学位論文要旨



No 115161
著者(漢字) 有本,英生
著者(英字)
著者(カナ) アリモト,ヒデオ
標題(和) 量子極限における半導体2次元電子系のサイクロトロン共鳴
標題(洋)
報告番号 115161
報告番号 甲15161
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4656号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三浦,登
 東京大学 教授 尾鍋,研太郎
 東京大学 教授 白木,靖寛
 東京大学 教授 安藤,恒也
 東京大学 助教授 長田,俊人
内容要旨

 量子ホール効果の発見以来、半導体2次元電子系に強磁場を印加したときに現れる量子現象は、実験的、理論的に精力的な研究がなされてきた。その過程で、端電流、トポロジカル不変量、分数電荷、分数統計、エニオンなど、2次元という特殊性に起因する、多くの新たな概念を物性物理に導入してきた。

 現在まで、20T程度までの超伝導マグネットで発生できる磁場範囲では、電気的、光学的測定から電子間相互作用の機構が詳しく調べられ、分数量子ホール液体状態、ウィグナー固体状態等の性質が明らかにされてきた。しかし、それを越えるような強磁場、特に100Tを越えるような超強磁場では、磁場発生、及び物性測定の困難さから、ほとんど実験的研究はなされていない。超強磁場下では、磁場によるサイクロトロンエネルギーやゼーマン分裂エネルギーが、サブバンド間エネルギーやLOフォノンエネルギー等の量子井戸固有のエネルギーを越え、それらの競合による劇的な電子状態の変化が期待される。

 本研究では、半導体2次元電子系に、一巻きコイル法という特殊なパルス磁場発生装置により100Tを越える超強磁場を印加し、サイクロトロン共鳴(CR)によってその物性を探った。CRの測定は、信号を磁場発生空間から離れた場所で検出するためノイズの少ない測定が可能であり、電気的測定に比べ超強磁場物性の研究に適している。また、共鳴的な方法であるために、有効質量やキャリア分布等を精度よく求めることが可能であり、定量的な研究に有利である。一巻きコイル法は、一巻きの銅コイルへの大電流放電による短パルス磁場発生方法である。特徴としては、最大190Tという強い磁場とともに、6秒という短い発生時間があげられる。もし、キャリア分布の緩和時間がパルス幅と同程度であれば、短パルス磁場によって非平衡電子分布を実現するという、今までに例のない現象を引き起こすことが可能である。この非平衡分布の緩和現象は、キャリア分布の時間変化を反映して、CRスペクトルの磁場上昇時と下降時の不一致や、磁場波形への依存という形で観測されることが期待される。

 本研究の目的は、半導体2次元電子系に超強磁場を印加することで実現される量子極限状態での新奇な現象をCRの測定により発見し、そのメカニズムを明らかにすることである。特に、一巻きコイル法による大きな磁場変化率に起因する異常な振る舞いに着目し、それを利用してキャリアのダイナミクスについて詳しく調べる。具体的には、InAs/AlSb単一量子井戸と、斜め磁場下GaAs/AlGaAs多重量子井戸について研究を行った。

 (1)InAs/AlSb単一量子井戸における電子間相互作用と非平衡電子分布

 InAs/AlSb量子井戸では、電子が存在するInAs層の有効g値が-15と大きいために、ゼーマン分裂は90meV(at100T)にも及ぶ。そのため、スピンに依存した因子が強調され、2次元電子系の性質が強磁場下で著しく変化する可能性がある。本研究では、CRによって強磁場で誘起かれる新奇な現象を探索し、そのメカニズムを温度、掃引速度依存性により明らかにすることを目的とする。

 図1に、井戸輻15nm、キャリア濃度6×1011cm-2(20K)、12×1011cm-2(300K)のInAs/AlSb単一量子井戸の、波長10.6mでの温度依存性を示す。42Tと47Tに観測された吸収はそれぞれ、+スピン、-スピンのN=0からN=1のランダウ準位の遷移エネルギーの、3準位モデルによる計算値とよく一致している。また、温度上昇による全吸収強度の増加は、キャリア数の増加とよく対応する。しかし、-スピンの吸収強度の増大は、電子のボルツマン分布を仮定した場合より2倍程度強く、電子間相互作用を考えないと全く説明できない。Asanoらによる厳密対角化による計算(K.Asano and T.Ando,Phys.Rev.B 58,(1998)1485)との比較から、この異常は、電子間相互作用による2つの吸収モードのカップリングによってよく説明されることを明らかにした。モードカップリングの研究は、主にGaAs系において超量子極限状態(フィリング<1)、超低温(T<4.2K)で行われてきた。本研究は、GaAs系以外では初めての実験であり、InAsのスピン分裂が大きいことを利用して、〜1、かつ300Kまでの広い温度領域でモードカップリングを確認した初めての実験である。

 低温で強磁場まで掃引したときのスペクトルに、磁場上昇時と下降時の不一致(ヒステリシス)を観測した。図2に16K、10.6mにおけるCRスペクトルの最大磁場依存性を示す。磁場の下降時は、磁場の不均一性を反映した半値幅の広がりのほかは顕著な依存性はない。一方磁場の上昇時は、-スピンは、最大磁場が大きいほど、すなわち磁場掃引速度が大きいほど吸収面積が大きく、+スピンでは逆であった。45T、16Kでのが0.6であり、ゼーマン分裂の大きさが23meVであることを考えると、磁場上昇時には電子が非平衡分布していることを示している。これは、大きなdB/dtによるジュール熱によるものではないことが、他の試料の同様の実験からわかっている。我々は、非平衡分布の原因として、遅いスピン緩和を考えた。12.5Tでは、が2に当たり、磁場掃引に比べて十分に早い電子のランダウ準位間の緩和(0.1ns)のため、磁場が12.5Tになると同時にN=0のランダウ準位の+スピンと-スピン準位に電子が完全につまる。その後は、平衡状態では、磁場増加による縮重度の増加とともに、-スピンは+スピンに緩和して、25T(=1)ですべての電子は+スピンの準位を占めるはずである。しかし、磁場掃引速度とスピン緩和時間が同程度の場合、磁場上昇とともに、-スピンが緩和しきれず、平衡状態に比べ-スピンが多く存在することになる。いわば、断熱加熱した状態になる。磁場上昇時のそれぞれのスピンの吸収面積からキャリア濃度を求め、2準位のレート方程式で計算した結果、緩和時間は0.1秒であることを明らかにした。半導体2次元系としては異常に長い緩和時間は、超強磁場中ではゼーマン分裂が大きくなるために、音響フオノンによる、完全に離散的な準位間のエネルギー緩和を伴ったスピン反転が起こりにくくなるためである。現在までに磁場中2次元電子系のエネルギー緩和を伴ったスピン反転の研究はほとんどなく、この測定は緩和現象を直接観測した初めての例である。

図表図1:波長10.6mでの温度依存性 / 図2:16K、10.6mでの最大磁場依存性

 (2)斜め磁場下GaAs/AlGaAs多重量子井戸におけるCRスペクトルのヒステリシス

 2次元面垂直方向に磁場を印加する場合、ハミルトニアンは磁場平行方向と磁場垂直方向に変数分離できる。磁場を傾けて印加すると、磁場の面内成分がサブバンド量子化とランダウレベル量子化をカップルする(サブバンド・ランダウレベル・カップリング、SLC)。本研究では、超強磁場を半導体2次電子系に印加することにより、バリア高さ、サブバンド間エネルギーとサイクロトロンエネルギーの競合を起こし、2次元面から傾けることにより、SLCに関係した、垂直磁場では得られない新しい効果を探索することを目的とする。

 図3に、井戸輻10nm、バリアのAl濃度0.4、層数40、キャリア濃度1.3×1011cm2のGaAs/AlGaAs多重量子井戸の、2次元面から磁場を傾けたときの磁場角度依存性を示す。16.9mでは、ヒステリシスは観測されず、吸収ピークは強磁場側へシフトした。10.6m、9.25mでは、吸収強度はほぼ保存して、磁場上昇時の方が下降時より低エネルギー側で吸収が起こった。低磁場側へのシフトはSLCで説明される。また、サブバンド間エネルギーE10〜光エネルギーでヒステリシスが顕著なことから、ヒステリシスはSLCに関係することがわがる。図4に最大磁場依存性を示す。磁場下降時のスペクトルには依存性がないのに対して、上昇時のスペクトルでは、磁場掃引が遅いほど吸収が小さい。ヒステリシスは、磁場掃引速度が十分に遅ければ観測されない。この結果は、大きなdB/dtをもつ斜め磁場が印加されたとき、磁場上昇時は電子状態が非平衡であるため、磁場の波形によって様々なスペクトルになるが、磁場下降時には、平衡状態に緩和しているためにすべて同じスペクトルを得ているのである。磁場パルス輻を考えると、その緩和時間は1秒程度であることがわかる。

図表図3:磁場角度依存性 / 図4:最大磁場依存性

 これらの結果は、E10が磁場上昇時の方が下降時より大きいために、SLCが強くおこり、低磁場側にピークが見えると解釈される。斜め磁場下のランダウ準位の計算との比較から、角度が大きいほどE10の変化が大きく、30度では約2meV、45度では約6meVであることがわかった。E10の大きさが変化する原因は明らかではないが、バリアのAl濃度を変えた試料での実験結果から、GaAsとAlGaAsの界面準位、またはAlGaAs中の準位が関係することが示唆される。半導体中では、このような長い緩和時間を持ったダイナミクスはほとんど知られておらず、短パルス超強磁場により誘起された、まったく新しい現象であるといえる。

 以上をまとめると、本研究では、短パルス超強磁場下での半導体2次元電子系の様々な新奇な現象を、サイクロトロン共鳴によって明らかにした。特に、一巻きコイル法が短パルス(6秒)の磁場を発生することを積極的に利用して、キャリアのダイナミクスの研究を行った。超強磁場下では、サイクロトロンエネルギーやスピン分裂が、半導体2次元電子系特有のエネルギーを越えることにより劇的な電子状態の変化が起こり、半導体2次元電子系としては大変長い秒の緩和が起こることを観測した。

審査要旨

 半導体の量子井戸、ヘテロ接合などにおいて量子ポテンシャルに閉じ込められた2次元電子系は、強磁場下で量子ホール効果をはじめ、様々な量子現象を示す。特にすべての電子が最低エネルギーのランダウ準位に落ち込んだ量子極限状態では、分数量子ホール状態、ウィグナー結晶の可能性、サイクロトロン運動のモード結合など、電子準位の量子化に基づく興味ある問題が物性の基本的問題として多くの注目を集めている。一方、超強磁場発生技術の進展によって、最近では100T以上の磁場下でも精密な物性測定が可能になり、半導体2次元電子系についても従来にない超強磁場下での量子極限状態が実現できるようになった。

 本論文は、「量子極限における半導体2次元電子系のサイクロトロン共鳴」と題し、InAs/AlSb.GaAs/AlGaAsの2種類の量子井戸について、一巻きコイル法によって発生した約150Tにおよぶ超強磁場下でのサイクトロン共鳴に関して詳細な研究を行った結果をまとめたものである。

 第1章「序論」では、本研究の目的、意義、論文の概要などが述べられている。

 第2章「磁場中の半導体2次元電子系とサイクロトロン共鳴」では、半導体2次元電子系の電子状態、サイクロトロン共鳴、モード結合、磁場の下での電子状態など本研究の背景にある基本的問題の要約が述べられている。

 第3章「一巻きコイル法によるパルス磁場下サイクロトロン共鳴」では、一巻きコイル法による超強磁場でのサイクロトロン共鳴の実験法が述べられている。特にパルス幅が非常に短い超強磁場パルス中で十分高速な測定を行うための赤外光高速検出技術、ノイズ対策などが述べられている。

 第4章、第5章は本論文の中心をなすもので、本研究で得られた実験結果とその考察が議論されている。

 第4章「InAs/AlSb単一量子井戸のサイクロトロン共鳴」では、ナローギャップ半導体であるInAsの2次元電子系に垂直に磁場を加えた場合に、量子極限下のサイクトロン共鳴で著者が新たに見いだした効果について詳しく議論されている。量子極限下のサイクロトロン共鳴では、+、-のスピンをもつ2種類の最低ランダウ準位からの遷移が観測されるが、温度の上昇とともに、-スピン準位からの遷移強度が熱分布から期待される以上に、異常な増加を見せることを見いだした。この効果については、2種類のサイクロトロン運動のモードの間の結合効果によって引き起こされたものとして解析が行われている。20K以下の低温においては、2種類のスピン準位の共鳴の相対強度が磁場の増加時と下降時の間で異なるというヒステリシス現象を見出した。そして磁場の下降時には平衡状態のスペクトルが得られるのに対し、増加時に非平衡状態が見られることを確認し、この現象は2つのスピン状態間の緩和が比較的遅いために、磁場の掃引が速いとスピン緩和が追従できないために生じた現象であることを明らかにした。さらに掃引速度を種々変えた実験からスピン緩和時間を0.1マイクロ秒と見積もった。また高温ではサイクロトロン共鳴の吸収強度から電子濃度が強磁場下では減少することを見出し、これを井戸の外に存在するドナー準位に電子が移動するためであると解釈している。

 第5章「斜め磁場下GaAs/AlGaAs多重量子井戸のサイクロトロン共鳴」では、GaAs/AsGaAs多重量子井戸に結晶成長方向(量子井戸層に垂直な方向)から傾いた磁場を加えた場合のサイクロトロン共鳴の実験結果とその解析が述べられている。傾いた磁場中では、ランダウ準位と量子井戸ポテンシャルによるサブバンドの間に結合が起こるために、井戸内の電子準位は磁場や角度の変化とともにきわめて複雑な振る舞いを示し、サイクロトロン共鳴にも特有の現象が観測される。本研究ではサイクロトロンエネルギーcに対してサブバンド間エネルギー差E10や量子井戸ポテンシャルVが種々異なる試料についての実験を行いそれぞれの場合について特徴的な現象を見出している。cがE10よりも小さいときには角度の増加とともに共鳴位置が強磁場側にシフトし、大きいときには逆側にシフトすること、またcがVよりも大きい領域では角度の増加とともに共鳴ピークの幅が広がって強度が減少することを見出し、これらを上記結合効果のモデルによる計算と比較して説明している。さらにcがE10に近い領域では磁場の上昇時と下降時の間に大きなヒステリシス現象がみられることを見出した。この現象の原因は現段階では明かにされていないが、何らかの原因によって励起サブバンドに電子が存在するためであるとしている。第4章、第5章ともにヒステリシス現象が議論されているが、これらはいずれも超強磁場パルスの時間幅が数マイクロ秒という非常に短いために発見された新規な現象として注目される。

 第6章「総括」では、以上の研究の概要が要約されている。

 以上を要するに、本研究は一巻きコイル法によって発生したメガガウス領域におよぶ超強磁場下でInAs/AlSb、およびGaAs/AlGaAs系の量子井戸の2次元電子系についてサイクロトロン共鳴の研究を行い、多くの新しい知見を見出したものであり、物性物理学、物理工学の発展に寄与するところがきわめて大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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