを論じる。その主要な論拠には、宥範が木造五重塔を再建したのは利生塔の供養を行った後と思われることや、『善通寺伽藍図』及び「善通寺住侶等訴状案」から、14世紀初頭にすでに現在地にこの石塔があったと思われることなどがあげられる。また本章では、善通寺及び宥範をとりまく社会的背景に注目し、利生塔の設置の意義を考察することにも主眼を置いている。

 最後に終章「善通寺の位置づけをめぐって」では、より広い視野から善通寺をとりまく時代背景を考察し、本寺支配の衰退と守護等の在地勢力との結びつきという、広く中世の地方顕密寺院に共通する社会的背景に規定されて善通寺の造営が存在していたことを論じる。

審査要旨

 本論文は、讃岐国善通寺を取り上げ、その伽藍が中世においてどのように経営されたか明らかにしようとしたものである。中世は地方に多くの寺院建築が誕生した時代であり遺構は広く分布しているが、拠って立つ政治的、経済的実態についてはほとんど解明されていない。本論文は、そのために善通寺を支える政治的・経済的な社会構造に視点を据え、伽藍造営が如何なる条件の下に成立していたのかを考察する。

 本論文は、第1部伽藍造営の体制と社会的背景(3章と付章)、第2部伽藍内建築の諸相(4章)、終章、という構成をとる。

 第1部では、善通寺における伽藍造営の体制が政治、経済と関連してどのように変遷したのかを通観する。

 第1章「本寺主導の造営から自立的な造営へ」では、13世紀初頭から中期にかけての造営体制の変化について論じる。13世紀初頭の講堂と常行堂の造営は本寺の東寺長者親厳が主導したが、13世紀半ばの誕生院の建築の造営は寺領収入と勧進によるものであった。13世紀中期には寺領経営において本寺の影響を排除する動きが生じていて、善通寺が本寺から自立する動向を伺うことができる。

 第2章「善通寺における大勧進の性格について」では、13世紀中期から14世紀中期にかけて善通寺に存在した大勧進の性格を論じる。初期の大勧進は勧進集団の頭を意味したが、13世紀末には給免田畠を伴う職となり、伽藍修造、寺領経営に関わって寺院経営の中心となり14世紀中期まで継続した。14世紀には宥範が誕生院による寺院経営を成立させ、本寺随心院の支配を排除した。大勧進職の機能は誕生院住持職に吸収された。

 第3章「誕生院宥範と善通寺伽藍の復興」では、14世紀中期における宥範による伽藍復興の背景を論じる。宥範は誕生院を拠点に本寺随心院から自立し、一方では守護細川氏と協調して伽藍修造を遂げた。旧来の荘園制度の崩壊を受けて寺院の本末関係が弱体化し、代りに幕府=守護が荘園経営を保証するようになったことを反映しており、中世後期の地方顕密寺院における伽藍経営の一典型と位置づけられる。

 第1部補章「14世紀後期以降の善通寺」では、14世紀後期以降の寺領経営の様相について論じる。14世紀末には誕生院に善通寺領の請所が成立したが、15世紀前半に請所諸職は守護代の一族香川氏に奪われた。以後、善通寺は急速に在地領主としての力を失っていった。これは伸張する在地武士勢力によって、善通寺が力を失ったことを意味し、中世寺院としての善通寺はここに命脈を絶たれたと考えられる。

 第2部では、伽藍内部の建築の様相を概観し、個々の建築と社会的背景の関係について検討を加える

 第4章「絵画史料等にみる善通寺伽藍の堂舎構成」では、『一円保差図』、『善通寺伽藍図』、『南海流浪記』の3史料の分析及び比較検討を行い、鎌倉時代における善通寺伽藍の様相を論じている。以上の図から11世紀以前から、古代的な四天王寺式伽藍配置のなかに、様々な建築が立てられて行った様子を探った。

 第5章「善通寺伽藍の宗教的性格」では、仏事や安置仏の面から11世紀から13世紀に至るまでの善通寺伽藍の性格を論じた。11世紀には法華堂・常行堂を中心とした大台系の仏事を勤修し、13世紀には金堂での密教修法、御影堂における理趣三昧など真言系の仏事が行なわれたことを確認した。本来真言宗寺院であった寺院において、天台宗特有の仏事が勤修されたことから、地方寺院においての仏事の重層性を指摘した。

 第6章「本薬師寺金堂及び曼荼羅寺多宝塔の善通寺移建説への反論」は、本薬師寺金堂と曼荼羅寺多宝塔が11世紀末に善通寺に移築されたとする、宮上茂隆氏の説に対する反論である。11世紀末には移建を実行できるだけの経済的基盤を善通寺の内外いずれにも求め得ないことなどから、その蓋然性に対して批判を行なった。

 第7章「讃岐国利生塔について」では、善通寺内に設置された讃岐国利生塔が、従来、宥範が再興して永禄元年(1558)に焼失した木造五重塔と考えられてきたが、現存する石塔の方であると論じた。また同時に、善通寺と宥範をとりまく社会的背景に注目し、利生塔の設置の意義も考察した。

 最後に終章「善通寺の位置づけをめぐって」では、本寺支配の衰退と守護等の在地勢力との結びつきという、広く中世の地方顕密寺院に共通する社会的背景に規定されて善通寺の造営が存在していたことを論じた。

 本論文は、存在や重要性が強調されながらも、従来必ずしも十分に検討されてこなかった地方の有力顕密寺院を取り上げ、その経営の実態を、政治、経済的な状況から解明したものである。讃岐国善通寺という一つの実例から、中世地方寺院に共通すると想定される存在形態を明らかにしたことは、次に期待されるより広範な研究に対して、重要な基礎的な見通しを与えたと言えよう。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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