学位論文要旨



No 115167
著者(漢字) 高木,晋作
著者(英字)
著者(カナ) タカギ,シンサク
標題(和) 位相コヒーレント光散乱法による複雑流体の研究
標題(洋)
報告番号 115167
報告番号 甲15167
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4662号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 高木,堅志郎
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
 東京大学 助教授 酒井,啓司
 東京大学 講師 木村,康之
内容要旨 1.はじめに

 流体中の微弱なゆらぎ(温度ゆらぎ、密度ゆらぎ(音波)等)による光散乱現象はRayleigh-Brillouin散乱として知られ、非破壊・非接触で系のダイナミクスを研究する手法として幅広く用いられている。しかし、微弱な熱励起ゆらぎを分光する従来の方法では満足のいくS/Nが得られず、また、通常用いられている光学的分光法では周波数分解能も低い。われわれは、これまでの光散乱法とは全く異なる原理を用いた、新たな光散乱法を開発した。この方法(位相コヒーレント光散乱法)では、微弱な熱励起ゆらぎに代わり、2本のレーザー光を用いてさまざまな運動モード(弾性波・熱拡散・液晶分子の回転等)を強制励起することで、飛躍的にS/Nの高い分光が実現された。また、従来の動的光散乱分光法の問題点として、複数のモードのスペクトルの重畳がある。例えば溶液からの光散乱スペクトルには濃度拡散モードと熱拡散モードが同一周波数帯に混在してしまう。これは自然に存在する熱励起ゆらぎを分光している限り不可避の現象である。位相コヒーレント光散乱法では、強制励起するモードを意図的に選択することで、各モード個別の測定が可能である。次にその原理について述べる。

2.位相コヒーレント光散乱法

 液体などの透明な媒質中でFig.1のように2本のCWレーザー光を交差させる場合を考える。交差部分には光の干渉縞が形成される。光の強度が媒質中で縞状に分布するため、媒質の熱膨張や電歪効果によって、光の交差部分には光の強度縞と同じ波長の疎密の分布が誘起される。2本の光の周波数がわずかに異なれば、光の干渉縞は差周波数から決まる位相速度で動く。したがって、光の干渉縞によって媒質の疎密変化が促されるが、大抵の場合、その疎密変化は縞の移動に追随できず、媒質の密度に顕著な変化は現れない。ところが、もし縞の位相速度が媒質中を伝わる音速に一致した場合、光の干渉縞と共鳴する形で媒質に励起された疎密がフォノンとなって伝播する。こうして、光の交差部分には光の干渉縞と位相のそろった(コヒーレントな)フォノンが励起される。同様のメカニズムを用いると光の干渉縞にコヒーレントな温度グレーティング、濃度グレーティング、配向運動といった様々なモードが励起できる。

Fig.1 光電場グレーティング生成の原理。

 レーザー励起モードは光の強度縞と完全に位相のそろったコヒーレントなモードである。したがって、その散乱光は運動モードの位相情報をも持ち合わせており、この位相情報を検出することでスペクトルが実部と虚部からなる複素スペクトルとして観測される、という大きな特徴を持つ。この複素スペクトルは、位相のランダムな熱励起ゆらぎによる従来の光散乱法では決して観測することができないもので、レーザー励起モードを用いることで初めて可能である。

 レーザー励起モードは熱励起ゆらぎをはるかに凌ぐ強度を持つので、散乱光信号の強度も増大し、その結果、従来の測定法よりもS/Nの高いスペクトルを得ることができる。また、散乱信号のうちコヒーレントな成分だけを検出するため、例えば微量の色素を試料に混入して熱拡散モードだけをコヒーレントに励起すれば、熱拡散モードを選択的に観測することが可能になる。現在までに縦波音波、熱拡散、回転緩和による光散乱を複素スペクトルとして独立に測定することに成功している。

 Fig.2は実際に測定された液体二硫化炭素のBrillouinスペクトルで、散乱角を180°近くに設定することで、7.6GHzという高周波超音波の励起に成功した。このような高周波超音波をBrillouin散乱で、しかも高分解能かつ高いS/N比で観測した例は他にない。このような高い精度での高周波分光が可能なのは、われわれの測定法がスーパーヘテロダイン検波法を採用しているためであるiii

Fig.2 二硫化炭素の複素Brillouinスペクトル。
3.モード選択性を活かした物性測定

 単純な等方性液体であれば拡散モードは熱拡散に限られるが、溶液などの多成分系ではさらに濃度拡散モードが現れる。また、液晶のように分子が顕著な異方性を持つ場合は、Rayleigh散乱には分子の異方性ゆらぎ(配向緩和)に起因した散乱成分が重なる。我々が開発した新たな動的光散乱測定法である位相コヒーレント光散乱法で分光すると、重なり合う多様なモードを独立して測定できるという利点がある。われわれは、モード選択性という特長を有する分光法である位相コヒーレント光散乱法を用い、サーモトロピック液晶の相転移点近傍での臨界挙動の研究、および、二成分臨界溶液の熱拡散臨界挙動の研究を行った。

 サーモトロピック液晶の等方相の偏光保存散乱では熱拡散モードと配向緩和モードが拡散モードRayleighスペクトルとして重畳し、その裾にBrillouinスペクトルが観測されるが、われわれの測定法ではこれらのモードを完全に独立して測定することができる。熱拡散、配向緩和、縦波音波の各モードに対するスペクトルの温度依存性を相転移点近傍まで測定した。Fig.3は配向緩和モードのスペクトル線幅の温度依存性で、近似直線の外挿から仮想的な臨界温度が33.5℃と求まり、過去の測定例との良い一致を見たiv

Fig.3 5CBの配向緩和スペクトル線幅の温度依存性。

 二成分臨界溶液は臨界点近傍では濃度ゆらぎが発散的に増大するため、このような状況下での熱拡散モードの測定は従来法では不可能に近い。位相コヒーレント光散乱法ではコヒーレントな温度グレーティングを選択的に励起可能で、強い濃度ゆらぎからのインコヒーレントな散乱光は一切観測にかからないため、臨界点近傍まで熱拡散モードの独立した測定が可能である。Fig.4は臨界点近傍での熱拡散スペクトルで、強い濃度ゆらぎの下での熱拡散モードの選択的測定に成功した。

Fig.4 アニリン/シクロヘキサン臨界溶液の熱拡散モード複素スペクトル。
4.液晶マイクロエマルジョン系の透明ネマティック相転移

 等方相にある液晶に界面活性剤と水を適当な濃度比で混合すると、液晶が油の役割を担い、界面活性剤と水が逆ミセルを構成する(液晶マイクロエマルジョン系)。この系の温度を下げると液晶は配向しようとするが、逆ミセルの存在によって妨げられるため、系に特有な新たな相を発現する可能性を秘めている。熱量測定と顕微鏡観察の結果から、等方相とネマティック相分離領域との間に第3の光学的に透明な相が存在することが当研究室で確認された。この相はネマティック相でありながら、逆ミセルの存在によって、液晶の配向は光の波長より短い距離での局所的なものにとどまるため、光に対して透明な相であると考えられ、透明ネマティック相と名付けられた。この等方相-透明ネマティック相の転移を実験的に確認するためには、臨界現象が最もよく見られる量である音速の測定が重要となる。

 Fig.5は5CBおよび液晶マイクロエマルジョン系のBrillouin]シフト周波数の温度依存性を表したものである。等方相-透明ネマティック相転移にみられる音速の減少が5CBに見られる一方で、液晶マイクロエマルジョン系では相転移温度付近でその温度依存性に微妙な変化が見られた。この温度は熱量測定により求まった転移温度と矛盾しない結果であり、透明ネマティック相転移を実験的に確かめたものと言うことができる。ただし、この系の物性については今後も詳しい検討を必要とする。

Fig.5.5CB(上)および液晶マイクロエマルジョン系(下)のBrillouin周波数の温度依存性。
5.まとめ

 われわれは全く新しい原理に基づく動的光散乱測定法として位相コヒーレント光散乱法を開発した。従来法でのランダムな熱励起ゆらぎからの散乱光の分光に代わり、光でコヒーレントなモードを励起するため、スペクトルの複素分光やモード選択的分光が可能である。今後は横波弾性波や濃度拡散モードの複素スペクトルの観測を目指し、位相コヒーレント光散乱法を新しい動的光散乱測定システムとして確立させたい。

iB.J.Berne and R.Pecora,Dynamic Light Scattering(Wiley,1976).iiH.Tanaka,T.Sonehara and S.Takagi,Phys.Rev.Lett.79,881(1997).iiiH.Tanaka and T.Sonehara,Phys.Rev.Lett.74,1609(1995);Physica B219&220,556(1996).iv上野剛渡、東京大学博士論文(1999).
審査要旨

 本論文は、位相コヒーレント光散乱法の開発とその複雑流体の物性研究への応用について述べている。従来の動的光散乱測定で用いられてきた熱励起ゆらぎに代わり、位相の揃ったコヒーレントな運動モードを光で共鳴励起し、それからの光散乱を位相まで含めて検出することにより、従来法よりも優れたS/N、分解能、周波数帯域を持つ新しい測定法を開発した。また、この方法は光励起モードを分光しているため、従来法では実現不可能なモード選択的分光という特長を有する。この方法により、複雑流体の動的光散乱測定にモード選択測定という新たな道が開かれた。

 本論文の構成は以下の通りである。

 第1章の序に続き、第2章では研究の背景および目的について述べている。流体からの動的光散乱スペクトルであるRayleigh-Brillouinスペクトルは、10桁に及ぶ広い周波数帯域でS/N、分解能の高い測定技術を必要とすること、また、混在する様々なモードの選択的測定が重要であることなど、光散乱測定において解決すべき問題点が指摘されている。

 第3章では、新たに開発された位相コヒーレント光散乱法の原理について述べている。周波数の僅かに異なる2本のレーザー光を試料中で交差させると、交差部分に光の移動干渉縞が生成される。媒質の密度・温度などが、光電場の移動格子と結合することで、媒質にコヒーレントな運動モードが共鳴的に励起される。このモードから散乱された光を位相敏感検波することで、Rayleigh-Brillouinスペクトルが高S/N、高分解能の複素スペクトルとして観測できる。この方法では、従来法では不可能であったモードの選択的励起・分光が可能となる。

 第4章では、モードの光励起を理論的に考察している。スペクトルのモード選択性や複素分光などの特長を明らかにするとともに、散乱光の偏光面を回転させる異方性モードの光励起についても理論的な解析を行っている。

 第5章では単純流体からの位相コヒーレント光散乱スペクトルの測定を例に、実験系の詳細について述べている。音響モードであるBrillouin散乱測定系では、2台の周波数可変レーザを用いて、±10GHzの広帯域において、分解能1MHz以下という破格の性能を実現した。特に、液体二硫化炭素で観測された複素Brillouinスペクトルの中心周波数7.6GHzは、光ヘテロダイン法では現在世界最高周波数を誇る。拡散モードであるRay1eigh散乱測定系では、同一光源からの光の一部をAO変調器で周波数掃引することで、±1MHzの帯域で分解能1kHz以下の分光を可能にした。また、トルエンに微量の色素を混入して光の吸収を促すことで熱拡散モードの選択的励起が確認された。

 第6章では、位相コヒーレント光散乱法の大きな特長である、モード選択性を活かした物性研究について述べている。複雑流体のRayleigh線で重畳した複数のモードは、位相コヒーレント光散乱法では独立に励起・分光が可能である。そこで、2種の複雑流体系に対して、モード選択性を活かした物性研究を行なっている。初めに臨界溶液の熱拡散臨界挙動について述べている。臨界溶液では、拡散モードに熱拡散、濃度拡散の2つのモードが共存するが、臨界点近傍で濃度ゆらぎが発散的に増大するため、熱拡散スペクトルの臨界挙動の研究は従来法では不可能であったが、位相コヒーレント光散乱法により、強い濃度ゆらぎの影響下で熱拡散スペクトルの選択的測定に成功した。続いて液晶等方相の動的光散乱について述べている。この相では、熱拡散、配向緩和、音響モードの3種のスペクトルが重畳するが、位相コヒーレント光散乱法で、これら3つのモードの独立な測定に成功した。

 第7章では液晶マイクロエマルジョン系の透明ネマティック相転移について述べている。液晶、界面活性剤、水の3成分混合系は、等方相にある液晶が油の役割を果たして逆ミセルの分散を許す。これを液晶マイクロエマルジョン系と呼ぶ。この状態から温度を下げていくと、溶媒の液晶化とそれを阻害する逆ミセルとの相互作用から、新たな透明相(透明ネマティック相)が現れることが熱量測定から確認されている。位相コヒーレント光散乱による音速測定の結果から、相転移温度近傍で音速の温度依存性が変化し、透明ネマティック相転移の存在を示唆する実験結果が得られた。

 以上のとおり、本研究では全く新たな原理に基づく動的光散乱法を開発し、光散乱スペクトルを複素スペクトルとしてモード選択的に測定することに初めて成功した。また、この方法が様々な複雑流体のダイナミクスを研究する上で極めて有力な手法であることが示された。

 このように、本研究で得られた成果は、物理工学上非常に重要なものであると考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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