学位論文要旨



No 115095
著者(漢字) 伊藤,一秀
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,カズヒデ
標題(和) 室内空気質分布性状の数値予測に関する基礎的研究 : 建材からの化学物質放散と室内の換気効率評価モデルの開発
標題(洋)
報告番号 115095
報告番号 甲15095
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4590号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加藤,信介
 東京大学 教授 村上,周三
 東京大学 教授 鎌田,元康
 東京大学 教授 橘,秀樹
 東京大学 助教授 伊香賀,俊治
内容要旨

 近年、微量化学物質に関する室内空気質(IAQ;Indoor Air Quality)汚染が社会問題化している。これは、建材、施工材、什器等から室内に放散される微量の揮発性有機化合物(VOCs)を原因とする空気汚染であるが、暖冷房の導入、高断熱・高気密化、新建材の利用などによる居住環境改善策のトレードオフとして顕在化してきた、副作用とでもいうべき環境問題として位置づけることが出来る。

 この問題は、従来の室内空気質の問題であった開放型燃焼器具の不完全燃焼に起因するCO(一酸化炭素)中毒や環境煙草煙(ETS;Environmental Tobacco Smoke)等による浮遊粉塵問題等の高濃度短期暴露に起因する中毒事故とは大きく異なり、ppbレベルの極低濃度の化学物質量が問題となる点に特徴がある。また建築空間を取り巻く殆ど全ての建材が汚染源となりうる為、室内には不特定多数の汚染源が偏在する事になる。

 従来、室内に汚染源が存在する場合の室内空気質の制御は、空間内での汚染質の完全拡散を仮定し、吹出口から供給される換気量を増減することによりその濃度レベルを制御する方法が採られてきた。しかし一般には、上記のように汚染質が偏在し、更には循環、衝突、付着、剥離、再付着等の複雑な性状を示す流れ場が存在するために、室内には不均一な濃度場が形成される。そのため完全混合の仮定が常に安全側に働くとは限らない。より効率的な室内空気質の制御のためには、完全混合の仮定から脱却し、不均一な流れ場、不均一な濃度場の存在を積極的に利用し、居住域、呼吸域といった必要となる局所領域を効率的に制御することが重要となる。

 上記のような背景を踏まえ、本論では「室内空気質分布性状の数値予測に関する基礎的研究-建材からの化学物質放散と室内の換気効率評価モデルの開発-」をテーマとして、室内空気質の制御を汚染源制御と換気効率制御の2つの側面より捉えて研究を進める。汚染源制御の立場からは建材からの汚染質放散、特に微量化学物質の放散・拡散性状の構造を解明し、その予測手法を開発することを目的とする。換気効率制御の立場からは室内に放散された汚染質の居住域等の局所領域平均濃度形成の構造を解明し、新たな換気効率評価モデルを開発・提案すると共に、その有効性を確認することを目的とする。

 本論文は以下のように構成される。

 序章では、序論として微量化学物質による室内空気汚染の現状を概観し、汚染質発生源の制御と汚染質が室内に放散された後の汚染質除去効率である換気効率制御の重要性に関して述べる。

 第1章では、本研究の基礎となる流体の数値シミュレーション手法に関して概説する。本章及び続く第2章は「PART1基礎編」とし、本研究の基礎となる事柄が示される。本研究ではRANSモデル及びLESを用いた流体解析を行うが、RANSモデルとしては最も代表的な標準k- model、低Re型k- modelに関して示し、更にLESに関してはDynamic Procedureによりモデル係数Cを算出するDynamic Smagorinsky modelに関してまとめ、更に換気効率解析で用いる粒子追跡法(Particle Tracing)に関しても説明する。第2章以降で行う数値解析は本章で示した乱流モデルを用いて行うこととなる。

 第2章では、第1章で示した流体の数値シミュレーションを活用するに当たり、その精度の検証の為に行った高精度な室内気流模型実験に関してまとめる。本研究で行った室内気流実験の特徴として、室内模型が3層のcavityより構成されており熱的外乱を防ぐ構造となっていること、2次元的流れ場であること、平均流のみならず乱流統計量を含む高精度なデータを測定するために風速測定機器としてLDVを用いていること、等が挙げられる。更に吹出・吸込口の相対位置、吹出風速、室内居住域における障害物、壁面温度差等の境界条件を変化させて13ケースに及ぶ測定ケースを設定し、詳細に風速分布、温度分布を測定した結果を報告する。次章以降で示す汚染源制御、及び換気効率制御の解析は本章で示す精密気流模型実験を対象として行われる。

 第3章から第6章までは「PART 2汚染源制御編」として、汚染源としての建材・施工材等から放散される揮発性化学物質に関する話題を取り上げる。第3章では日欧米で行われている化学物質汚染の実態調査結果を示し、更にこの問題に対する日本での取り組み状況をまとめている。また各研究者により提案されている建材からの化学物質の放散量予測式を示し、その問題点を把握した後、多孔質建材内及び室内空気中における吸着・脱着効果を含む厳密な化学物質の輸送方程式を導出している。

 第4章では、微量化学物質の室内への放散性状を予測するために行われているchamber実験及び、微量化学物質の捕集、定性・定量法に関して説明する。建材・施工材からの化学物質放散性状は、内部拡散支配型放散と蒸散支配型放散に大別されるが、本章では後者の性状を示す建材に着目する。建材表面から気中に至る表面物質伝達率により気中への放散率が支配される蒸散支配型の建材・施工材を対象として微量化学物質放散量を定量するために、建材表面での気流を精密に制御可能なSmall Test Chamberを開発している。本章ではSmall Test Chamberの流れ場に関する基本性能を詳細に測定すると共に、蒸散支配型建材をモデル化したdecane、undecaneを用いてその放散量、物質伝達率を測定した結果を報告する。更に蒸散支配型放散の代表的建材としてpaintを選び、これらから放散される化学物質の種類、放散量の時系列変化等の基礎データを提供している。

 第5章では、化学物質放散量の数値予測に関して示す。数値解析の精度を検証するために、第4章で示したSmall Test Chamber実験を対象としてCFD解析を行い、chamber内の流れ場、放散量及び物質伝達率が十分な精度で再現されることを確認している。更に、第2章で示した精密気流模型実験で測定した流れ場を対象として、床面に内部拡散支配型建材である合成ゴムの床材を使用した場合の化学物質放散量、室内濃度分布の解析結果に関して示す。また化学物質除去法としての効果が期待されているbake-out法及びflush-out法(一時的な換気量増大により化学物質を除去する方法)の効果に関して検討した結果を示す。建材内の有効拡散係数が空気中の分子拡散のオーダに比べて大変小さい内部拡散支配型の建材を対象とした場合、bake-out法及びflush-out法の両者共に、一時的な濃度減衰は確認されるが、長期的な濃度減衰効果は期待できないことが確認されている。

 第6章では、第3章から第5章までの「PART 2 汚染源制御編」で述べられた微量化学物質の汚染源制御に関して総括する。

 第7章から第9章までは[PART 3 換気効率制御編」とし、室内に発生した汚染貿の除去効率、即ち換気効率の話題に移る。本章では、日欧米における換気規準をまとめると共に、換気効率指標開発に関する各国の研究動向をまとめる。更に本研究で新たに提案、再定義する換気効率指標であるVisitation Frequency(汚染質の再帰率)及びLocal Purging Flow Rate(局所排出換気量)に関して解説し、その空気質制御に対する有効性、既存の換気効率指標との関係についてまとめている。

 第8章では第7章で示したVF及びL-PFRの数値解析例を示す。第2章で示した流れ場においてVF及びL-PFRを系統的に解析し、吹出・吸込口位置、温度差、居住域障害物等の境界条件が異なる場合の局所領域換気性状の相違を構造的に考察する。更にLESをベースとしたParticle Tracingを行い、汚染質拡散に関して統計的な解析を行い、VF及びL-PFRの基礎的性状に関して考察を加えている。また、応用解析例として一般的なオフィス空間を選び、夏期冷房条件、冬期冷房条件及び暖房条件の3種の熱負荷条件と、天井吹出・天井吸込型方式、床吹出方式及び置換換気方式の3種の換気方式をそれぞれ組み合わせた場合の居住域換気性状をVF、L-PFRを用いて解析している。同時に吹出空気に含まれる再循環空気の割合が順次増加した場合の居住域濃度の変化も詳細に解析している。本章で示す解析結果は実務レベルの換気計画の際に有益な情報となると期待する。

 第9章では、第7章及び第8章で述べた「PART 3 換気効率制御編」に関して総括する。

 第10章では、全体のまとめを行っており、本研究の成果と今後の課題が総括されている。

審査要旨

 本論文は、「室内空気質分布性状の数値予測に関する基礎的研究-建材からの化学物質放散と室内の換気効率評価モデルの開発-」と題し、微量揮発性有機化合物(VOCs)による室内空気汚染発生の機構を明らかにしその数値予測モデルを開発するとともに、汚染の室内分布性状と換気性状に関して新たな換気効率指標を提案し、室内気流と汚染質拡散の数値シミュレーションによりその構造的な解明を行っている。

 従来、室内空気の汚染質制御すなわち空気質制御は、既知の汚染質発生量とその室内完全混合を仮定して行われることが一般的である。しかし現実には、汚染源は室内に偏在し、室内空気の流れ場も一様で無いため、汚染質濃度は室内で不均一であることが多い。また人が活動する範囲である室内居住域の汚染質濃度は室内完全混合仮定濃度と必ずしも一致しない。室内の建材や施工材などから放散されるVOCs等の汚染物質に関しては、その発生量、発生機構などに不明の点も多い。本論文はこのような点に鑑み、室内空気質制御に必要な汚染源の解明と室内居住域などの局所領域に着目した換気効率解析に関し、新たな切り口でこれを検討、整理し有用な知見を得ている。具体的には、建材内でのVOCsの拡散性状を実験的に解明し、その輸送モデルを開発し、発生量の予測モデルを作成している。また局所領域の汚染質濃度を構造的に評価する新たな換気効率指標としてVisitation Frequency(以降VF)及びLocal Purging Flow Rate(以降L-PFR)を提案し、室内気流と汚染質拡散の数値シミュレーションによる室内空気質解析においてこの2つの換気効率指標が極めて有用であることを検証している。VFは局所領域から一度流出した汚染質の再帰を評価するものである。本論文ではこれを室全体に対する再循環空気による汚染質再帰の関係と相似と捉え、局所領域と室全体の換気性状の相対的な関係を明らかにしている。L-PFRは局所領域の汚染質を希釈する実質的な換気量を評価するものであり、この指標により局所領域の汚染質濃度と完全混合仮定濃度の関係を明らかにしている。

 本論文は以下の11章により構成されている。

 序章では、序論として微量化学物質による室内空気汚染の現状を概観し、汚染質発生源の解明と汚染質が室内に放散された後の汚染質除去効率を示す換気効率評価に基づいた換気制御の重要性に関して述べている。

 第1章では、本研究の基礎となる流体の数値シミュレーション手法に関して概説している。

 第2章では、流体の数値シミュレーションの活用に際して必要となる精度検証用の室内気流模型実験に関して述べている。この室内模型実験は、3層のcavityにより測定流れ場に対する熱的外乱の影響を防ぐ構造の室内模型を用いていること、乱流統計量を含む高精度な風速データを得ていること、各種境界条件を変化させて13ケースに及ぶ測定を行っていることに特徴があり、詳細かつ高精度の実験データとなっている。

 第3章では、多孔質建材内及び室内空気中における吸着・脱着効果を含む詳細な揮発性有機化学物質(VOCs)の輸送方程式を導出している。

 第4章では、建材表面での気流を精密に制御可能なSmall Test Chamberを開発し、その流れ場に関する基本性能を詳細に測定し、蒸散支配型建材をモデル化したdecaneを用いてその放散量、物質伝達率を測定した結果を示している。

 第5章では、Small Test Chamber実験を対象として気流と汚染質拡散の数値シミュレーションを行い、Chamber内の流れ場、放散量及び物質伝達率が十分な精度で再現されることを確認している。また、第2章で示した精密気流模型実験で測定した流れ場を対象として、床面に内部拡散支配型建材である合成ゴムを使用した場合の化学物質放散量、室内濃度分布の数値シミュレーションを行いVOCsの放散とその室内拡散性状を検討するとともに、室内VOCs汚染低減法としての効果が期待されているbake-out法及びflush-out法の効果に関して検討している。

 第6章では、第3章から第5章までの「汚染源編」を総括している。

 第7章では、本論文で新たに提案した換気効率指標であるVF及びL-PFRに関して既存の換気効率指標との関係、数値シミュレーションによる算出法などを解説し、その空気質制御に対する有効性についてまとめている。

 第8章では、精密模型実験を対象として、平均拡散場解析とLarge Eddy Simulationに基づくParticle Tracing解析の両者により、室内の換気に関する諸条件が変化した場合の局所領域の換気性状の相違をVF及びL-PFRにより構造的に考察している。また、実際の換気設計の資料にも供する目的で、モデル化されたオフィス空間を対象として居住域の汚染質濃度、VF及びL-PFRの変化を詳細に解析している。二の一連の解析により、局所領域の汚染質平均濃度がVFと局所領域平均滞在時間Tpの相関図により構造的に詳細に評価される得ることを示している。

 第9章では、第7章及び第8章の「換気効率編」を総括している。

 第10章では、全体のまとめを行い、残された課題に関して論述している。

 以上を要約するに、本論文は、室内の空気質制御を汚染源の解明と換気効率解析の両面より詳細に行っている。汚染源解明の立場からは建材から放散される微量化学物質の性状を実験的に解明し、新たな化学物質輸送モデルを開発すると共に、数値解析を行う上で必要となる有効拡散係数等の物性値の基礎データを蓄積している。また換気効率の立場からは局所領域平均濃度の構造を評価するための新たな指標であるVF及びPFRを開発、導入し、その有効性を数値解析により確認している。本論文は室内空気質を合理的に制御するために必要かつ有益な知見が数多く示されており、建築環境工学に寄与するところは極めて大きい。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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