学位論文要旨



No 115116
著者(漢字) 星野,一憲
著者(英字)
著者(カナ) ホシノ,カズノリ
標題(和) 網膜振動機構を持つマイクロ複眼センサの研究
標題(洋)
報告番号 115116
報告番号 甲15116
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4611号
研究科 工学系研究科
専攻 機械情報工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 井上,博允
 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 藤田,博之
 東京大学 教授 石川,正俊
内容要旨

 本論文は,多数のレンズおよび受光素子を配列することによって構成された複眼型マイクロ視覚センサの研究である.この視覚センサは,受光部に機械的な走査機構を持つ.この走査機構は生物の網膜に見られる微小振動を規範としたものである.本論文では,この機械的な走査運動が,レンズとフォトダイオードによって構成された光学・電気システムの分解能を向上させることを示す.さらに,この網膜振動機構を持った複眼型視覚センサが,マイクロスケールにおいて適した構造であることを述べる.本研究で筆者が製作した視覚センサは,特にハエの複眼の構造を規範としている.ハエの複眼を規範としたのには,次のような背景がある.

 ・小型の飛行体のように,高速で移動する小型で自律的な機械の制御には,小さく高速でかつ十分な能力を持つセンサが必要である.

 ・神経生物学における昆虫の複眼の研究により,未だ工学的には応用されていない多くのすぐれた機構,特にマイクロスケールに特化した機構が解明されつつある.なかでもハエの複眼に見られる機械的な網膜の微小振動は,工学への応用が期待される興味深い事実である.

 ・近年のMEMS(Micro-Electro-Mechanical Systems)技術の発展により,マイクロレンズ,マイクロスキャナ,マイクロセンサなどの研究も活発に行われており,人工の複眼型センサを製作するのに十分な技術的な下地は確立されている.

 本研究において製作を行ったマイクロ複眼センサは,これらの背景・要求に答えるものである.

マイクロ複暖センサの設計および製作

 図1は製作したマイクロ複眼センサの概念図および写真である.フォトダイオードアレイ上に,静電アクチュエータによって駆動されるスリットアレイが製作され,振動網膜チップを構成している.この網膜振動チップ上に,別途製作したマイクロレンズアレイが配置される.このマイクロレンズアレイは,ガラスウェハ上にフォトレジストをパターニングし,その後,熱で溶かすことによって球の形状を構成したものである.レンズの直径は120m,焦点距離は200mである.個々のレンズはガラスウェハ上に成膜されたCrの遮蔽膜によって区分けされている.図2に示すように,レンズとフォトダイオードが固定された状態でスリットアレイを駆動することにより,フォトダイオードの受光部の位置が変化し,その結果,レンズとダイオードより構成される個眼の視軸に走査運動を行わせることができる.

図1 マイクロ複眼センサの構成

 ダイオードアレイは,N型シリコンウェハ上にボロンイオンを熱拡散することによって製作する.受光部の寸法は,幅30m,長さ300mである.その後,窒化シリコン膜によってダイオードアレイを保護し,酸化シリコンとポリシリコン膜をスパッタにより成膜する.その後ポリシリコンをRIE(Reactive Ion Etching)によりパターニングし,スリットアレイの構造を形成する.フォトダイオードの出力を得るためのアルミニウム電極を成膜・パターニングした後,HFによって犠牲層の酸化シリコンをエッチングし,構造を基板から切り離す.図3はスリットアレイのデザインである.幅12m,長さ300mのスリットからなるスリットアレイが,くし歯の間に生じる静電気力によって駆動される.このスリットアレイは,片持ち梁によって支えられた構造であるために,両持ち粱を用いた静電アクチュエータに比べて低電圧で駆動することができるが,スリットの運動は平行運動ではない.アクチュエータの運動を評価するために,有限要素法による解析を行った.計算の結果,アクチュエータは図3の点0を回転中心とする回転運動として近似できることがわかった.

図表図2 網膜振動機構 / 図3 スリットアレイのデザイン
複眼センサにおける網膜振動の理論と検証

 この複眼センサの解像能力について考察するため,まず一対のレンズとフォトダイオードによって構成される個眼の分解能に注目する.図4に示すように,個眼の感度の指向性がガウス曲線に従うと仮定し,50%の感度を与える角度幅をとする.このとき,個眼によって見分けることのできる最大の空間周波数はほぼに一致する.このとき,最適な個眼の配列について考えると,個眼に分解できる最大の空間周波数がであるから,サンプリング理論により,/2の間隔で個眼を配列すれば,複眼センサは個眼の分解能限界までの像を解像できることになる(図4右).

 この個眼に対して,網膜振動の機構を導入して,レンズを固定した状態で受光素子を動かせば,視軸の間隔が/2以上であっても時系列で明るさの変化を捉えることによって,個眼の分解能限界までの画像をサンプリングすることができる.図5のように,振幅角の網膜振動によって,個眼の配列の不足分を時系列で補償することを考える.視軸の位置を/2以上の分解能で知ることができれば,個眼の分解能限界の画像をサンプリングできることになる.網膜振動の周波数をfscan,システムの時系列のサンプリング周波数をfsampleとすれば,

 

 を満たすことが条件である.ここで,の数倍程度と仮定すれば,fscanに対してfsampleを十分に小さくとることができればよいことになる.一般にフォトダイオードの応答速度は,数MHzから数十MHzであり,機械的な振動機構の振動数は最大でも数kHzのオーダである.すなわち,(1)の条件を満たすことは可能である.複眼センサは,網膜振動により,比較的少ない画素数で個眼の分解能限界までの解像能力を持つことができる

 前章で述べた複眼センサを用いて,センサの位置を固定し,光源の方向を0.5°ごとに変え,光源への角度を測定する実験を行った.フォトダイオードから得られる信号と,スキャナの制御信号との位相差から,光源の方向を定めることができる.ここで,視軸間の間隔は3°,視軸の走査の振幅角は4°である.図5に測定結果を示す.横軸は実際の光源の方向であり,縦軸は隣接する2個の個眼によりそれぞれ測定された角度である.実験より,このセンサは0.5°の分解能をもって光源の方向を測定できる.

図表図4 個眼の分解能 / 図5 網膜振動による視軸の走査図5 網膜振動による光源方向の検出

 さらに,網膜振動によって,センサの出力信号のS/N比を向上することができる.生物の網膜の光受容器は,一定した明るさよりも,明るさの変化に敏感であることが知られている.本研究で設計する複眼センサにおいても,ハイパスフィルタを用いて明るさの変化をパルスとして取り出すこととする.今,センサに対して固定されたコントラストを網膜振動によって検知する場合を考える.このとき、視軸がコントラストを走査することによって生じる入力光の照度の変化率は,視軸の走査の角速度に比例する.

 光源を固定して,網膜振動の変位および周波数を変化させて,フォトダイオードに接続されたハイパスフィルタの出力を測定した.図6(a)は,網膜振動の周波数を固定し,スリットアレイの振幅を変化させた測定である.このとき,視軸の走査の角速度は網膜振動の振幅に比例する.ハイパスフィルタの出力が走査の振幅に対して直線的に変化していることが確かめられた.ここで,ノイズのレベルは20mV程度であり,ノイズから物体のコントラストを分離するために必要な信号レベルは30mV程度である.そこで,この実験の条件のもとでは,網膜振動に10mの変位を与えることによって光源を認識することができる.

 図6(b)は,網膜振動の振幅を固定して,周波数を変化させた測定である.このとき,物体の相対角速度は走査の周波数に比例する.グラフから,周波数の増加に伴って出力が上昇していることわかる.ただし,ここではノイズ低減のため,処理回路にローパスフィルタを併せて用いている.走査の周波数がある程度以上に大きくなるとこのローパスフィルタ回路の影響で信号が小さくなっている.この実験より,出力信号のS/N比に関して16Hzの網膜振動が最適値であることがわかる.

図6 S/N比の向上
結論

 本研究において,筆者はマイクロ複眼センサにおける網膜振動の効果を理論的に示した.さらに直径120mのマイクロレンズからなるレンズアレイと,受光素子上に最大で20mの変位を与えることのできる振動網膜機構を製作し,これらから構成されるマイクロ複眼センサによって,網膜振動の効果を検証した.

 本センサは複数の受光素子の配列からなるため,一つの受光素子からなるスキャナに比して,同一範囲を走査する際の一受光素子あたりの走査角度が小さい.さらに,マイクロレンズの焦点距離が小さいため,直径の大きい一つのレンズを使用した場合に比べて.一定の角変位を与えるのに必要な受光部の変位も小さい.すなわち,本マイクロ複眼センサは,網膜振動の効果を小さいサイズで生み出すことのできる構造といえる.

 また,受光部分を時系列で動かすことにより,空間情報を時間情報に置き換えて取り出すことができるため,比較的少ない素子数でレンズのもつ分解能を最大限に活用することができる.本研究では実験によって,受光部の機械的な走査運動が,レンズとフォトダイオードによって構成された光学・電気システムの分解能を向上させることを示した.すなわち,本研究で提案した網膜振動機構を持つマイクロ複眼センサは,受光素子数を肥大化することなく効果的に環境の情報を得ることのできる有効なシステムである.

審査要旨

 本論文は,多数のレンズを配列することによって構成された複眼型マイクロ視覚センサの研究である.この視覚センサは,受光部に機械的な走査のための振動機構を持つ.この振動機構は,生物の網膜に見られる微小振動を規範としたものである.本論文では,この機械的な走査によってレンズとフォトダイオードによって構成された光学・電気システムの分解能および処理能力が向上することが示されている.さらに,網膜振動機構を持ったこの複眼型視覚センサが,マイクロスケールにおいて適した構造であることが述べられている.本論文は5章よりなり,その構成は次のようである.

 第1章「序論」では研究の背景に関して,生物学における複眼の研究,工学における昆虫規範型ロボットの研究,さらにマイクロマシニング技術を用いたマイクロ光学デバイスの研究について述べられている.さらに本研究の意義が,機械的な走査機構を集積したマイクロ視覚システムの製作にあることが述べられている.

 第2章「理論」においては,本研究の根拠となる理論が述べられている.まず昆虫の複眼のサイズと解像能力に注目して,複眼のように薄く,広い視野を持った構造がセンサの小型化に有効であることが示されている.また,網膜における微小振動がモデル化され,網膜の微小振動がセンサの解像度,情報処理に与える効果について考察が行われている.

 第3章「製作・検証」は大きく二つの部分に分かれる.前半では,寸法数センチの複眼センサについて述べられている.これはマイクロスケールの複眼センサの試作に先立って行われたもので,マイクロセンサに比して扱いが簡単で,移動ロボットに搭載するなどの実験が可能である.後半では,マイクロマシニング技術を用いて筆者が試作したマイクロスケールの視覚センサについて述べられる.このマイクロセンサは前述のラージスケールセンサとほぼ同等のセンサ出力が得られる上に,寸法は数ミリ程度と,昆虫の複眼サイズのオーダに近づくものである.マイクロスケールのセンサにおいては,外部に設置したアクチュエータによって網膜振動機構を実現したものと,ダイオードアレイ上に製作した静電アクチュエータによって網膜振動を実現したものの二種類のセンサを製作している.第3章では,これらのセンサの設計および製作方法について述べた後,製作したレンズや振動機構,フォトセンサ等,個々の要素の性能検証を行っている.

 第4章「実験」では,製作したセンサを用いて行った実験について述べられている.このセンサから得られる信号は,各受光素子から並列かつ連続に得られるものである.アナログ回路を用いて,初期の信号処理を行い,さらに物体の動きを相対的な角速度によって評価する方法が述べられている.さらに,製作したセンサを用いた理論と実験結果との比較が行われる.

 第5章「結論」では,網膜振動機構を持ったマイクロ複眼センサに関する結論が述べられ,複眼センサの今後の発展性についての考察が行われる.

 本論文で試作された複眼センサは,大きさ8ミリ角,厚さ500ミクロンに構成された小型・薄型のマイクロシステムである.レンズの直径は120ミクロンであり,静電アクチュニータは,受光部に20ミクロンの変位を与えることができる.本センサは多数の画素を持つため,一つの画素に必要とされる走査の角度が小さい.さらにマイクロレンズの焦点距離が200ミクロンと小さいため,網膜の走査に必要な機械的変位が小さい.すなわち,平面上に構成された本マイクロ複眼センサは,網膜振動の効果を小さいサイズで効果的に生み出すことのできる構造といえる.

 また,受光部を時系列で動かすことにより,空間情報を時間情報に置き換えて取り出すことができるため,比較的少ない画素数で光学系のもつ分解能を最大限に活用することができる.本研究では,受光部の機械的な走査運動がレンズとフォトダイオードによって構成された光学・電気システムの分解能を向上させ,容易にコントラストが抽出できることを実験によって示している.以上要するに,本研究は受光素子の微動という機械的な要素によって視覚センサの実質的解像度を向上するという,マイクロマシンニングの光デバイスへの新しい応用を見出す研究であり,機械情報工学に貢献するところ大である.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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