固体との界面のごく近傍では、液体は固体壁からの物理的・化学的相互作用のためバルク中とは異なる構造や分子ダイナミクスをもつことが予想される。しかし固液界面近傍での分子配向層や吸着層の形成など、界面に特徴的な現象は界面からnm〜m程度のごく薄い領域に現れるため、これらを観測するには従来とは異なった手法が必要となる。本論文は、界面の局所的な力学物性を調べる上で有力なエバネセント光を用いた新しい動的光散乱法について述べる。エバネセント光は界面近傍に局在する伝搬光であり、これを動的光散乱測定の光源として用いることにより、界面近傍のみの情報を抽出して得ることができる。本測定法の開発により、固体壁に接する液体の力学物性測定が可能になる。 第一章では新たに開発された動的エバネセント光散乱法(Evanescent Light Scattering)について述べている。エバネセント波とは固体から液体に光が全反射条件で入射するときに液体側に現れる光のしみだしのことである。この光波は界面に沿った方向には通常の伝搬光と同様に位相変化を伴って伝搬するが、界面に垂直な方向には減衰が大きい。この侵入長は入射角によって変化するが、ほぼ光の波長程度となる。このエバネセント領域に微小粒子や熱揺らぎによる屈折率の不均一が存在すると、エバネセント光は散乱され、再び伝搬する通常の光に変換される。界面からの散乱光を検出してその強度揺らぎを観察することにより、界面のごく近傍に存在する粒子の運動や、屈折率揺らぎなどの動的な情報を得ることができる。筆者は微粒子分散系において、粒子の運動に伴う分布関数の時間変化と散乱光強度揺らぎの自己相関関数との関係を定式化し、m程度の粒子のブラウン運動にともなう拡散運動が実験的に測定可能であることを示した。 この考察に基づき実際に動的エバネセント光散乱法を作製した。Fig.1にブロック図を示す。光源は400mW、波長532nmのcw-YAGレーザーである。ガイド光用のHe-Neレーザーを入射レーザーと散乱領域で交差させ、その交差角から散乱角を正確に求める。試料はガラスプリズム表面に展開する。測定では入射角を78゜に固定し、固体基板をガラス(n=1.52)、液体媒質を水(n=1.33)とした。この条件ではエバネセント波の侵入長は140nmとなる。散乱光はフォトマルチブライヤーで検出し、信号をデジタルオシロスコープに取り込んで散乱光強度の自己相関関数を計算する。観測できる波数の範囲は1.6×106<K<3.3×107(m-1)である。微弱なエバネセント散乱光を測定するためには、迷光をできるだけ取り除く必要がある。このためブリュースター角入射法などの新技術を採用し、エバネセント散乱光を精度よく、かつ高感度に測定することが可能となった。 Fig.1 エバネセント光散乱法では、散乱領域の厚みがエバネセント侵入長により制限されるため、散乱粒子が散乱領域内に滞在する時間に大きく依存するという装置特性が現れる。このため解析には散乱角ごとに異なる装置関数を求めておく必要がある。筆者はエバネセント光の減衰を散乱ベクトルの分布によっておきかえ、指数減衰曲線の重ね合わせとして装置関数を評価した。これにより、得られた散乱光強度ゆらぎの相関から、粒子の拡散運動に関する情報を分離して観測することが可能となった。 第二章では固液界面近傍における微小粒子のブラウン運動について述べている。バルク中においてはブラウン運動による微小粒子の拡散は、を相関時間の逆数、Kを散乱波数として、=DK2と表される。ここでDは粒子の拡散定数であり、粘性の液体中における半径の粒子については、アインシュタイン-ストークスの関係式よりD=kT/6で与えられる。しかし固液界面近傍について考えると、粒子と界面との流体力学的相互作用によって粒子の並進運動に対する見かけの粘性が増加するため、拡散定数はバルク中と比べて小さくなると予想される。またこの相互作用は、界面に対して平行方向に対しては流体のひきずり、垂直方向には排除と違った影響を及ぼすため、各方向に対して異なる拡散定数を与える。流体力学による理論計算によれば、この異方性拡散の様子は粒子の界面からの距離と直径との比によって変化する。今回の実験においては、界面から侵入長までの領域に存在する粒子のみが光散乱に寄与すると考え、粒径を変えることによりこの比を変化させた。 試料には直径がそれぞれ0.097、0.813、2.97、11.9[m]の4種類のポリスチレンラテックスを濃度0.1%で用いた。0.097[m]と0.813[m]の実験結果をFig.2に示す。●はレイリー散乱によって測定されたバルクでの実験値で、点線はアインシュタイン-ストークスの式による理論値を示す。また〇はエバネセント光散乱による実験値で、実線はフィッティング曲線である。このフィッティングの値は粒径0.813[m]において、界面に沿った方向の拡散定数がバルク中の(16/25)倍、垂直方向については0として得られたものである。これは、流体計算から予想される値とよく一致した。同様に、2.97[m]、11.9[m]においてもよい一致をみた。これらの結果から、固体壁近傍における粒子のブラウン運動は、固体壁と粒子との間の流体力学的相互作用のために抑制されること、また粒子の運動が壁に沿った方向と垂直な方向とで異なる、すなわち拡散が異方的になることが明らかとなった。この結果は、今後固液界面近傍における流体の力学的物性を評価する上で重要な知見である。また同時に本測定によって、動的エバネセント光散乱法が、界面近傍の力学的物性測定手段として有効であることが立証された。 Fig.2 第三章ではフラストレートされたエバネセント光散乱法(Frustrated-ELS)について述べている。前章において説明したとおり、エバネセント光散乱が起こるということは、本来の全反射現象を乱しているということにほかならない。このように全反射が一部乱される現象を「全反射のフラストレーション」という。このフラストレーションの結果、本来の全反射光のまわりに散漫散乱が現れることになる。この散漫散乱光強度の時間揺らぎは、やはり散乱体の運動を反映したものとなっている。フラストレートエバネセント光散乱は、エバネセント光が散乱により別のエバネセント光に変換される過程であると考えることができる。この散乱は界面内で起こるため、エバネセント光のフラストレーション現象を観察することにより、界面近傍における粒子の面内方向の運動を調べることができる。この手法は、これまでのエバネセント光散乱法と異なり測定波数に低波数限界がないため、界面における分子配向緩和や高周波界面フォノンなど高速の現象の計測が可能になると考えられる。 実験ではまず周期的な空間変調によりエバネセント場が散乱される様子を確認するため、回折格子による全反射光の回折現象を観察した。回折格子を精密移動ステージに取りつけ、1nmの精度で全反射面に近づけると全反射光のまわりにスポット光が現れる。回折光は、格子定数による回折角を反映した位置に現れた。この1次回折光の強度を回折格子と全反射面との距離を変えながら測定した結果をFig.3に示す。回折格子と全反射面との距離が増大すると散乱光強度が指数関数的に減衰し、その減衰距離は理論的に予想される侵入長に一致する。この測定を入射角を変えながら行った結果をFig.4に示す。エバネセント侵入長は界面への入射角によって値が変化する。実線は理論から予想される値であり、実験値とよく一致している。 この結果に基づき、フラストレートエバネセント光散乱測定装置を作製した。基本的な構成は前述のエバネセント光散乱法と同様であるが、全反射光周辺に生じる散乱光を検出する点が異なる。また本測定法では、入射波・散乱波がともにエバネセント光であるため、界面に垂直な方向への強度プロファイルは散乱角によらず一定である。このため粒子が界面に垂直な方向に運動することにより生じる装置関数は散乱角に依存しない。測定においては、この装置関数をあらかじめ数値計算によって求め、これを用いて測定された自己相関関数を補正した。この装置を用いてポリスチレンラテックスのブラウン運動を観測した。すでに前章で界面近傍における拡散現象は明らかになっている。しかしフラストレートエバネセント光散乱測定では、散乱波数が界面内にあるので、自己相関関数には界面に沿った方向の運動のみが寄与することになる。拡散の相関時間の散乱波数依存性をFig.5に示す。破線はバルク中におけるブラウン運動の状態を示したもので、点線はフラストレートエバネセント光散乱によって得られる界面に沿った方向のみのブラウン運動を予想したものである。実験結果はこれをよく再現している。 図表Fig.3 / Fig.4 / Fig.5 以上のとおり、本研究では界面近傍における流体の力学物性を測定する上で有力な2種類のエバネセント光散乱法を開発した。これらの装置により、界面のごく近傍における微小粒子の異方性拡散を観測することができた。エバネセント光散乱法は今後界面近傍に形成される特異な分子集合体の物性を研究する上で、有効な手段になると考えられる。 |