学位論文要旨



No 115173
著者(漢字) 宮田,正靖
著者(英字)
著者(カナ) ミヤタ,マサヤス
標題(和) 第一原理分子動力学法を用いた電子-イオン系の協調とその物性に関する研究
標題(洋)
報告番号 115173
報告番号 甲15173
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4668号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 助教授 伊藤,伸泰
 東京大学 助教授 初貝,安弘
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨 1.序論

 構造的欠陥を含む結晶、あるいは複雑な構造を含む液体というような物質群において、電子系とイオン(格子)系が複雑に協調して特徴的な物性を示す様々な現象が知られ、注目されている。

 これらの電子-イオン系の協調現象は、その本質が簡単なモデル化によって十分に説明できないため、定性的な理解を越えるためには電子とイオンをできるだけありのまま扱う手法、いわゆる第一原理的な手法が不可欠となる。

 有力な第一原理的手法の一つとして、第一原理分子動力学法がある。この方法は、電子系とイオン系の間に断熱近似をし、任意のイオン配置における電子の基底状態を計算して断熱ポテンシャルを求めて、そのポテンシャルによるイオン系の運動をシミュレートするものである。この手法によってイオン配置と電子状態の時間変化の情報が同時に計算できるため、電子系とイオン系の動的な相関を詳細に議論することができる。

 本研究の目的は、

 (1)実際の系に適用するために手法の拡張・改良をした第一原理分子動力学法の計算コードを開発すること

 (2)電子-イオン系の協調現象が本質的であると思われるいくつかの系について、第一原理分子動力学法を用いた研究を行うことである。

2.第一原理分子動力学法の計算コード開発と性能の向上

 本研究では、まず基本的な定式化から始めて、格子系の温度を一定にする方法や、任意の形状の格子のシミュレーションが行えるように手法を拡張した。

 第一原理分子動力学法では、{}内の変数を変分パラメタとして以下の汎関数を最小化する。

 F=F[{},{f},{R}]

 ここで、{}はKohn-Shamの1電子波動関数、{f}は非整数の占有数、{R}はイオンの位置である。

 密度汎関数理論によって、Fを最小化する{}、{f}が求まれば、それが基底状態のエネルギーを与えることが保証される。

 基底状態のエネルギーにイオン間の静電エネルギーを加えたものは、{R}にある粒子系の断熱ポテンシャルと見なせるので、これを使ってイオンに働く力を計算することができる。任意の形状の格子では、エネルギー・力の表式があらわに格子に依存する形に書き直す必要がある。尚、占有数を非整数にすることで、この定式化は、エネルギーギャップが無い系に対しても適用できる形になっている。

 構造最適化を行う時は、力の方向にイオンを動かして、さらに{R}についてFを最小化する。また、動力学を行う場合には、力をイオンの運動方程式に代入し、次の時間における{R}を計算する。

 温度一定の分子動力学を行う際には、熱浴を運動変数として定義して、運動方程式はイオンと熱浴の間の非線形な連立2階微分方程式となる。運動方程式は、Verlet法により差分化する。この方法は簡便であるにも関わらず、中心差分のために離散化の誤差が二次であるという長所をもつ。熱浴の運動方程式は非線形な連立2階微分方程式であるため、差分化の際には一次の誤差成分が相殺するように注意深く定式化する必要があることが分かった。

 また、電子系の断熱ポテンシャルの評価に附随した計算誤差が蓄積されることが分かった。これは電子の基底状態への収束を従来の様にエネルギー汎関数の値の収束のみで判定している場合、鞍点の位置で収束を誤判定してしまうことがあるためである。セルフコンシステントな解の確認として、波動関数から定義される残差ベクトルを判定条件として採用すれば、この問題を回避できることが分かった。

 また、第一原理分子動力学法は一般に非常に多くの計算量を必要とするため、実際のシミュレーションが十分可能な範囲まで計算を高速化するアルゴリズムの開発を行った。具体的には線形外挿法により良い波動関数の初期値を与えること、波動関数の前処理、入・出力の電子密度の混合により収束性を高めた他、最も時間がかかるフーリエ変換の部分を最適化したアルゴリズムにすることで、工夫しない場合に比べ、理論上の計算時間を1/100に抑えることができた。

3.-NaSnの一定温度シミュレーション

 二元合金Na4(Sn4)は、高温固体相(相、757-854K)において温度と共に電気伝導率が半導体的(約5-1cm-1から金属的(約2000-1cm-1)な値まで急激に変化するという特異な物性を示す。

 低温固体相(相、0-757K)は半導体で、Sn原子は正四面体構造をしている多価イオンクラスタ(Sn4)4-として存在し、Na+とイオン結晶的構造をとる。エネルギーギャップは、この構造と(Sn4)4-内の結合-反結合ギャップによって決まっている。尚、相より高温ではNa4(Sn4)は融けて液体金属になる。-相転移におけるエンタルピー変化が大きいこと、相ではNaのBraggビークが広がることから、イオンが動的に乱れている構造が実験から示唆されている。

 本研究では温度一定の第一原理分子動力学法でNaSnの相を実現し、以下の知見を得た。

 (1)(Sn4)4-が作る部分格子は構造を保ったまま、Na+イオンは拡散する。Na+の拡散に伴って、(Sn4)4-は大きく対称性を変化させる。

 (2)協調的なNa+イオンの拡散と(Sn4)4-クラスタの変形は、(Sn4)4-の変形に対応して相のエネルギーギャップを閉じたり開いたりする。エネルギーギャップが消失する際、最高占有軌道の波動関数の特徴は(Sn4)4-クラスタ上で結合的なものから非結合的なものへと変化する。

 実際のバルクな系においては、エネルギーギャップは(2)の様には振舞わないであろう。しかし、平均自由行程の程度の範囲で、電子状態の変化が局所的なイオンダイナミクスと強く結合しているため、バルク系の平均的なエネルギーギャップは通常の半導体よりも系の温度に敏感になることが予想できる。実験的に観測されていた-NaSnの電気伝導率の急激な温度依存性は、上記の物理的描像によって初めて理解できる。

4.半導体結晶(Si,GaAs)の剪断変形シミュレーション

 半導体結晶の塑性の微視的理解は、応用上重要であるにも関わらず、精密な研究が困難である。その理由は、実験的には低温で脆性破壊をしやすく実験データが得にくいため、理論的には結合が強いため線形弾性論に基づく近似的扱いが有効でなくなるからである。

 最近、高圧下で低温の塑性変形の実験が可能になり、半導体結晶の降伏応力の温度依存性が共通の振る舞いをすることが示唆されている。また、Si、GaAsにおいては温度がOKに近付くにつれ降伏応力が1GPa以上の値に発散してしまうが、この理由は明らかでない。

 Siの塑性的性質については、第一原理からいくつかの研究がなされている。通常、塑性的な性質は、すべり面上に連続的な転位が分布しているとするPeierls-Nabarro(PN)のモデルに基づいて理論的に評価される。転位分布は、温度OKにおいてすべり面上下の半結晶の位置をずらして格子緩和を行った後のエネルギープロファイル、一般化積層欠陥(GSF)エネルギー(f)の形状から導かれる。

 本研究では、共有結合性結晶の塑性の微視的な理解を目的として、第一原理分動力学法を用いてSi、GaAs結晶の剪断変形シミュレーションを行い、以下の知見を得た。

 (1)Si、GaAsのGSFエネルギー(f)は、格子緩和の前後で正弦関数的な形状から、中央のピーク前後で2つに分離したものへと変化する。(f)がこのような形状になると、すべり面上のずれは不連続となり、かつ上下の格子の変形による弾性エネルギーが(f)に入ってくるため、従来のPNのモデルによる扱いは適用できなくなる。

 (2)(f)のピーク値は、結晶内での転位の生成エネルギーとみなされ、結晶の脆性を示すパラメタとなる。SiとGaAsの(f)のピーク値の比と、LCAOで定義される共有結合性の比はよく一致することから、共有結合性結晶の脆性は共有結合性に比例することが分かる。

 (3)すベリ面間の変位の関数として、電子の固有エネルギー・電子密度を格子緩和前後で比較すると、エネルギーギャップ、ボンド電荷の有無から、格子緩和による変化は殆ど共有結合性ボンドの回復によるものであり、これが(f)を2つに分離する原因である。

 (f)が分離していることから、転位は芯領域において急激にボンドが交代し、そのため転位芯領域は金属等と較べて非常に狭く、Peierls応力は非常に大きくなることが予測できる。Peierls応力は降伏応力のOKへの外挿値として定義されることから、実験で示唆されている半導体結晶のの振る舞いの共通性は(f)の分離、ひいてはボンド回復の復元力が大きいことと関係づけることができる。

 ボンドが回復する前の最高占有軌道(HOMO)と最低非占有軌道(LUMO)の形状において、Siではすべり面の両側にダングリングボンドが、GaAsではLUMOのAs原子上にのみダングリングボンドがみえることから、GaAsでは電荷の移動が起きていることが分かる。このようにGaAsではCoulmb力が結合の回復を助けるように働いてSiの結合の回復力との差が縮まり、ゆえに半導体結晶は共通に大きなPeierls応力を持つと予想される。

5.Si結晶中の転位の第一原理シミュレーション

 半導体結晶のGSFエネルギー(f)は不連続になり、従来のPeierls-Nabarroの枠組みで正確な転位の性質を導くことはできない。そのため、第一原理的に転位を導入し、実際に運動を起させる試みは重要である。

 第一原理分子動力学法を用いるためには、周期境界条件下での転位の配置を考えなくてはならない。また、転位を動かすようにしたときに、逆符号の転位は互いに逆方向に運動するために、転位間の距離が変わる。そのため、例えば転位が乗り越えるエネルギー障壁を求めるためには転位間の弾性的な相互作用によるエネルギー変化を考慮しなければならない。

 上記の考察を行った上で、らせん転位の安定構造を第一原理分子動力学法で求め、格子を変形に伴う転位のすべり運動を第一原理的にシミュレートすることができた。

6.まとめと今後の展望

 本研究では、まず、任意の形状の格子における温度一定の方法に拡張された、効率的な第一原理分子動力学法の計算コードを開発した。

 そして、これを用いて電子-イオン系の協調が本質的に重要な複数の現象について研究し、あらたな知見を得た。

 今後の課題は外部圧力に対する構造緩和のシミュレーションができるように計算コードを拡張して、より広い現象を扱えるようにすること、また、スピンの効果を取り入れて、磁気的な秩序についても扱えるようにすること等が挙げられる。

 尚、計算量の観点から、現在の扱える系の大きさ、原子種は限られている。

 物質へのより幅広い適用、定量的な研究のためには、擬ポテンシャルの改良や計算の並列化による計算の大規模化も重要な課題である。

審査要旨

 CarとParrinelloによる第一原理分子動力学法の提案以来、様々な物質の絶対零度あるいは有限温度における構造やダイナミックスの研究が進み多くの知見が蓄積されてきた。本論文は第一原理分子動力学法によらなくては知ることのできない事柄、あるいはこれこそ第一原理分子動力学法によって研究されるべきテーマであると論文提出者が考えたいくつかの問題、すなわち電子構造が原子の配置とともに変化し本質的な役割を果たすと考えられるいくつかの問題についての研究を、表題の論文題目のもとでまとめたものである。

 第1章は序論である。第2章では、第1原理分子動力学法のレビューと、高速化の為の詳細が述べられる。第3章では第1の問題である-NaSnの温度一定シュミレーションの結果が述べられている。第4章はSi,GaAsの剪断変形シミュレーションが、第5章ではSiのらせん転位に関する転位の運動のシミュレーションの詳細と結果が議論されている。第6章では全体のまとめと今後の展望について述べられている。さらに付録の章で変形のシミュレーションおよびカノニカル集団の分布について数学的な詳細を説明している。

 第1章序論では、電子構造と原子構造が強く相互作用した、簡単なモデル化によって十分に説明できない問題にこそ第1原理的分子動力学を適用すべきであるという論文提出者の立場が述べられ、さらにそれらの例として本論分で扱う3つのテーマがあると説明される。

 本研究の目的は(1)実際の系に適用するために手法の拡張・改良をした第一原理分子動力学法の計算コードを開発すること、(2)電子-イオン系の協調現象が本質的であると思われるいくつかの系について、第一原理分子動力学法を用いた研究を行うことである、と説明されている。

 第2章では第1原理分子動力学法が格子の変形まで許した場合の歪と応力の表式まで含めて詳しくレビューされている。さらに計算コード開発と性能の向上のための従来の手法について検討が加えられ、本研究で加えられた技術的な視点について述べられている。本研究における主たる計算手法の改良は、第1に運動方程式を解く際の誤差の蓄積を避ける方法、および電子系を断熱ポテンシャルに乗せる際の収束の吟味(残差ベクトルの評価)である。さらに個々の収束計算における加速の吟味を詳細に行い、従来の方法に比べて数10倍から約100倍の計算すピードを得ることを可能にした。

 第3章では-NaSnの一定温度シミュレーションについて述べている。2元合金Na4(Sn4)は、高温固体相(相、757-854K)において温度と共に電気伝導率が半導体的(約5-1cm-1)から金属的(約2000-1cm-1)な値まで急激に変化するという特異な物性を示す。本研究では温度一定の第一原理分子動力学法でNaSnの相を実現し、以下の知見を得た。

 (1)(Sn4)4-が作る部分格子は構造を保ったまま、Na+イオンは拡散する。Na+の拡散に伴って、(Sn4)4-は大きく対称性を変化させる。

 (2)NaSnのバンドギャップは(Sn4)4-クラスターのHOMO-LUMOギャップによる。協調的なNa+イオンの拡散と(Sn4)4-クラスタの変形は、(Sn4)4-の変形に対応して相のエネルギーギャップを閉じたり開いたりする。すなわちNa+イオンの拡散運動とカップルしてエネルギーギャップが動的に消滅し急激に伝導的になることが示された。

 第4章は半導体結晶(Si,GaAs)の剪断変形シミュレーションをとりあつかっている。半導体結晶の塑性の微視的理解は、応用上重要であるにも関わらず、精密な研究が困難である。その理由は、実験的には低温で脆性破壊をしやすく実験データが得にくいため、理論的には結合が強いため線形弾性論に基づく近似的扱いが有効でなくなるからである。この章ではSiおよびGaAs塑性的性質について、一般化積層欠陥エネルギーの計算結果を得た上でパイエルス・ナバロの方程式の結果を用いて解析している。実際のシミュレーションプロセスは、温度OKにおいてすべり面上下の半結晶の位置をずらして格子緩和を行った後のエネルギープロファイル、一般化積層欠陥(GSF)エネルギー(f)の形状を求める。しかし半導体結晶の90度らせん転位では転位芯の構造はダングリングボンドを持たない。そのため変形のプロセスで、転位は芯領域において急激にボンドを交代し、転位芯領域は金属等と較べて非常に狭く、パイエルス応力は非常に大きくなることが予測できる。

 第5章では4一般化積層欠陥を用いた解析によらず、Si結晶中の第一原理シミュレーションを用いてずれ変形により生じるらせん転位の運動を追っている。その結果をまとめると以下のとおりである。(1)すべりが起きた直後の転位芯構造は結合が弱く、構造緩和を起こす。(2)外部応力や転位間の弾性的な相互作用によって、転位芯の位置は結晶の周期性から決められる安定位置からはずれているがそれを定量的に決定するのは困難である。(3)格子に掛かる応力場を第一原理から求めることで、Siのらせん転位のパイエルス応力をモデルによらない方法で求められる。得られた塑性変形に関する物理定数の値は実験値との一致も満足のいくものである。

 第6章はまとめの章であり、以上の研究から電子構造と格子変形が直接強く相互作用する系についての研究に第一原理分子動力学手法が大変有効であること、また今後の方向性などが議論されている。

 以上を要約すると、本研究は第一原理分子動力学手法の高速化手法の確立に寄与するとともに、-NaSnの電気伝導の特異性の原因を明らかにしたこと、また半導体結晶のらせん転位の運動を直接シミュレーションによって取り扱い剪断変形に関する物理量を求めることが重要であることを示し具体的に実行してみることにより、その方法を確立した。これらにより本研究は物性物理学、物理工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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