本論文は、位相コヒーレント光散乱法の開発とその複雑流体の物性研究への応用について述べている。従来の動的光散乱測定で用いられてきた熱励起ゆらぎに代わり、位相の揃ったコヒーレントな運動モードを光で共鳴励起し、それからの光散乱を位相まで含めて検出することにより、従来法よりも優れたS/N、分解能、周波数帯域を持つ新しい測定法を開発した。また、この方法は光励起モードを分光しているため、従来法では実現不可能なモード選択的分光という特長を有する。この方法により、複雑流体の動的光散乱測定にモード選択測定という新たな道が開かれた。 本論文の構成は以下の通りである。 第1章の序に続き、第2章では研究の背景および目的について述べている。流体からの動的光散乱スペクトルであるRayleigh-Brillouinスペクトルは、10桁に及ぶ広い周波数帯域でS/N、分解能の高い測定技術を必要とすること、また、混在する様々なモードの選択的測定が重要であることなど、光散乱測定において解決すべき問題点が指摘されている。 第3章では、新たに開発された位相コヒーレント光散乱法の原理について述べている。周波数の僅かに異なる2本のレーザー光を試料中で交差させると、交差部分に光の移動干渉縞が生成される。媒質の密度・温度などが、光電場の移動格子と結合することで、媒質にコヒーレントな運動モードが共鳴的に励起される。このモードから散乱された光を位相敏感検波することで、Rayleigh-Brillouinスペクトルが高S/N、高分解能の複素スペクトルとして観測できる。この方法では、従来法では不可能であったモードの選択的励起・分光が可能となる。 第4章では、モードの光励起を理論的に考察している。スペクトルのモード選択性や複素分光などの特長を明らかにするとともに、散乱光の偏光面を回転させる異方性モードの光励起についても理論的な解析を行っている。 第5章では単純流体からの位相コヒーレント光散乱スペクトルの測定を例に、実験系の詳細について述べている。音響モードであるBrillouin散乱測定系では、2台の周波数可変レーザを用いて、±10GHzの広帯域において、分解能1MHz以下という破格の性能を実現した。特に、液体二硫化炭素で観測された複素Brillouinスペクトルの中心周波数7.6GHzは、光ヘテロダイン法では現在世界最高周波数を誇る。拡散モードであるRay1eigh散乱測定系では、同一光源からの光の一部をAO変調器で周波数掃引することで、±1MHzの帯域で分解能1kHz以下の分光を可能にした。また、トルエンに微量の色素を混入して光の吸収を促すことで熱拡散モードの選択的励起が確認された。 第6章では、位相コヒーレント光散乱法の大きな特長である、モード選択性を活かした物性研究について述べている。複雑流体のRayleigh線で重畳した複数のモードは、位相コヒーレント光散乱法では独立に励起・分光が可能である。そこで、2種の複雑流体系に対して、モード選択性を活かした物性研究を行なっている。初めに臨界溶液の熱拡散臨界挙動について述べている。臨界溶液では、拡散モードに熱拡散、濃度拡散の2つのモードが共存するが、臨界点近傍で濃度ゆらぎが発散的に増大するため、熱拡散スペクトルの臨界挙動の研究は従来法では不可能であったが、位相コヒーレント光散乱法により、強い濃度ゆらぎの影響下で熱拡散スペクトルの選択的測定に成功した。続いて液晶等方相の動的光散乱について述べている。この相では、熱拡散、配向緩和、音響モードの3種のスペクトルが重畳するが、位相コヒーレント光散乱法で、これら3つのモードの独立な測定に成功した。 第7章では液晶マイクロエマルジョン系の透明ネマティック相転移について述べている。液晶、界面活性剤、水の3成分混合系は、等方相にある液晶が油の役割を果たして逆ミセルの分散を許す。これを液晶マイクロエマルジョン系と呼ぶ。この状態から温度を下げていくと、溶媒の液晶化とそれを阻害する逆ミセルとの相互作用から、新たな透明相(透明ネマティック相)が現れることが熱量測定から確認されている。位相コヒーレント光散乱による音速測定の結果から、相転移温度近傍で音速の温度依存性が変化し、透明ネマティック相転移の存在を示唆する実験結果が得られた。 以上のとおり、本研究では全く新たな原理に基づく動的光散乱法を開発し、光散乱スペクトルを複素スペクトルとしてモード選択的に測定することに初めて成功した。また、この方法が様々な複雑流体のダイナミクスを研究する上で極めて有力な手法であることが示された。 このように、本研究で得られた成果は、物理工学上非常に重要なものであると考えられる。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |