学位論文要旨



No 115170
著者(漢字) 原田,慈久
著者(英字)
著者(カナ) ハラダ,ヨシヒサ
標題(和) 軽い遷移金属化合物及びNa化合物による偏光軟X線共鳴ラマン散乱の研究
標題(洋)
報告番号 115170
報告番号 甲15170
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4665号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 辛,埴
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 渡部,俊太郎
 東京大学 教授 長澤,信方
 東京大学 教授 小谷,章雄
 東京大学 助教授 末元,徹
内容要旨

 軟X線発光分光は、数eVから1500eV程度のエネルギーを持つ軟X線を物質に照射した際に、放射される軟X線を検出して、そこから物質の電子状態についての情報を引き出すものである。近年、軟X線発光分光の研究は、理論、実験ともに非常に盛んになっている。これは、強力な連続スペクトル光源としてシンクロトロン放射光(SR)が利用されるようになり、高輝度で著しい偏光特性を持った軟X線が得られるようになったからである。さらにSRは、自由に入射光のエネルギーを選べるために、共鳴効果を利用した実験が可能である。光源だけでなく、分光装置の技術も飛躍的に進歩してきており、軟X線発光分光法は物性研究の新しい手法として注目されている。

 本研究では、まず高分解能の軟X線発光実験を行うこと、及び入射光の直線偏光特性を利用した偏光依存型実験を行うことを目的とした装置開発を行った。次にこの装置を用いて、軽い遷移金属化合物の金属2p内殼励起による偏光軟X線共鳴ラマン散乱の実験を行い、終状態で生成される電荷移動型(CT型)電子励起及びd-d型電子励起の偏光依存性について考察した。また、軟X線発光分光の新しい応用として、Na化合物のNa2p-1s内殼遷移を利用した吸収端近傍励起による軟X線共鳴ラマン散乱スペクトル(SX-RRS)が、Na1s吸収スペクトルと類似の情報を与えることを示した。このスペクトルは内殼正孔の寿命幅を持たないために、寿命幅のほぼ無視できる内殻吸収に相当する情報を与える。

 第1章では、光電子分光、軟X線吸収分光及び軟X線発光分光についての概略をまとめ、本研究で用いた軟X線発光分光の理論について、バンド電子描像及び局在電子描像による取り扱いの2つを取り上げて解説し、それぞれの手法の接点となる中間的な取り扱いについても触れた。また電子状態だけでなく、発光プロセスの違いによる蛍光とラマン散乱の分離過程についても中間状態の緩和という観点から考察を述べた。次に軟X線発光の特徴的な実験例をいくつか示した。

 第2章では、本研究に必要となる実験装置の解説を行った。まず放射光光源及びビームライン分光器について述べ、本研究で製作した偏光依存型の軟X線発光分光器について解説した。特に発光分光器の高分解能化のために工夫した点について詳細を述べ、達成した分解能を光線追跡による計算値と比較した。現在のところ、500eVで0.5eVを切る高分解能を達成している。これは現在の世界最高値である。

 図1は光の入射側から発光分光装置を見た概略図で、(a)で回転軸の左手に位置するのが発光分光器である。SRからの入射光は、水平方向にほぼ100%の偏光度を持つ直線偏光の光であるが、軟X線領域では適当な偏光素子がないため、偏光依存性を見るためには検出方向によって出射光の偏光ベクトルを選択する必要がある。そこで、入射光の偏光ベクトル方向から光を検出するdepolarized配置(図1(a))と、入射光の進行ベクトルと偏光ベクトルに垂直な方向から光を検出するpolarized配置(図1(b))の二つの配置で測定を行う。depolarized配置では入射光の偏光を保存しない発光成分のみが観測され、polarized配置では偏光を保存しない成分と保存する成分が1:1に混ざった光が観測される。これらの2つの光学配置を併用することで偏光軟X線ラマン散乱の測定が可能となる。

 第3章では、3dn系化合物(n=0,1,2,3)及びNa化合物についての軟X線共鳴ラマン散乱の測定結果を示した。

 3.1節では、特に始状態で形式的にd電子を含まない3d0系化合物(CaO,ScX3(X=F,Br,Cl,I),TiO2,V2O5,KMnO4)について、軟X線ラマン散乱の測定を行った。3d0系化合物では価電子励起がCT型電子励起になる。そこで、遷移元素依存性、偏光依存性、配位子依存性という3つの観点から軟X線ラマン散乱を詳細に観測し、CT型電子励起の特徴的な変化や、蛍光とラマン散乱の現れ方を、電子状態と結びつけて考察した。

 図2は(a)全発光収量法(TPY)によるCaOのCa2p内殼の吸収スペクトル及び(b)スペクトル上に示した各エネルギーで励起した発光スペクトルを示す。347eV以上に見られる細く鋭いピークは弾性散乱である。それより低い発光エネルギーを持つ構造は2種類の励起光依存性を示す。スペクトルh以上で見られる構造は、励起エネルギーによらず一定のピークエネルギーを持つため一般に蛍光成分と呼ばれ、スペクトルg以下で励起した場合に見られる構造は、励起光依存性を持つため軟X線ラマン散乱成分と呼ばれる。さらに軟X線ラマン散乱の振る舞いは2種類に分かれる。吸収端以下の励起では、ピークが励起エネルギーに追随する非常にエネルギー幅の広い成分が見られ、吸収端以上の励起では、入射光と反対方向にピークがシフトしてゆく成分が現れる。この振る舞いは図2(c)に示すように、直接型ギャップを持つバンド物質における軟X線ラマン散乱として説明できる。共鳴励起の場合、運動量保存則によって励起電子と終状態で残される価電子帯正孔の運動量がほぼ等しくなるため、励起エネルギーを上げてゆくに従ってラマン散乱の発光エネルギーは逆に減少してゆく。また、非共鳴励起場合、内殼正孔の運動量を指定できないために、あらゆる運動量で価電子帯電子励起が起こる。直接型ギャップではこの電子励起のエネルギーが様々な値を取るために、その総和としてのラマン散乱は価電子帯と伝導帯のバンド幅を足しあわせたような幅の広い構造となることが説明できる。このような例としては他にグラファイトの軟X線共鳴ラマン散乱があるが、CT型電子励起において観測されたのは初めてである。

 これに対し、Sc以降の3d0系遷移金属化合物による軟X線共鳴ラマン散乱は、CaOに見られたような連続的なラマンシフト量の変化を示さず、励起エネルギーからある一定量のエネルギーを損失したラマン散乱線が複数現れる。同じような性質が局在電子系のCeO2におけるCe3d励起の軟X線共鳴ラマン散乱でも見られるため、ここでは局在電子描像による3d0系のエネルギーダイアグラムによる説明を試みる。配置間相互作用を考慮した最低次の近似として3d0と3d1L-1の2配置のみを基底として取ると、終状態で結合状態に遷移する弾性散乱以外に非結合状態、反結合状態へ遷移する2種類の軟X線共鳴ラマン散乱が考えられる。

 図3は(a)TiO2の全電子収量法(TEY)によるTi2p内殼の吸収スペクトル及び(b)TiO2の偏光軟X線共鳴ラマン散乱スペクトルである。横軸はラマンシフト表示に書き直してある。ラマンシフトエネルギー5eV〜10eV付近に複数の構造が見られるが、これらはそのエネルギー位置から非結合状態に遷移する共鳴ラマン散乱であると解釈される。polarized配置の発光スペクトルでは、強い弾性散乱線と、14eV付近にdepolarized配置では見られなかった新しい構造が出現している。正八面体配位における軟X線共鳴ラマン散乱の偏光依存性に関する選択則は、レーザーラマン散乱でフォノンを取り扱う場合と同様に、対象とする系及び遷移演算子をOh点群の既約表現で表すことによって導かれる。この場合の光励起による対称性選択則は図3(c)のようになる。特に終状態で始状態と同じA1gの対称性を持つ電子状態はpolarized配置でのみ選ばれる。このことから、polarized配置でのみ観測された14eV付近の構造は反結合終状態へ遷移する共鳴ラマン散乱であると結論できる。このような構造はバンド電子描像では説明できない。

 一方、Sc化合物を用いて非金属元素をF、O、Cl、Br、Iへと代える方法でも実験を行い、金属元素を代えた場合と同様の効果が、主にラマンシフトエネルギーの変化として現れることがわかった。また、蛍光の立ち上がり位置に配位子依存性が見られ、これは吸収スペクトルの立ち上がり(内殻励起子を作る)から連続帯励起までのエネルギー差の違いとして説明した。この他、TiO2を例に非結合終状態に遷移する軟X線共鳴ラマン散乱の偏光依存性を考察した。またScF3を例に、同時に2つのCT型電子励起を伴うようなラマン散乱についても考察を行った。

 3.2節では、始状態で形式的にd電子が存在する系について軟X線共鳴ラマン散乱の測定を行った。その結果、3d1系のTiF3ではT2g対称→Eg対称のd-d型励起を観測し、吸収のEgピークの励起で僅かな偏光依存性が確認された。3d2系のVF3とV2O3では2本のd-d型励起を観測したが、2つの試料では異なった励起エネルギー依存性及び偏光依存性を示した。VF3では強い弾性散乱と2本のd-d型励起による軟X線ラマン散乱を観測したが、これらは田辺-菅野のダイアグラム及び対称性選択則でほぼ説明できた。これに対し、V2O3のd-d型励起では、全ての励起エネルギーでpolarized配置でのみ強く共鳴する低エネルギー側の構造と、ほとんど強度と偏光依存性を持たない高エネルギー側の構造に分かれた。この違いは、V2O3がOh対称から歪んだ結晶構造をもつために、TiO2と同様に始状態と終状態でA1g対称性を持つ構造が生じた結果であることがわかった。

 3.3節では、NaF及びNaClを用いた内殻-内殼遷移による軟X線ラマン散乱を測定し、ラマン散乱スペクトルが吸収スペクトルと類似の情報を与えることを示した。この方法は、X線領域において内殼吸収端付近で励起エネルギーを変えて、一定の発光エネルギーの強度を観測することにより、内殻寿命幅の影響を受けない吸収スペクトルを得るHamalainenらの手法と類似したものである。図4にTPYによるNaClのNa1s内殼の吸収スペクトル、及びNa1s吸収端より10eV下で励起した際のNa2p->1s遷移の軟X線ラマン散乱スペクトル(SX-RRS)を並べてある。この過程では、終状態でp対称の励起電子とNa2p内殼正孔が残されるが、Na2pは幅の狭い準位であるために、ラマン散乱スペクトルがNa1s吸収スペクトルを反転させたような形になる。ラマン散乱の終状態ではNa2p正孔で決まる幅の狭い寿命幅を持ったスペクトルが得られるため、さらに高分解能の発光分光装置を用いれば、今後この手法で内殻寿命幅よりも狭い分解幅の吸収測定が可能となるであろう。

図表図1.偏光軟X線発光分光器の分光器回転図 / 図2.CaOにおける(a)Ca2p吸収及び(b)発光スペクトル(c)直接ギャップ型物質の軟X線共鳴ラマン散乱 / 図3.TiO2における(a)Ti2p吸収及び(b)偏光依存型発光スペクトル(c)Oh点群による3d0系遷移金属化合物の選択則 / 図4.NaClにおける吸収端以下10eV励起の軟X線ラマン散乱スペクトル(実線)及び総発光収量スペクトル(TPY;点線)。TPYはSX-RRSと等価にするためNa1s内殻の寿命幅に等しいLorenzianで強度補正してある。

 最後に第4章では本研究で得られた結果をまとめ、今後の課題を挙げた。

 本研究は、これまでラマンシフトエネルギーのみに着目していた軟X線ラマン散乱に偏光依存性を取り入れることによって、詳細な価電子帯電子励起の性質を実験的に明らかにした。今後さらなる発光装置の高分解能化と実験の簡便化によって軟X線ラマン散乱をより効率よく検知するシステム作りが望まれる。

審査要旨

 軟X線領域の分光法は物質の電子状態を観測するのに適した分光法であることはこれまで知られてきた。近年、レーザー並の輝度を持つ軟X線光源が実用化され、レーザー分光で用いられる分光技術を用いて、この波長領域でラマン分光を行おうという試みが、ここ数年、アメリカ及びスエーデン、日本等で行われ始めている。

 本研究の第一の目的は、まず、日本において初めてラマン散乱の偏光依存性が測定できるような装置を作成することにある。次に、この装置を用いて、軟X線ラマン散乱が従来の軟X線分光と比べてどのような特徴を持っているかを明らかにすることである。提出者は遷移金属化合物及び、Ca化合物(原子番号が遷移金属の隣)、Na化合物を試料とした軟X線ラマン散乱の研究を進めることによって、この目的を明らかにした。

 第1章では、軟X線分光のうち、光電子分光、吸収、発光について、一般的な解説を行った。次に、軟X線発光分光の解析に用いられている理論として、バンド描像及び局在電子描像について解説した。また、発光プロセスの違いによる蛍光とラマン散乱の分離過程についても中間状態の緩和という観点から考察を述べた。更に、これまで行われた軟X線発光の特徴的な実験例をいくつか示した。

 第2章では、作製した実験装置について述べている。高分解能を得ると同時に、偏光依存性を調べるためのdepolarized配置とpolarized配置を持つことができる装置を作製した。発光分光器の高分解能化のために調整で工夫した点について詳細を述べた。また、達成した分解能を光線追跡による計算値と比較した。現在のところ、分解能1000を達成しており、光線解析通りの結果をほぼ得ていることを示した。第三世代光源であるALSで測定した結果と本研究の結果を比較し、本研究の方が分解能が上がっており、世界最高値を得ていることを明らかにした。

 第3章では、3dn系化合物(n=0,1,2,3)及びNa化合物についての軟X線共鳴ラマン散乱の測定結果とその考察について議論されている。3.1節では、d電子を含まない3d0系化合物について、軟X線ラマン散乱の共鳴効果の観測を行った。まず、CaOに関しては直接ギャップ型のバンド描像で解析できることを示した。スペクトルの変化は共鳴及び非共鳴効果についてバンド描像に基づいた南・那須理論でよく解析できることを示した。一方、TiO2については、共鳴効果が局在電子描像でよく説明できることを示し、バンド描像の立場での考察も行った。TiO2において偏光依存性を測定し、polarized配置でのみ14eVのラマン構造が観測できることを発見した。偏光依存性について、群論による解析を行い、14eVに観測される構造はA1g電荷移動遷移構造であることを明らかにした。この構造は、局在描像でしか説明できないことを示した。更に、ScX3,V2O5,KMnO4等の一連のd0系の化合物のラマン散乱について、元素依存性を示し、次第に局在電子描像からバンド描像的になっていることを示した。次に、ScX3(X=F,Br,Cl,I)で配位子依存性の測定結果を示し、ラマン散乱が局在電子描像にもとづいた電荷移動遷移であることを明らかにした。

 3.2節では、始状態で形式的にd電子が存在する系について軟X線共鳴ラマン散乱の測定を行った。3d1系のTiF3ではT2gからEgに遷移するd-d型励起を観測し、3d2系のVF3では田辺菅野のダイアグラムで説明されるd-d型励起を観測した。同じ3d2系のV2O3では、Oh対称からのずれによるVF3とは全く異なったd-d型励起の偏光依存性を観測した。

 3.3節では、NaF及びNaClを用いた内殻-内殻遷移の軟X線ラマン散乱による実験結果を示した。吸収端から10eV程度下で励起した場合のNa2pから1sに遷移する軟X線ラマン散乱スペクトルは、1s吸収スペクトルを反転させたものと構造が一致した。高分解能の発光分光装置を用いれば、この手法は内殻寿命幅よりも狭い分解幅の吸収測定ができる有力な分光法になることを明らかにした。

 最後に第4章では本研究で得られた結果をまとめ、今後の課題を挙げた。

 以上、本研究は高分解能のみならず、軟X線ラマン散乱に偏光依存性を取り入れることによって、詳細な価電子帯電子励起の性質を実験的に明らかにしており、物性物理学の発展に寄与するところが極めて大きいものと考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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