学位論文要旨



No 115099
著者(漢字) 斎藤,知生
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,トモオ
標題(和) 多項式モデルを用いた建築構造物のシステム同定に関する研究
標題(洋)
報告番号 115099
報告番号 甲15099
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4594号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神田,順
 東京大学 教授 小谷,俊介
 東京大学 教授 桑村,仁
 東京大学 助教授 高田,毅士
 東京大学 助教授 大井,謙一
 東京大学 教授 藤野,陽三
内容要旨

 本論文は、多項式モデルを用いた離散時間領域のシステム同定手法による建築構造物の振動特性の評価に関する研究を主題とする。

 近年、建物の設計法が性能規定型へと動き出している中で、建築構造物の振動特性をできるだけ精度よく推定するシステム同定手法を確立することが急務となっている。それは、建築構造物の設計・施工・維持・解体というライフサイクルの中で、設計データベース・建物動特性の検証・制御の前提条件・ヘルスモニタリングなど、様々な場面でシステム同定が必要とされているからである。

 建築構造物の振動特性には、履歴や摩擦などによる非線形特性が当然含まれるが、少ない数のパラメタで特性を規定する共通な指標としては、等価線形的なモーダルパラメタが一般的に用いられている。モーダルパラメタを用いることによって、線形の範囲では非常に少ない数のパラメタで動的応答特性が表現でき、非線形な特性についても、例えば振幅依存性という概念である程度表わすことができる。また、あらゆる構造物に共通の指標であるために、構造物間で直接の比較が可能であり、データペース化も行い易い。

 建築物のモーダルパラメタの推定には、従来、周波数領域の同定法が一般的に用いられてきた。しかし、特に複数のモードが周波数領域で近接している場合、或いは、時間的に短いデータしか得られていない場合、これまでのパワースペクトルや伝達関数などの曲線適合では、モーダルパラメタの精度良い推定が困難であることが多い。そこで、そのような場合にも比較的精度の良いパラメタ推定ができる、多項式モデルを用いた離散時間領域のシステム同定手法が最近になって注目され始めている。この手法は、主にシステム制御工学の分野で発展してきたものであり、機械・船舶・航空宇宙工学における構造物の同定、地球物理学における気候変動予測、経済学における景気変動モデルの表現と予測、医学・生物学における生体フィードバック系の解析、等々に応用されている。しかし、建築の分野で建物の振動特性評価に用いられた例はまだ非常に少ない。

 これは、多項式モデルを用いた時間領域の同定手法には、従来の周波数領域の推定にはなかった、モデル次数の決定が必ずしも一意的になされない、推定されるモデル係数と物理量との関係が直接的でない、多出力モデルの扱いが困難である、などの問題が大きな障害となっているためと思われる。

 そこで、本論文では、既往の研究で解決されていない上記のような問題について、実際に建物のモーダルパラメタを推定する場合に直接適用できる形で評価・解析の方法を提示している。論文の構成に沿って概説すると以下のようになる。

 第1章は序章であり、本研究の背景及び目的を示す。

 第2章では、周波数領域をも含めたシステム同定全般に関する既往の研究を手法ごとに整理し、特に、多項式モデルによる時間領域のシステム同定手法については、建築構造物の振動特性推定に適用する上での問題点を洗い出す。

 第3章では、システム同定で用いられる種々のモデルを様々な角度から分類し、本研究で主に扱う多項式モデルによる離散時間領域のシステム同定手法の位置付けを明確化する。また、以降の章への準備として、パラメタ推定の基本的理論である最小2乗法について、非線形の場合・逐次推定の場合を含め、統一的な定式化を行う。

 第4章では、既往の研究における問題点を検討しながら、多項式モデルを用いて実際に建築構造物のモーダルパラメタを推定する手法を提示する。まず、前章で述べた線形・非線形・逐次の最小2乗法に対応して、ARXモデル・ARMAXモデル・逐次ARXモデルのモデル係数の推定方法を定式化する。次に、これら同定手法の普及を阻む大きな要因である、推定されたモデル係数と物理量との関係については、連続時間領域(ラプラス変換表現)と離散時間領域(z-変換表現)でのシステムの伝達関数を、それらの部分分数展開表現において比較することによって、モデル係数からモーダルパラメタへの陽な形の変換式を明快に導出する。特に、刺激関数についての変換式は、適合の程度をも確認することのできる独自のものである。最後に、これもまた大きな問題であり続けているモデル次数の決定法については、上述したモデル係数と物理量との関係についての議論を基に、理想的な多自由度系の場合のARXモデルの次数についての考察を行うと共に、一般的に用いられる赤池の情報量基準の他に、実際の建築構造物を対象とした時に有効な別の指標を提案し、それらの補完的な使い方を示す。

 第5章では、全く独自の新しいモデルである、「モード解析型多入力多出力ARXモデル」(Multi-Input-Multi-Output ARX model of Modal Analysis,MIMO-ARX-MA)を構築・提案し、そのモデル係数推定のアルゴリズムを導出する。システム同定を行う際には、多点での応答記録を同時に用いた多出力のモデルで解析できれば推定精度を高めることが可能である。また、多次元入力を考慮する場合には多入力モデルを用いることが必要となる。このような観点から、多入力多出力モデルは、建築構造物の振動特性評価をより正確に行うために重要な役割を担っているといえる。ところが、多項式モデルを一般的に多出力に拡張したものはモード解析を前提とした建築構造物のシステム同定には用いることができず、それ故、既往の研究では多点での記録を同時に利用した例はない。ここでは、一般的な多入力多出力のARXモデルにある制約条件を課すことによって、モード解析の考え方に沿った、モーダルパラメタの推定に適用できる、多入力多出力系のモデルを構築する。このモデルによって、得られる情報を最大限に利用した高精度のパラメタ推定が可能となる。

 第6章では、システム同定によって得られた推定値の誤差について、確定論的及び確率論的な両面から検討を加える。まず、従来からよく使われている周波数領域のカーブフィットについて、FFTのフレームを取り出す際に生ずる境界条件による確定論的な誤差を定式化し、その誤差を除去する方法についても提示している。その上で、カーブフィット及びARXモデルを用いた時間領域の同定手法を対象として、推定したモーダルパラメタの確率論的誤差評価を行う。これら両手法は、いずれも基本的に線形或いは非線形の最小2乗法に帰着できる。観測データや、それから得られる伝達関数には、当然ながら様々な要因による誤差が存在しており、最小2乗法を適用して求まるモーダルパラメタ(或いはモデル係数)の推定値も誤差を含んでいる。よって、モーダルパラメタの評価をする際には、その推定値(期待値)のみでなく、それらの分散や相関などの確率論的諸量を同時に定量的に評価することが非常に重要である。しかしながら、現在までの建築構造物の振動特性の同定に関する研究で、推定値の確率論的評価をした例は皆無である。ここでは、観測値や推定値を確率変数として考え、固有振動数・減衰定数・刺激関数の誤差の分散及び相関を定量的に評価する枠組みを確立する。

 第7章では、前項までの研究成果を実証する意味で、実際に様々な建物で得られた応答記録を用い、主として時間領域の多項式モデルを用いたシステム同定を行い、建築構造物の振動性状を評価する。対象構造物は超高層建物・免震建物・中規模ビル・床スラブなど広い範囲にわたり、同定に用いるモデルもARモデル・ARXモデル・ARMAXモデル・逐次同定モデル・新たに提案したMIMO-ARX-MAなどと様々である。また、確率論的誤差評価についての結果も含まれている。様々な解析例を通して、本研究の成果が実建物の振動特性評価に対し、極めて有効に適用できることが示される。

 第8章では、まとめと将来への展望を示し、本研究を結ぶ。

 以上まとめると、本論文では、多項式モデルを適用した時間領域のシステム同定手法を建築構造物の振動特性評価に用いる際の問題点について詳細な検討を行い、モデル係数とモーダルパラメタとの関係については陽な形の変換式を導出し、モデル次数の決定方法については従来用いられてきた指標以外に実際の構造物の同定において有効に使える指標を提案するなどして、パラメタ推定精度に関して強い優位性を持つこの同定手法を建築構造物のモーダルパラメタ推定に適用する枠組みを確立した。また、これまで不可能であった多点の応答を同時に扱う多出力システムにおけるモーダルパラメタの推定を、新しく独自に構築した「モード解析型多入力多出力ARXモデル」によって可能とし、得られる情報を最大限に利用した高精度のパラメタ推定を実現した。更に、カーブフィットによる推定値に内在する確定論的誤差や、これまで経験的な知見として感覚的に論じられることの多かった同定パラメタの確率論的特性を理論的・定量的に評価する手法を提案した。そして、実際に様々な建築構造物で得られた応答記録を用いた同定解析によりこれら成果の有効性を示したものである。

審査要旨

 本論文は、「多項式モデルを用いた建築構造物のシステム同定に関する研究」と題し、建築構造物の振動特性の評価に、多項式モデルを用いた離散時間領域のシステム同定手法を適用し、具体的な手法の定式化に基づく提案とその評価精度を論じたものである。建築構造物の振動特性の精度の良い評価法に関しては、設計時点での設定値の検証、維持管理に際しての健全性の確認などの観点から、いくつかの試みがなされているが、その多くは周波数領域での同定法が中心で、地震応答のように記録の短い場合や、ねじれ振動を含み複数の振動モードの固有振動数が近接している場合などでは、十分な精度が得られないことが知られている。多項式モデルを用いた離散時間領域のシステム同定手法は制御工学分野ではすでに一般的に応用されているものの、建築構造分野では応用例が少なく、問題点も十分に明らかとなっていなかった。本論文では建築構造物に代表される多質点、多自由度系構造物に対してその適用を試みており、研究の背景および目的を論じた第1章以下、全8章より構成されている。

 第2章では、周波数領域での推定法と時間領域での推定法に関する既往の研究を総括し、多項式モデルによるシステム同定の特徴と問題点を考察し、あわせて同じく時間領域の推定手法として用いられるカルマンフィルタ、ウェーブレット解析などとの対応も論じている。

 第3章では、システムのモデル化に関して定式化のための検討を行ない、パラメトリックモデルとノンパラメトリックモデル、時間領域と周波数領域、連続時間と離散時間、物理モデルと非物理モデルそれぞれの対応を明確化した上で、離散時間領域におけるノンパラメトリックな非物理モデルとしての多項式モデルの一般的定義を示し、パラメータ推定のための最小2乗法について、線形・非線形・逐次推定に対し統一的定式化を行なっている。

 第4章では、多項式モデルのモデル係数の推定法を定式化した上で、モデル係数とモーダルパラメータとしての物理量との関係を検討し、システム伝達関数の部分分数展開表現を通してモデル係数からモーダルパラメータへの陽な表現の変換式を導いている。モデル次数の決定法に関しては、赤池の情報量規準に加えて、次数に関する評価関数を新しい指標としてを提案し推定法に供している。

 第5章では、多項式モデルを拡張したモード解析型多入力多出力ARXモデル(MIMO-ARX-MA)を提案し、モデル係数推定のアルゴリズムを示すと共に、システム同定への適用の利点を論じている。建築構造物の様に多入力・多出力がデータとして得られる場合の本提案手法の意義は大きいと考えられる。また解析例によりその有用性を示している。

 第6章では、推定されたモーダルパラメータの誤差について、考察したものである。まず、有限時間で切り取られた記録の境界条件による誤差の定式化と除去の方法を提示している。次に、入出力に正規分布白色雑音が混入しているとして、時間領域推定の確率論的誤差評価を定式化し、シミュレーションにより確認した上で、モーダルパラメータ間の相関についても検討し、減衰定数の分散が固有振動数に比べ極めて大きいこと、減衰定数と刺激係数との間の相関が強いことを指摘している。

 第7章では、第3章から第6章までの成果の検証のため、具体的な適用例を示して、手法の有用性を論じている。解析事例は6例で、超高層建築、免震建物、中層建築、床スラブなど広範にわたり、モデルとしてもARモデル、ARXモデル、ARMAXモデル、MIMO-ARX-MAモデルを応用、入力条件も地震、風、常時微動、衝撃加振などさまざまである。データの条件に応じて、モデルを適用し精度の高い同定結果を得ている。

 第8章では、全体の結論としてまとめ、将来の展望についても論じている。

 以上、本論文は、多項式モデルとして定式化した時間領域におけるシステム同定手法を建築構造物の振動特性評価に応用することを目的として、モデル係数とモーダルパラメータとの関係の数理的考察や、モデル係数の決定法における新しい指標の提案、パラメータ推定精度の評価など詳細な検討を行ない、理論的側面を明確にする形で手法としての枠組を構築したものである。特に、新しく提案したモード解析型多入力多出力ARXモデルは、高精度のパラメータ推定を可能にする建築構造物のシステム同定法として極めて有用性の高い手法である。これらの成果は、単なる応用展開と言うのみでなく、基礎的な定式化をもとに組みたてられていることから、今後の一層の展開が期待されると共に、内容的に精度の要求される性能設計や、建築構造物の長寿命化に対応する工学といった視点で、広く活用されることが予想され、建築構造学分野に貢献するところ大と考えられる。

 よって本論文は,博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク