本論文は、讃岐国善通寺を取り上げ、その伽藍が中世においてどのように経営されたか明らかにしようとしたものである。中世は地方に多くの寺院建築が誕生した時代であり遺構は広く分布しているが、拠って立つ政治的、経済的実態についてはほとんど解明されていない。本論文は、そのために善通寺を支える政治的・経済的な社会構造に視点を据え、伽藍造営が如何なる条件の下に成立していたのかを考察する。 本論文は、第1部伽藍造営の体制と社会的背景(3章と付章)、第2部伽藍内建築の諸相(4章)、終章、という構成をとる。 第1部では、善通寺における伽藍造営の体制が政治、経済と関連してどのように変遷したのかを通観する。 第1章「本寺主導の造営から自立的な造営へ」では、13世紀初頭から中期にかけての造営体制の変化について論じる。13世紀初頭の講堂と常行堂の造営は本寺の東寺長者親厳が主導したが、13世紀半ばの誕生院の建築の造営は寺領収入と勧進によるものであった。13世紀中期には寺領経営において本寺の影響を排除する動きが生じていて、善通寺が本寺から自立する動向を伺うことができる。 第2章「善通寺における大勧進の性格について」では、13世紀中期から14世紀中期にかけて善通寺に存在した大勧進の性格を論じる。初期の大勧進は勧進集団の頭を意味したが、13世紀末には給免田畠を伴う職となり、伽藍修造、寺領経営に関わって寺院経営の中心となり14世紀中期まで継続した。14世紀には宥範が誕生院による寺院経営を成立させ、本寺随心院の支配を排除した。大勧進職の機能は誕生院住持職に吸収された。 第3章「誕生院宥範と善通寺伽藍の復興」では、14世紀中期における宥範による伽藍復興の背景を論じる。宥範は誕生院を拠点に本寺随心院から自立し、一方では守護細川氏と協調して伽藍修造を遂げた。旧来の荘園制度の崩壊を受けて寺院の本末関係が弱体化し、代りに幕府=守護が荘園経営を保証するようになったことを反映しており、中世後期の地方顕密寺院における伽藍経営の一典型と位置づけられる。 第1部補章「14世紀後期以降の善通寺」では、14世紀後期以降の寺領経営の様相について論じる。14世紀末には誕生院に善通寺領の請所が成立したが、15世紀前半に請所諸職は守護代の一族香川氏に奪われた。以後、善通寺は急速に在地領主としての力を失っていった。これは伸張する在地武士勢力によって、善通寺が力を失ったことを意味し、中世寺院としての善通寺はここに命脈を絶たれたと考えられる。 第2部では、伽藍内部の建築の様相を概観し、個々の建築と社会的背景の関係について検討を加える 第4章「絵画史料等にみる善通寺伽藍の堂舎構成」では、『一円保差図』、『善通寺伽藍図』、『南海流浪記』の3史料の分析及び比較検討を行い、鎌倉時代における善通寺伽藍の様相を論じている。以上の図から11世紀以前から、古代的な四天王寺式伽藍配置のなかに、様々な建築が立てられて行った様子を探った。 第5章「善通寺伽藍の宗教的性格」では、仏事や安置仏の面から11世紀から13世紀に至るまでの善通寺伽藍の性格を論じた。11世紀には法華堂・常行堂を中心とした大台系の仏事を勤修し、13世紀には金堂での密教修法、御影堂における理趣三昧など真言系の仏事が行なわれたことを確認した。本来真言宗寺院であった寺院において、天台宗特有の仏事が勤修されたことから、地方寺院においての仏事の重層性を指摘した。 第6章「本薬師寺金堂及び曼荼羅寺多宝塔の善通寺移建説への反論」は、本薬師寺金堂と曼荼羅寺多宝塔が11世紀末に善通寺に移築されたとする、宮上茂隆氏の説に対する反論である。11世紀末には移建を実行できるだけの経済的基盤を善通寺の内外いずれにも求め得ないことなどから、その蓋然性に対して批判を行なった。 第7章「讃岐国利生塔について」では、善通寺内に設置された讃岐国利生塔が、従来、宥範が再興して永禄元年(1558)に焼失した木造五重塔と考えられてきたが、現存する石塔の方であると論じた。また同時に、善通寺と宥範をとりまく社会的背景に注目し、利生塔の設置の意義も考察した。 最後に終章「善通寺の位置づけをめぐって」では、本寺支配の衰退と守護等の在地勢力との結びつきという、広く中世の地方顕密寺院に共通する社会的背景に規定されて善通寺の造営が存在していたことを論じた。 本論文は、存在や重要性が強調されながらも、従来必ずしも十分に検討されてこなかった地方の有力顕密寺院を取り上げ、その経営の実態を、政治、経済的な状況から解明したものである。讃岐国善通寺という一つの実例から、中世地方寺院に共通すると想定される存在形態を明らかにしたことは、次に期待されるより広範な研究に対して、重要な基礎的な見通しを与えたと言えよう。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |