学位論文要旨



No 115169
著者(漢字) 長峯,祐子
著者(英字)
著者(カナ) ナガミネ,ユウコ
標題(和) 線状高分子電解質水溶液中のイオン揺らぎの研究
標題(洋)
報告番号 115169
報告番号 甲15169
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4664号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 伊藤,耕三
 東京大学 教授 早川,禮之助
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 講師 木村,康之
内容要旨

 高分子電解質は核酸やタンパク質に代表される物質で、モノマー単位ごとに解離基を有する高分子の総称である。高分子電解質は水溶液中で低分子イオン(カウンターイオン)を解離して、高分子イオンの形で存在している。この高分子イオンとカウンターイオンを含んだ水溶液を高分子電解質水溶液または高分子イオン水溶液という。高分子電解質の特徴的な性質は、高分子イオンとカウンターイオンとの電気的相互作用の結果として生じる。高分子電解質は生物学的に重要であるだけでなく、工業的にも様々な分野で利用されている。たとえば、最近注目を集めている分野としては、電気自動車に搭載される予定の燃料電池がある。電池内でイオンが移動する媒体として高分子電解質が使用されており、現在活発に研究開発が進められている。

 一方、特徴的な基礎的物性としては、高分子イオンへのカウンターイオンの凝縮現象が挙げられる。高分子イオン上の解離基間の距離があるしきい値を超えて短くなると、カウンターイオンの凝縮現象が起き、高分子イオンの周りにカウンターイオンが束縛されてbound counterionが生じる(図1)。このbound counterionが高分子イオン周りのクーロンポテンシャル中を揺らぐことによって大きな電気的揺らぎが生じる。このようなbound counterionの大きな電気的揺らぎは、巨視的には誘電緩和として観測される。線状高分子電解質水溶液系においては2つの誘電緩和(高周波緩和と低周波緩和)が現れることが知られており、誘電緩和法を用いて従来から盛んに研究が行なわれてきた。その結果、それぞれの緩和に寄与するbound counterionの揺らぎの分子的機構として、bound counterionの高分子に沿った揺らぎが低周波緩和に寄与し、垂直方向の揺らぎが高周波緩和に寄与するというモデルが提示された。ところが近年、別の測定法(流動複屈折法と電気複屈折法)を用いて緩和の機構を調べた実験結果から、全く逆のモデルが示された。このため高分子電解質水溶液系においては、緩和の分子的機構について現在相反する2つのモデルが存在している。本研究では、この問題に決着をつけ、高分子電解質水溶液系における誘電緩和の分子的機構すなわちイオン揺らぎの具体的描像を明らかにすることを目指している。

図1.高分子電解質水溶液におけるbound counterionの凝縮現象

 測定法には周波数域電気複屈折法を用いた。この測定法は、誘電緩和と等価な情報が得られるだけでなく、出力を光信号で得るために誘電緩和法で問題となる低周波域の直流導電率の影響を受けない点に特徴があり、低周波緩和の高精度測定を可能にする。また、この測定法にはイオン揺らぎの情報と同時に、高分子の回転緩和時間の情報も独立に得られるという利点がある。

 まず第1に、低周波緩和・高周波緩和のそれぞれに寄与するbound counterionの揺らぎの方向について調べるために、高分子イオンモノマー濃度と高分子長を様々に変えてそれぞれの緩和の緩和周波数を測定した。実験結果は、低周波緩和の緩和周波数fLは高分子長に強く依存するが高分子イオンモノマー濃度にはほとんど依存せず、逆に高周波緩和の緩和周波数fHは高分子長にほとんど依存せずに高分子イオンモノマー濃度に強く依存することが分かった。その結果、低周波緩和に寄与しているbound counterionは高分子イオン主軸方向に揺らいでおり、高周波緩和に寄与しているbound counterionは垂直な方向に揺らいでいることが明らかになった。また、fLの高分子長L依存性は、fL∝L-2.7となった。一般に、緩和周波数fはbound counterionの揺らぎの距離とbound counterionのモビリティーを用いて

 

 と書けるので、低周波緩和に寄与しているbound counterionの揺らぎの距離LはL程度と見なすことができる。

 次にそれぞれの緩和に寄与しているbound counterionが高分子イオン周りのどの位置に存在しているのかを調べるために、2種類のカウンターイオン(H+と(C4H9)4N+)を選び、カウンターイオンの総数Ntotalを一定にしたままその混合比のみを変えて、低周波・高周波緩和測定を行った。ここで使用した(C4H9)4N+は、H+の水和半径よりも大きい半径を持つ。このように半径が異なるカウンターイオンを混ぜた場合、小さいカウンターイオンの方がより高分子イオンに近づきやすいことが数値計算によって示されている。fLの測定結果は、図2に示すように、(C4H9)4N+の割合があるしきい値≡(C4H9)4H+/Ntotal≡0.6(:中和度)を超えるまで(C4H9)4N+/Ntotal比に依らない一定値を示した。この一定値はカウンターイオンがすべてH+の場合のfLに一致する。一方、しきい値以上に(C4H9)4N+の割合が増加するとfLは急激に増加した。これに対してfHは(C4H9)4N+の割合の増加とともに急激に減少し、=(C4H9)4N+/Ntotal0.5では一定値に落ち着き、カウンターイオンがすべて(C4H9)4N+の場合のfHに一致した。

図2.低周波緩和周波数fLと高周波緩和周波数fHの中和度依存性

 上記の結果は、(C4H9)4N+/Ntotal≡0.5の付近では、低周波緩和にはサイズの小さいカウンターイオン(H+)が寄与し、高周波緩和にはサイズの大きいカウンターイオン((C4H9)4N+)が寄与していることを示している。この低周波・高周波緩和のカウンターイオンの選択傾向と先ほどの理論予測をつき合わせると、低周波緩和には高分子イオンごく近傍に存在するtightly bound counterionの揺らぎが寄与し、高周波緩和には高分子イオンから比較的離れた位置に存在するloosely bound counterionの揺らぎが寄与していることが明らかになった。

 以上の2つの実験結果から、低周波・高周波緩和のそれぞれに寄与しているbound counterionの揺らぎの方向と高分子イオン周りの分布が明らかになり、高分子イオン水溶液中のイオン揺らぎの分子論的描像が確立した。すなわち、低周波緩和は高分子イオンごく近傍に存在するtightly bound counterionの高分子主軸方向への揺らぎに起因し、高周波緩和は高分子イオンから比較的離れたloosely bound counterionの高分子に垂直な方向の揺らぎに起因している。

 さらに、それぞれの緩和に寄与しているbound counterionがどのようなクーロンポテンシャルに束縛されているのかを調べるために、数種類のカウンターイオン(H+,K+,Na+,Li+,(C4H9)4N+)を選び、fLとfHを測定した.その結果、fHはカウンターイオン種固有の自由なカウンターイオンのモビリティー0に比例したが、fL0にほとんど依存しなかった(図3)。

図3.fLとfHo依存性

 式(1)から明らかなように、fH0という測定結果は、高周波緩和に寄与しているbound counterionのモビリティーH0に等しいことを示している。したがって、loosely bound counterionは緩やかなクーロンポテンシャルに束縛されている。一方、式(1)で〜Lとして低周波緩和に寄与しているbound counterionのモビリティ-Lを算出すると、L0よりも二桁程度小さいことがわかった。この理由としては、高分子イオンごく近傍のtightly bound counterionが高分子イオンに沿って揺らぐ際に、高分子イオン上に離散的に存在する解離基がつくるクーロンポテンシャルのアンジュレーションに大きく影響されてモビリティーが遅くなっているということが考えられる。L0に依存しないという測定結果も、このモデルを用いて説明できる。

 以上のように本研究では、高分子電解質水溶液系の低周波・高周波緩和の測定をイオン種を変えながら周波数域電気複屈折法を用いて行なった結果、高分子イオン周りに存在するbound counterionの揺らぎの方向、分布、束縛しているクーロンポテンシャルのプロファイルなどイオン揺らぎの分子論的描像に関する詳細な知見が得られた。

審査要旨

 高分子電解質は生物学的に重要であるだけでなく、工業的にも電気自動車の燃料電池など様々な分野で利用されている。高分子電解質は水溶液中で高分子イオンとカウンターイオンに分離し、この2種類のイオンを含んだ水溶液を高分子電解質水溶液と呼ぶ。高分子電解質水溶液の特徴的な性質としては、いずれも高分子イオンとカウンターイオンの電気的相互作用に起因する「高分子イオンへのカウンターイオンの凝縮現象」と「高分子イオンの大きな形態変化」が挙げられる。この両者については、これまで数多くの研究が行われてきたが、未だ不明の点も多い。特に、凝縮したカウンターイオンの揺らぎの機構に関しては、誘電緩和と電気複屈折のそれぞれの測定法から相反した解釈が提唱されており、決着がつかない状態になっている。そのため、本研究ではこの問題に決着をつけ、高分子電解質水溶液系における誘電緩和の分子的機構すなわちイオン揺らぎの具体的描像を明らかにすることを目指した。

 論文は、以下の6章から構成されている。

 第1章は序論であり、本研究の背景が述べられている。

 第2章では、本研究において使用した測定法と測定試料についての説明と、代表的な測定結果が示されている。測定法としては、主に周波数域電気複屈折法を用いた。この測定法は、誘電緩和と等価な情報が得られるだけでなく、出力を光信号で得るために誘電緩和法で問題となる低周波域の直流導電率の影響を受けない点に特徴があり、低周波緩和の高精度測定を可能にする。また、イオン揺らぎの情報と同時に、高分子の回転緩和周波数の情報も独立に得られるという利点を有している。

 第3章では、本研究の主な目的であるカウンターイオン揺らぎの分子的機構に関する研究結果を報告している。ここでは4種類の実験が行なわれ、高分子電解質水溶液に生じる2つの誘電緩和(低周波緩和・高周波緩和)にそれぞれ寄与しているbound counterionの、揺らぎの方向、分布及びそれぞれのbound counterionが感じているクーロンポテンシャルについての情報が得られ、カウンターイオン揺らぎの詳細な分子的機構が初めて明らかになった。そのうち、bound counterionの揺らぎの方向に関しては、従来の誘電緩和測定で得られたモデルと一致する結論が得られた。

 第4章においては、第3章で得た結果を踏まえた、高分子イオン周りにおける水和に関する研究結果を報告している。ここでは、水和半径の等しい2種類のカウンターイオン種、H+とNa+を混合して低周波・高周波緩和を測定し、その結果Na+が高分子イオン周りの水和層に入り込めないのに対し、H+は独自の伝導機構であるプロトンジャンプを利用して高分子イオンの水和層に進入し高分子イオンに近接できると結論づけている。

 第5章では、高分子電解質水溶液系のもう一つの特徴的性質である高分子イオンの形態変化に関する研究結果が報告されている。ここではカウンターイオン種を変えながら高分子イオンの回転緩和周波数を測定し、特にカウンターイオン種がH+の場合、他のイオンに比べて回転緩和が顕著に遅くなることが明らかになった。また、この高分子イオンの回転緩和周波数が、高分子イオンごく近傍のカウンターイオン種に敏感であることを導き出している。

 第6章は本論文の結論である。

 以上のように本研究では、線状高分子電解質水溶液における特徴的な性質、すなわちカウンターイオン揺らぎ、高分子イオン形態、および高分子イオン周りの水和に関する詳細な知見が得られた。これらの知見は、高分子電解質水溶液系における基礎・応用両面の今後の研究の進展に大いに貢献することが期待される。

 よって本論文を博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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