学位論文要旨



No 115172
著者(漢字) 馬込,保
著者(英字)
著者(カナ) マゴメ,タモツ
標題(和) 多光子共鳴イオン化昇温脱離法による水素分子のオルソ・パラ転換過程の研究
標題(洋)
報告番号 115172
報告番号 甲15172
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4667号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 石本,英彦
 東京大学 助教授 福谷,克之
内容要旨

 水素分子と固体表面の動的相互作用を明らかにすることを目標として、物理吸着状態の水素分子の核スピン転換過程と吸着脱離過程における回転状態の寄与についての実験的研究を行った。水素分子の核スピン転換過程は、オルソ・パラ転換過程として知られており、多孔質アルミナを担体とするパラ転換触媒の研究が古くから行われてきた。近年、単結晶金属表面における水素のオルソ・パラ過程の研究が高分解能電子分光法で部分的に可能になったことにより、従来考えられてきた表面の磁気双極子との相互作用に加えて、高次の相互作用の存在が貴金属やグラファイト表面については予測されている。高分解能電子分光法によるオルソ・パラ転換過程の測定では、波動関数の反対称性の帰結である核スピンのオルソ・パラ状態と回転準位の隅奇性との対応を利用して、低速電子による吸着水素分子の回転励起の測定からパラ転換速度を求めているが、(1)熱平衡状態でのオルソ・パラ分布を直接的に測っていないこと、(2)測定時間が長時間に及ぶため速いパラ転換速度の測定が不可能であること、(3)広い圧力領域での測定が不可能であり、吸着の平均滞在時間とパラ転換時間の競合を測定することができない等の欠点があり、理論的な予測と対比できるような実験データはこれまでほとんど得られていない。

 本研究では、水素分子のオルソ・パラ転換過程と吸着脱離過程における回転量子数J依存性についての実験的研究を行う手法として「多光子共鳴イオン化昇温脱離法」を開発し、この方法を活性アルミナ表面における水素分子の吸着過程の測定に適用した。多光子共鳴イオン化昇温脱離法とは、従来から表面での分子吸着過程の研究に広く適用されてきた昇温脱離法と多光子共鳴イオン化法による脱離分子の状態弁別検出法(Resonance-Enhanced Multi-Photon Ionization:REMPI)を組み合わせたものである。本研究では、E,F←X(2+1)REMPIを採用した。今回の研究では、水素分子の回転状態の弁別を目的としてREMPIを行ったため、回転状態弁別型昇温脱離法(Rotational-state-selective thermal desorption spectroscopy:RSS-TDS)と名付けた。

 水素分子のREMPIに必要な201nm程度の波長の光は、以下のようにして発生させた。まず10HzのNd:YAGレーザー励起の色素レーザー(Rhodamin640)の出力(波長〜603nm)から第1のBBO結晶を用いて第2高調波を発生させた。次にデュアル波長板で、第2高調波の偏光面を90゜回転させ、基本波の偏光面と合わせた後、第2のBBO結晶を用いて和周波(波長〜201nm)を発生させた、最後に、この紫外光をペランブロカプリズムで基本波、第2高調波から選別した。光の最大強度は90J/pulseであった。

 REMPI法による水素分子の検出方法を評価するため、既知の圧力の水素ガスを試料としてイオン化収率の測定を行った。励起光の波長を201.70nmから202.45nmまで変化させて、イオン信号強度の変化を測定した。イオン化スペクトルには4つのピークが存在し、計算値との比較から、それぞれJ=0,1,2,そして3のピークと同定された。J=1を励起する201.84nmの光について、光強度の3乗に比例してイオン信号強度が変化することを明らかにし、3光子吸収によるE,F←X(2+1)REMPIが行われていることを確認した。次に、ピークの高さから回転状態分布を算出した。回転状態分布は、誤差1%で熱平衡分布と一致した。さらに201.84nmの光でイオン信号強度が圧力に比例することを確認し、測定の下限は10-6Paであった。

 実験は活性アルミナ上での物理吸着水素分子の系を対象として行った。ガスクロマトグラフィーの実験によれば、活性アルミナへの物理吸着を利用して、オルソ水素とパラ水素が分離することが報告されている。これらの実験はオルソ水素がパラ水素より平均滞在時間が長いという結果を示しているが、微視的機構はまだ良くわかっていない。吸着媒として使用した活性アルミナ(-Al2O3)は、多孔質の粒状で、各粒の直径は0.44mm、全体の重量は0.2204g、全表面積は57.6m2、化学組成は99.7%がAl2O3であり、非揮発性不純物がFe2O3:0.02%、SiO2:0.02%、Na2O:0.26%であった。また窒素分子のDH法で細孔分布を計算したところ、入り口の半径は1.74nmの細孔が最も多いが、内部の細孔半径は1nmから5nmの範囲に分布していた。この活性アルミナを銅製の容器内に収納し、試料表面が検出器を向くようにして、ヘリウム圧縮冷凍器先端に接続した。試料の最低到達温度は16Kであった。容器の口の前10mmにレーザー光を収束し、脱離してくる水素分子をイオン化した。水素分子イオンは、引き込み電極で加速した後、二次電子増倍板で電流信号として検出した。電流値はオシロスコープで積算したあと、メモリーに蓄積した。

 活性アルミナの前処理として、10-5Paの雰囲気圧力で250℃に10時間加熱して脱ガスを行った。図1に示したのは、16Kから60Kまでの間で水素分子の曝露量を変えてRSS-TDSを測定した結果である。

図1 活性アルミナからの脱離水素分子の曝露量依存性太実線:3600L、破線:1800L、点線:900L J=0の細実線は、太実線のピークを二つに分離したもの。

 得られたスペクトルからは以下の3つの知見が得られた。第1はJ=0には二つピークがあり、J=1は1つのピークが見られたことである。それぞれの脱離エネルギーは、55.2±0.7meV、98.3±2.5meV、そして104±4.5meVであった。

 第2は、J=0のスペクトルにおいて、曝露量が小さい間は、脱離エネルギーが低いにもかかわらず、低温側のピークが支配的であることであった。第3はピーク高さの曝露量依存性であり、曝露量の増加した場合、J=0低温側のピークは飽和するが、高温側のピーク、およびJ=1のピークは増加したことであった(図2)。

図2 TDS Peakの曝露量依存性

 J=1のピークとJ=0の高温側のピークについて、それらのピーク温度が近いため、これらが同じB siteに起因し、J=0の低温側のピークは別のA siteに起因すると仮定した。この仮定に基づくと、次のように結果を言い換えることができる。A siteはB siteよりも脱離エネルギーが低いが、それにもかかわらず、A siteのほうが曝露量の小さい間は優先的に占有される。そしてB siteはA siteよりも数が多い。

 以上の観測結果を説明するために以下のモデルを提唱した。A siteは活性アルミナの粒の表面にあり、B siteは細孔内部の表面にある。飛来した水素分子は、先にA siteを発見するため、脱離エネルギーの低いA siteに吸着する。曝露量を増やすとA siteが飽和し、B siteへの吸着が始まる。B siteは細孔内部の表面にあるため、サイト数がA siteに比べて多い。

 A siteが飽和した場合の全site数は1.8×1016個であった。これは飽和した場合の全脱離分子数は4×1015個と近く、A siteの水素分子が粒表面についていることを示している。また、非多孔質のアルミナ表面での水素分子の脱離エネルギーが50meVと計算されている。これは、今回測定したA siteの脱離エネルギー55.2±0.7meVと近く、A siteが粒表面上にあることを裏付けるものである。

 平均滞在時間が実験時間より十分長いとの仮定から、各siteにおけるオルソ・パラ転換速度を算出した。A siteでより早いオルソ・パラ転換が生じていた。転換時間はAサイトでは8min以下であり、Bサイトでは33±1.5minであった。

 本研究で得られた結果を、ガスクロマトグラフィーで得られた過去の結果と比較した。脱離エネルギーに関しては、ガスクロマトグラフィーは60.73meV(J=0)、67.23meV(J=1)であり、本研究の結果と傾向は一致するものの数値は異なる。この不一致の原因としては、アルミナの温度の不均一性(これのみだと12K高い必要がある)、および排気速度の有限性などが考えられる。

 多孔質活性アルミナについて得られた吸着siteの差異をより物理的に明らかにするためには、単結晶アルミナ表面での比較実験が必要である。その目的でRSS-TDS測定の試料として用いるための単結晶アルミナ表面の作成と評価に関する研究を行った。基盤として用いたのはNiAl(110)であり、清浄表面をまず作製した後、550Kで、6×10-4Paの酸素雰囲気中で酸化して-alumina(0001)を作製した。作製したアルミナ表面をLEEDで観察し、シャープなLEED像を確認した。

 本研究の成果をまとめると次のとおりである。

 1)RSS-TDSを開発し、表面単分子層の研究に適用できることを実証した。

 2)多孔質の活性アルミナにおいて水素分子の物理吸着siteが2種類あることを見出した。被覆率依存性と脱離エネルギーの差異を解釈するために、二つの吸着siteを表面siteと細孔内部siteに対応付けたモデルを提案した。

 3)脱離エネルギーは、粒表面のsiteにおいては、J=0に関して55.2±0.7meVであった。細孔内部のsiteにおいては、J=0に関しては98.3±2.5meV、J=1に関しては104±4.5meVであった。

 4)オルソ・パラ転換時間は、表面siteでは8min以下、細孔内部のsiteでは33±1.5minであった。

審査要旨

 固体表面における分子の物理吸着状態は、ファンデルワールス相互作用をベースとする弱い相互作用により特徴づけられる.近年、物理吸着分子の表面における動的な相互作用の存在が示唆される実験結果が報じられることにより、基盤との相互作用が強い化学吸着系においては隠されてしまうような分子と表面の高次の相互作用を、物理吸着系によって解明することが期待されるようになっている.本研究は、このような視点でなされた物理吸着水素分子の吸着過程における回転量子数依存性と核スピン転換過程についての実験的研究の成果である.

 本論文は6章よりなる.

 第1章は序論であり、本研究に関連する従来の研究成果の概説と本研究の特徴が述べられている.

 第2章では、今回の研究のテーマである物理吸着水素分子のオルソ・パラ転換と脱離エネルギーの回転量子数依存性の詳細な測定において、回転準位計測が有用であることを論じており、次章で論じている本研究で採用した多光子共鳴イオン化法の裏付けとなる物理的な枠組みを概説している.

 第3章は、本研究の過程で開発された実験手法に関する記述である.著者は、物理吸着分子の脱離エネルギーとオルソ・パラ状態の計測に、昇温脱離法と多光子共鳴イオン化法を組み合わせた手法が有効であることに着目し、回転状態弁別型昇温脱離法(RSS-TDS)と名付けた実験方法の開発を行った.本方法では、表面から脱離する水素分子を多光子共鳴イオン化法により、回転状態を弁別して計測することにより、オルソ・パラ転換過程の研究に従来利用されてきた高分解能低速電子エネルギー損失分光に比べ、表面での平衡状態でのオルソ・パラ比の測定が可能であるという本質的利点に加え、検出感度と時間分解能の点でも有利であることを実験データを交えて論証している.

 第4章は本研究で開発した回転状態弁別型昇温脱離法による多孔質活性アルミナ表面に物理吸着した水素分子を対象とした実験の結果である.実験では、16Kに冷却された活性アルミナに吸着した水素分子の脱離スペクトルを回転状態毎に測定することに成功し、以下のような新しい知見を得た.

 (1)回転量子数J=0の水素分子は吸着エネルギーの異なる2つの吸着サイトを占有し、吸着エネルギーのより低いサイトから優先して吸着する.

 (2)J=1の水素分子の脱離スペクトルにおいて、J=0の脱離スペクトルにおいて見られた低エネルギー側ピークはほぼ消失し、このサイトにおいて顕著なオルソ・パラ転換がなされる.

 (3)J=0,1の高エネルギー側ピークに対応する脱離の活性化エネルギーはJ=0については98meV,J=1については104meVとなり、J=0の水素分子の脱離エネルギーがJ=1の水素分子よりも低い値となる.

 第5章は第4章で述べた実験結果に対する考察である、アルミナ上の水素分子の吸着過程とオルソ・パラ転換過程についての考察を行ない、次のようなモデルを提唱し、これにより実験結果の解釈が可能であることを論じている.モデルでは、活性アルミナ表面での水素分子の吸着サイトとして、アルミナ細粒表面と細孔内部を対応させ、吸着エネルギーとオルソ・パラ転換速度の差異が表面水酸基の残存密度により矛盾なく解釈できるとしている.また、オルソ・パラ転換速度に影響を及ぼす因子として、試料である活性アルミナに含まれる鉄酸化物の寄与を指摘している.回転量子数による脱離エネルギーの違いについては、活性アルミナ表面での水素分子の回転運動が,自由空間と異なる束縛回転状態にあることを指摘し、束縛回転モデルにより脱離の活性化エネルギーの差異が説明しうることを論じている.

 第6章は、結論と今後の展望であり、本研究のまとめと第5章で提唱したモデルの実証にむけての提案が要約されている.

 以上を要するに、本研究は、物理吸着水素分子の吸着過程における回転量子数依存性,オルソ・パラ転換速度の吸着サイト依存性を、新たに開発した回転状態弁別型昇温脱離法により明らかにしたものであり、表面物理に有意義な貢献をなしたものと評価できる.また、応用面においても、本研究の成果は低温表面を利用したクライオポンプの基礎過程として真空工学へ寄与する所も大きい.よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク