学位論文要旨



No 115093
著者(漢字) 李,江
著者(英字)
著者(カナ) リ,ジャン
標題(和) 中国内陸地域における都市と建築の近代化過程に関する研究 : 武昌、漢口、漢陽を中心に(1861-1959)
標題(洋)
報告番号 115093
報告番号 甲15093
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4588号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 教授 長澤,泰
内容要旨

 本論文は、中国内陸地域における最大の商工業都市・武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)の都市と建築の変容を、漢口開港の1861年から「大躍進」発動の1959年までの約100年間について検証したものである。論文は序章、本文(6章)及び終章で構成され、武漢の近代化過程に最も衝撃的な影饗を与えられた五つの側面、即ち外国勢力の侵入、洋務運動・新政、民間の近代化運動、30年代国民政府の国家建設、50年代共産党政府の社会主義工業化建設などから、「外発的」と「内発的」 の両面の事例を取り上げて、武漢の都市と建築の変容を検討した。

 序章では、既往研究の問題を提起し、中国の近代化過程の中での武漢の重要性を分析した。また、1861年の漢口開港以後における武漢の都市・建築の変容を理解するため、開港以前の武漢地区にある武昌、漢口、漢陽の、三つの伝統都市の都市形成、空間構造をまとめた。

 第一章は、開港初期(1861-1895)の漢口イギリス租界の形成を対象とした。

 漢口イギリス租界は1861年に「天津条約」によって設立された。租界の開発方法をフローチャートで表示すれば、(1)領事館(租界の土地を全部買収、細分化、土地分譲)→(2)租地人の出現→(3)租地人大会(選挙の実施)→(4)工部局(税金を徴収)→(5)インフラ整備となる。租界は全体的に建設計画され、道路、区画が整然としていた。漢口租界の形成は先行した上海租界と(1)が異なり、同時期の広州、九江などの租界と同様であった。租界にはバンド、教会、競馬場などの施設が揃い、区画の中に、事務所と住居、更に後ろに倉庫を重ねて配置し、専用の住宅地が形成される余裕はなかった。外国人居留民は殆ど上海から移住してきたため、生活方式から建築様式まで上海から持込まれ、また日常生活に必要な物質、情報も上海に依存していた。この時期、漢口で活躍した設計者は主に東アジアの各地を放浪する土木技術者で、その代表人物はW.キンスミル、J.スメードリなどである。このため、租界の建物は殆ど「ベランダ植民地様式」を採用していた。

 第二章では、「下関条約」を締結した後の1896年から第一次世界大戦終結の1918年まで、漢口における各租界の建設過程を検証する。

 日清戦争以後、漢口に新設立されたロシア、フランス、ドイツ、日本租界の土地政策は租界の場所に将来性がない、或いは国家の財政難などの理由で、イギリス租界と異なり、外国商民が自由に中国人地主から土地を購入することになった。しかし、この政策は租界の発達に不利益にもたらしたため、租界の土地整備事業について、各租界当局は自国の民間企業の力を借りざる終えなかった。20世紀初頭、租界の繁栄に従い、電気、上水など都市施設が整備された。この時期の租界建築は、正式の建築教育を受けた外国人建築家が漢口租界に登場したことにより、単一のベランダ植民地様式から脱出した。そして、租界建築の様式は二つの傾同が現われた。一つは本格的な様式建築、特に商用建築に華麗なネオ・バロック様式を取り入れたことと、もう一つは、各国が自国の文化を高揚させるため、各国の土着様式を導入したことである。

 第三章では、武漢の「洋務運動・新政」による建設活動、及び漢口の民族資本家の建設活動を対象とした。

 1890年から1911年まで、湖広総督張之洞、および彼の後継者は武漢で「洋務運勤・新政」を行った。近代工場地区の建設、近代交通・通信施設の整備、張公堤・後湖地区および武昌通商場の開発などによって、武漢の近代商工業都市への基礎が築れた。

 一方、1870年代に現れた漢口の民族資本家は、主に買弁出身者が多く、「洋務運動・新政」の発展と共に、20世紀初期には大勢力に成長した。彼らは、19世紀末から20世紀20年代の間、漢口経済の好景気に乗って資金を不動産業に投入し、租界の経営方式を中国人市街地に導入した。特に漢口官民による「後湖地区」の開発、漢口模範区の建設などは積極的に漢口の租界と中国人町の一体化を促進した。また「大楼」、「里弄」などを建造すること、及び電力、上水設備などを整備することによって、租界の近代的都市生活を漢口中国人町に導入した。民族資本家では生がその代表的な人物である。その後、漢口の民族資本家は1926年国民政府の成立によって次第に衰退していった。

 第四章では、第一次世界大戦終結後の1919年から日本軍が武漢に侵入した1938年まで、漢口租界の都市空間の変容を検証する。

 イギリス租界では、当初租界内に全ての用途を含んでいたが、20世紀初頭の新租界の建設と共に分散した。1910年代初頭になって、租界は既に一体化して、各租界による用途区分がなされていた。最も早く開発されたイギリス租界は、中国人町と接していたため、商業上の最高の位置を占め、金融、貿易地区として、各国の銀行、大手商社などが集中していた。フランス租界は、北京漢口鉄道の終点駅があり、交通の要衝として、また租界の娯楽町として繁盛していた。ロシア租界は主に外国人を中心とする高級住宅地、旧ドイツ租界は主に中国人上流階層の住宅区になっていた。日本租界は既成商業中心と最も遠く、日本系銀行、大手商社の殆どがイギリス租界に設置され、租界内は、幾つかの外国工場と主に里弄住宅で、日本人と中国人の住宅区になっていた。この時期、租界に建てた二、三階煉瓦造りの洋行、銀行は次々と四階以上の鉄筋コンクリート構造の「高層ビル」に建て直された。20年代まで、古典系様式、特にネオ・バロック様式が主流になっていたが、1930年代になって、アール・デコが次第に主流を占めるようになった。この時期、漢口租界で最も実力持つ設計事務所はイギリス系の景明洋行である。武漢における王立英国建築家協会会員は、1919年をから急に出現し、40年代まで計9人の建築家がいたが、その中の6人が景明洋行に所属する建築家たちであった。

 第五章では、中華民国中期(1926-1938)における国民政府の漢口都市計画・建設、及び武漢の中国人建築家・作品を対象とした。

 1926年9月、国民政府軍は漢口を占領した後、漢口に市制を導入した。漢口市政府は主に欧米、日本で大学教育を受けた若手専門家たちに握られた。工務局は1929年、1930年、1936年の三回に渡って漢口市の都市計画を行った。この時期の都市計画案は、衛生的な生活を獲得することを目的として、その関心が主に道路の改造、堤防、埠頭の築造、公営住宅、公園、トイレなど公共施設に注がれ、基本的には、市街地の改造に止まった。初代市長劉文島の時期に制定、建設され始め、四代目市長呉国禎の時期に力強く推進された。技術面で、欧米、日本で土木、都市建設などを勉強してから帰って来た呉国柄、高凌美、余伯傑のような若い留学経験者たちが政府で起用された。

 一方、1910年代から武漢の中国人建築家は主に外国人設計機構で修業し、彼らの作品は西洋様式を模倣していた。30年代から彼らは自立し、その代表的な人物は庸標及び1930年に成立した彼の設計事務所である。庸標の作品は主に同時期の上海で流行していたアール・デコ・スカイスクレイパーの影響を受けていた。しかし、30年代の武漢では建築設計の大学教育を受けている建築家は少なく、40年代後期になっても、設計事務所の経営者は建築出身者より土木出身の技術者が多かったから、この時期の中国人建築界はまだ未成熟と言える。

 第六章では、1950年代共産党政府が主導した武漢の都市建設を対象とした。

 1950年代の中央政府の都市建設目標は、社会主義重工業化を実現するため、具体的にソ連が援助する156項目の重点工業プロジェクトの建設に協力することである。国家は全国の財力を集中して、武漢を含む八つの内陸の都市を重点都市として建設することになった。こうして、武漢では国家の経済・都市発展計画に従って都市計画・建設が行われ、1953年、1954年、1956年、1959年の四回に渡って都市計画を行った。ソ連専門家の指導の元に制定された1954年の計画案の一部(ソ連式の広場、軸線、放射線道路など)が否定されたにも関わらず、主にソ連の都市計画の思想と規準、建築生産システムの導入によって、武漢には、典型的なソ連式社会主義都市の空間構造が備わっている。この時期には鮑鼎など中央大学出身の建築家が活躍していた。1949年から1952年の短期間でモダニズムの建物が見られるが、1953年からは主に「社会主義折衷様式」が主流となるが、これは1949年以前に既に存在した「中西折衷様式」の変型である。

 終章では、まず1861年から1959年まで、通時的に武漢三鎮における都市と建築の変容を綜合的にまとめ、武漢における都市と建築の近代化過程を近代的対外貿易都市の形成期(1861-1895)、近代的商工業都市の形成期(1896-1926)、近代的商工業都市の成熟期(1927-1952)、社会主義重工業都市の形成期(1953年-1959)の四つの時期に分けた。

 最後に「中国近現代都市形成史」の研究を展望した。今後は、「中国近現代都市形成史」を構築するため、内陸あるいは少数民族地域の近代化過程を都市ごとに検討する必要があり、また沿海地域、東北地域での「内発的」な事例、50年代社会主義工業化の事例を補充しなければならない。さらに、近代交通と通信技術の発達によって、都市間の交流が活発化すると、中国の近現代都市の建築界の序列が再編され、その中心は広州(東南アジア)→上海→北京→広州(香港)に転換してきた。したがって都市間の関連性の実態を明らかにすることは中国近現代都市の形成過程を解明する上で重要な研究課題だと考えている。

審査要旨

 本論文は、中国内陸地域における最大の商工業都市・武漢三鎮(武昌、漢口、漢腸)の都市と建築の近代化過程を、漢口開港の1861年から「大躍進」発動の1959年までの約100年間について、外国人と中国人の両面の建設活動から考察するものである。中国内陸の都市と建築の近代化については、日本国のみならず、中国本国でもあまり研究されていない分野であり、詳しい既往の研究例も見られない状態であった。しかしながら、近年の中国近代都市形成史の深化にしたがって、内陸都市の近代化過程について解明することは不可欠であった。

 論文の第一、二、四章は租界及び外国人の建設活動について検討している。第一章では、開港初期(1861-1895)の漢口イギリス租界の空間構造とその形成過程について解明がなされている。外国人居留民は殆ど上海から移住してきたため、都市施設と建築様式に関しては先行した上海租界と同様であった。しかし、租界の土地政策の違いにより、漢口租界の道路、区画が整然と計画的に建設されたことは上海租界と異なっている。これまでの19世紀の中国における外国人租界の解明は、上海を除き、他にまったく例を見ないものであったが、この研究によって貴重な例を示されたといえよう。第二章では、日清戦争以後、漢口新租界(ロシア、フランス、ドイツ、日本)の建設過程(特に日本租界)が先行したイギリス租界とは異なっていたこと及びその理由が明らかにされている。漢口新租界の設立初期の土地政策は、租界の場所に将来性がない、或いは国家の財政難などの理由で、居留民が自由に中国人地主から土地を購入することになった。しかし、この政策は租界の発達に不利益をもたらしたため、租界の土地整備事業について、各国租界当局は自国の民間企業の力を借りざる終えなかったのである。第四章では、20世紀租界の全体的な空間構造を解明されている。1910年代初頭になって、租界は一体化し、各租界による用途区分が進行したことは注目に値する。イギリス租界は、中国人町と接して、金融、貿易地区として最高の立地であった。フランス租界は、北京漢口鉄道の終点駅があり、租界の繁華街としてにぎわった,ロシア租界は外国人を中心とする高級住宅地、ドイツ租界は中国人上流階層の住宅区になっていた,日本租界は商業中心地から離れていたため、日本人と中国人の住宅区になっていた。また租界の建築様式は三期に分けることができる。第1期(1861-1895)の租界の建物は「ベランダ植民地様式」で、設計者は土木技術者であった。第2期(1896年-1910年代半ば)の様式が多様化され、本格的建築教育を受けた建築家が登場した。第3期(1910年代半ば-1945)の建築はネオ・バロック様式が主流になっていた。

 論文の第三、五、六章は中国人町及び中国人の建設活動について検討がなされている。第三章では、これまで評価されていなかった張之洞の「洋務運動」、及び漢口の民族資本家の建設活動を対象としている。1890年から1911年までの張之洞の「洋務運動」は近代工場地区を建設し、近代交通・通信施設を整備し、商業地区を開発するものであった。一方、1870年代に現れた漢口の民族資本家は、主に買弁出身者が多く、「洋務運動」の発展と共に、20世紀初期には大勢力に成長し、資金を不動産業に投入している。この両者によって、武漢の近代商工業都市としての基礎が築れたというのが、本論文の指摘するところである。第五章は、中華民国中期(1926-1938)における国民政府の漢口都市計画・建設を対象としている。この時期の計画では、市民が衛生的な生活を獲得することを目的としており、整備は旧市街地の改造に止まるものであった。具体的には旧市街地内の道路、公園、住宅など公共施設の整備が行われた。第六章では、1950年代に共産党政府が主導した武漢の都市建設を対象としている。1950年代の中央政府の都市建設の目標は、ソ連が支援する社会主義重工業化を実現することであった。武漢は政府に指定された八つの重点建設都市の一つとして、50年代に四回にもわたり都市計画が行われた。ソ連側の提案が中国側から否定されたにも関わらず、主にソ連の都市計画の政策と規準、建築生産システムの導入によって、武漢は、典型的なソ連式社会主義都市になったのである。また中国人建築家の建築活動を三期に区分して論述している。第1期(1910年代-1920年代)は、武漢の中国人建築家は主に外国人設計事務所で修業し、彼らの作品は西洋建築を模倣していたのである。第2期(1930年代-1952年)から、武漢の中国人建築家は自立を開始し、作品は主に上海の影響を受けた。第3期は1953年からであり、個人事務所が併合され、国営設計院になり、集団設計がすすめられた時期である。この時期は主に北京の影響を受け、「社会主義折衷様式」が主流となった。

 これまでの中国の都市及び建築の近代化過程に関する研究は次の三点については特に未開拓の分野であった。1.内陸地域の都市。2.中国人の建設活動。3.1949年共産党事件以後の変化。この課題に注目し、詳細な調査研究の成果は。単に武漢に関する個別研究ではなく、中国近現代都市形成史通史の完成について最も重要な布石として大きな意義があり、また新たな文献資料を膨大に駆使し、詳細な分析を行っている点で優れた論文と高く評価できる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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