本論文は、中国内陸地域における最大の商工業都市・武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)の都市と建築の変容を、漢口開港の1861年から「大躍進」発動の1959年までの約100年間について検証したものである。論文は序章、本文(6章)及び終章で構成され、武漢の近代化過程に最も衝撃的な影饗を与えられた五つの側面、即ち外国勢力の侵入、洋務運動・新政、民間の近代化運動、30年代国民政府の国家建設、50年代共産党政府の社会主義工業化建設などから、「外発的」と「内発的」 の両面の事例を取り上げて、武漢の都市と建築の変容を検討した。 序章では、既往研究の問題を提起し、中国の近代化過程の中での武漢の重要性を分析した。また、1861年の漢口開港以後における武漢の都市・建築の変容を理解するため、開港以前の武漢地区にある武昌、漢口、漢陽の、三つの伝統都市の都市形成、空間構造をまとめた。 第一章は、開港初期(1861-1895)の漢口イギリス租界の形成を対象とした。 漢口イギリス租界は1861年に「天津条約」によって設立された。租界の開発方法をフローチャートで表示すれば、(1)領事館(租界の土地を全部買収、細分化、土地分譲)→(2)租地人の出現→(3)租地人大会(選挙の実施)→(4)工部局(税金を徴収)→(5)インフラ整備となる。租界は全体的に建設計画され、道路、区画が整然としていた。漢口租界の形成は先行した上海租界と(1)が異なり、同時期の広州、九江などの租界と同様であった。租界にはバンド、教会、競馬場などの施設が揃い、区画の中に、事務所と住居、更に後ろに倉庫を重ねて配置し、専用の住宅地が形成される余裕はなかった。外国人居留民は殆ど上海から移住してきたため、生活方式から建築様式まで上海から持込まれ、また日常生活に必要な物質、情報も上海に依存していた。この時期、漢口で活躍した設計者は主に東アジアの各地を放浪する土木技術者で、その代表人物はW.キンスミル、J.スメードリなどである。このため、租界の建物は殆ど「ベランダ植民地様式」を採用していた。 第二章では、「下関条約」を締結した後の1896年から第一次世界大戦終結の1918年まで、漢口における各租界の建設過程を検証する。 日清戦争以後、漢口に新設立されたロシア、フランス、ドイツ、日本租界の土地政策は租界の場所に将来性がない、或いは国家の財政難などの理由で、イギリス租界と異なり、外国商民が自由に中国人地主から土地を購入することになった。しかし、この政策は租界の発達に不利益にもたらしたため、租界の土地整備事業について、各租界当局は自国の民間企業の力を借りざる終えなかった。20世紀初頭、租界の繁栄に従い、電気、上水など都市施設が整備された。この時期の租界建築は、正式の建築教育を受けた外国人建築家が漢口租界に登場したことにより、単一のベランダ植民地様式から脱出した。そして、租界建築の様式は二つの傾同が現われた。一つは本格的な様式建築、特に商用建築に華麗なネオ・バロック様式を取り入れたことと、もう一つは、各国が自国の文化を高揚させるため、各国の土着様式を導入したことである。 第三章では、武漢の「洋務運動・新政」による建設活動、及び漢口の民族資本家の建設活動を対象とした。 1890年から1911年まで、湖広総督張之洞、および彼の後継者は武漢で「洋務運勤・新政」を行った。近代工場地区の建設、近代交通・通信施設の整備、張公堤・後湖地区および武昌通商場の開発などによって、武漢の近代商工業都市への基礎が築れた。 一方、1870年代に現れた漢口の民族資本家は、主に買弁出身者が多く、「洋務運動・新政」の発展と共に、20世紀初期には大勢力に成長した。彼らは、19世紀末から20世紀20年代の間、漢口経済の好景気に乗って資金を不動産業に投入し、租界の経営方式を中国人市街地に導入した。特に漢口官民による「後湖地区」の開発、漢口模範区の建設などは積極的に漢口の租界と中国人町の一体化を促進した。また「大楼」、「里弄」などを建造すること、及び電力、上水設備などを整備することによって、租界の近代的都市生活を漢口中国人町に導入した。民族資本家では生がその代表的な人物である。その後、漢口の民族資本家は1926年国民政府の成立によって次第に衰退していった。 第四章では、第一次世界大戦終結後の1919年から日本軍が武漢に侵入した1938年まで、漢口租界の都市空間の変容を検証する。 イギリス租界では、当初租界内に全ての用途を含んでいたが、20世紀初頭の新租界の建設と共に分散した。1910年代初頭になって、租界は既に一体化して、各租界による用途区分がなされていた。最も早く開発されたイギリス租界は、中国人町と接していたため、商業上の最高の位置を占め、金融、貿易地区として、各国の銀行、大手商社などが集中していた。フランス租界は、北京漢口鉄道の終点駅があり、交通の要衝として、また租界の娯楽町として繁盛していた。ロシア租界は主に外国人を中心とする高級住宅地、旧ドイツ租界は主に中国人上流階層の住宅区になっていた。日本租界は既成商業中心と最も遠く、日本系銀行、大手商社の殆どがイギリス租界に設置され、租界内は、幾つかの外国工場と主に里弄住宅で、日本人と中国人の住宅区になっていた。この時期、租界に建てた二、三階煉瓦造りの洋行、銀行は次々と四階以上の鉄筋コンクリート構造の「高層ビル」に建て直された。20年代まで、古典系様式、特にネオ・バロック様式が主流になっていたが、1930年代になって、アール・デコが次第に主流を占めるようになった。この時期、漢口租界で最も実力持つ設計事務所はイギリス系の景明洋行である。武漢における王立英国建築家協会会員は、1919年をから急に出現し、40年代まで計9人の建築家がいたが、その中の6人が景明洋行に所属する建築家たちであった。 第五章では、中華民国中期(1926-1938)における国民政府の漢口都市計画・建設、及び武漢の中国人建築家・作品を対象とした。 1926年9月、国民政府軍は漢口を占領した後、漢口に市制を導入した。漢口市政府は主に欧米、日本で大学教育を受けた若手専門家たちに握られた。工務局は1929年、1930年、1936年の三回に渡って漢口市の都市計画を行った。この時期の都市計画案は、衛生的な生活を獲得することを目的として、その関心が主に道路の改造、堤防、埠頭の築造、公営住宅、公園、トイレなど公共施設に注がれ、基本的には、市街地の改造に止まった。初代市長劉文島の時期に制定、建設され始め、四代目市長呉国禎の時期に力強く推進された。技術面で、欧米、日本で土木、都市建設などを勉強してから帰って来た呉国柄、高凌美、余伯傑のような若い留学経験者たちが政府で起用された。 一方、1910年代から武漢の中国人建築家は主に外国人設計機構で修業し、彼らの作品は西洋様式を模倣していた。30年代から彼らは自立し、その代表的な人物は庸標及び1930年に成立した彼の設計事務所である。庸標の作品は主に同時期の上海で流行していたアール・デコ・スカイスクレイパーの影響を受けていた。しかし、30年代の武漢では建築設計の大学教育を受けている建築家は少なく、40年代後期になっても、設計事務所の経営者は建築出身者より土木出身の技術者が多かったから、この時期の中国人建築界はまだ未成熟と言える。 第六章では、1950年代共産党政府が主導した武漢の都市建設を対象とした。 1950年代の中央政府の都市建設目標は、社会主義重工業化を実現するため、具体的にソ連が援助する156項目の重点工業プロジェクトの建設に協力することである。国家は全国の財力を集中して、武漢を含む八つの内陸の都市を重点都市として建設することになった。こうして、武漢では国家の経済・都市発展計画に従って都市計画・建設が行われ、1953年、1954年、1956年、1959年の四回に渡って都市計画を行った。ソ連専門家の指導の元に制定された1954年の計画案の一部(ソ連式の広場、軸線、放射線道路など)が否定されたにも関わらず、主にソ連の都市計画の思想と規準、建築生産システムの導入によって、武漢には、典型的なソ連式社会主義都市の空間構造が備わっている。この時期には鮑鼎など中央大学出身の建築家が活躍していた。1949年から1952年の短期間でモダニズムの建物が見られるが、1953年からは主に「社会主義折衷様式」が主流となるが、これは1949年以前に既に存在した「中西折衷様式」の変型である。 終章では、まず1861年から1959年まで、通時的に武漢三鎮における都市と建築の変容を綜合的にまとめ、武漢における都市と建築の近代化過程を近代的対外貿易都市の形成期(1861-1895)、近代的商工業都市の形成期(1896-1926)、近代的商工業都市の成熟期(1927-1952)、社会主義重工業都市の形成期(1953年-1959)の四つの時期に分けた。 最後に「中国近現代都市形成史」の研究を展望した。今後は、「中国近現代都市形成史」を構築するため、内陸あるいは少数民族地域の近代化過程を都市ごとに検討する必要があり、また沿海地域、東北地域での「内発的」な事例、50年代社会主義工業化の事例を補充しなければならない。さらに、近代交通と通信技術の発達によって、都市間の交流が活発化すると、中国の近現代都市の建築界の序列が再編され、その中心は広州(東南アジア)→上海→北京→広州(香港)に転換してきた。したがって都市間の関連性の実態を明らかにすることは中国近現代都市の形成過程を解明する上で重要な研究課題だと考えている。 |