学位論文要旨



No 115182
著者(漢字) 角,泰孝
著者(英字)
著者(カナ) スミ,ヤスタカ
標題(和) 電子遷移による核励起の確率評価
標題(洋) Probability of Nuclear Excitation by Electron Transition
報告番号 115182
報告番号 甲15182
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4677号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 中澤,正治
 東京大学 教授 寺井,隆幸
 東京大学 教授 吉田,善章
 東京大学 助教授 高橋,浩之
 東京大学 講師 長谷川,秀一
内容要旨 1.諸言

 電子遷移による核励起(NEET)とは、励起状態にある電子系が、通常X線やオージェ電子として放出するエネルギーを、原子核との電磁相互作用を通して原子核の励起として解放する現象である。この現象は、NEETの始状態における電子が束縛電子であることに注意すれば、励起原子核が束縛電子を外殻へ励起する内部転換の逆過程と考えることもできる。このような特殊な内部転換は"Electron Bridge"と呼ばれ、その逆過程としてのNEETは"Inverse Electron Bridge"とも呼ばれている。現在では特に229mThや235mUで代表されるような低エネルギー核異性体の研究などの核分光学、ホットアトム効果を利用した同位体分離、あるいは放射性廃棄物処理や線レーザなどへの応用が期待されているが、これら応用に必要とされるのは、より正確な遷移確率評価である。

 NEETは1973年に森田によって初めて考察され,以後理論及び実験の双方からその確率を求める研究が行われているが、それらの値には数桁ものばらつきがあり、実験から得られた値が数桁以上高い傾向がある。NEET確率の定義は森田によって単位励起原子数当たりの励起原子核数として与えられ、その後求められたNEET確率の理論値及び実験値はこの定義にしたがって評価が行われている。この現象を理論的に記述する場合の重要な点は、多体系である電子系及び原子核の間の相互作用を、どのようにして2準位系の問題として近似するかということである。注目するべき準位は電子系に関して2準位、原子核系に関して2準位であり、NEETを引き起こす電子と原子核との電磁相互作用はこれら2準位間に働くと考えられる。この様子を図1に示す。これらの準位はここにあらわには現われない準位あるいは電磁場と複雑な相互作用をしているが、そのような相互作用はこれら準位密度の増加あるいは減少として記述される。その代わりに注目する準位はもはや純粋状態ではなく混合状態となる。つまり系が規格化された1つの状態ベクトルでは表されなくなる。本研究においては準位の減衰率を採り入れたNEET確率の解析解の導出、NEETの始状態へのポンピングレートに対する終状態密度の応答についての評価,電子系と原子核との減衰率が大きく異なるために起こるみかけのNEET確率の上昇に関する考察、さらに評価済核データ(Evaluated Nuclear Structure Data File)からのNEET可能核の抽出を行った。

図1:NEET図。はそれぞれ原子核、電子の波動関数を表し、はそれぞれ原子核準位、電子準位の崩壊レートを表す。添字i、I及びf,Fはそれぞれ始状態および終状態を示す。iは電子の始状態へのポンピングレートである。
2.理論2.1NEET確率

 以下単位系として、自然単位系(=c=1)を用いる。NEETを引き起こす相互作用の無い場合の系についてはすでに解けているものと仮定する。すなわち、非摂動Hamiltonianを0N+eとし、Neはそれぞれ固有状態|〉、|〉によって対角化されているものとする。

 

 これらを用いて0

 

 のように対角化される。またWeisskopf-Wignerのdecay operatorをとし、その固有値は

 

 であるとする。原子核と電子との相互作用を’とするとき、Schrodinger方程式

 

 が系の時間発展を記述し、

 

 と定義すればCi(t)、Cf(t)に関する運動方程式

 

 が得られ、一般解は

 

 と求まる。但し、であり、とおいた。NEET確率は初期条件Ci(0)=1、Cf(0)=0を(10)に代入して得られる

 

 を用いて

 

 と求まる。但し。この積分の収束条件はi,f>0の範囲で満足される。また相互作用エネルギー

 

 で表される。但し電子及び原子核の電磁カレント、光子の伝搬関数は各々

 

 とおいた。

2.2減衰率の変化に対する応答

 (12)をiに関して偏微分すると、

 

 fに関して偏微分すると、

 

 が得られる。NEET確率Pをifの関数と見たとき、(16)からiに対しては単調減少関数、(17)からfに対しては

 

 をfが満たす時極大となることが分かる。一般に外部電磁場に対する状態密度の変化は、誘導放出によって減衰率の増大を引き起こすので、外部電磁場によってNEET確率を高くするためにはiを小さく、また(18)をfに関して解いた時の解をf(i)とおくと、f(i)に近づけるように外部電磁場を調整せねばならないことが分かる。通常f<(i)が満足されているので、終状態の減衰を誘導することはNEET確率の増大に繋がる。しかしながら始状態の減衰率は理想的な状況を考えても自然放出レートを下回ることはできない。そこで始状態へのポンピングに対する終状態密度の応答を考える。

2.3状態密度の運動方程式

 密度演算子=|〉〈|の行列要素は

 

 で定義される。これと(9)から

 

 始状態に対して熱浴r(状態密度rr)からでポンピングが行われるとすると、(21)は

 

 となり、新たに熱浴の状態密度の時間微分を

 

 として密度行列要素の時間発展を考える。定常状態d/dt=0においてff

 

 と求まる。熱浴は非常に大きな系であり、ff1と見倣せるのでNEET確率としてもう1つの表現

 

 が得られる。

2.4電子系の分離とみかけのNEET確率

 前節で熱浴を導入したので、さらに電子系と原子核の状態関数を分離し、電子系にのみ熱浴を導入する。対象は電子系に対して3準位、原子核に対して2準位であり、それらの準位の分布数密度行列要素に関する方程式を立てる。即ち、|li〉、|lf〉、|lr〉、|Fi〉、|Ff〉、|Fr〉の6準位に対して

 

 を得る。この方程式において前節同様とし、であるとすると

 

 となる。ここでNEETを実験で観測する状況を考えると、fFであり、(36)式で記述されるNEETの終状態Ffは即座に遷移して、実際に観測にかかる量はFrであることが分かる。(34)、(35)、(36)式は、(20)、(23)、(22)式と同じ形であるので、(26)式を求めた時と同様に、定常状態d/dt=0の時、

 

 となって、みかけのNEET確率fP/Fとして実験値から得られる値は、NEET確率をかなり高く評価してしまう可能性が高い。

3.数値計算

 197Auについての計算結果を示す。電子系の始状態は3s1/2(-3.425[keV])、終状態は1s1/2(-80.725[keV])である。原子核は、基底準位から(77.351[keV])へ励起される。相互作用エネルギーは=3.07×10-4[eV2]、エネルギー差|Efi|は51[eV]である。原子核の励起準位の寿命はF=0.24[eV]、電子の始・終状態の減衰率はそれぞれi=49.6[eV]、f=20.9[eV]である。以上からNEET確率はP=1.14×10-7、NEETの遷移率は=5.65[eV]となった。fが変化する時、NEET確率を最大にする値はf(49.6)=52.4[eV]である。図2にNEET確率Pをfの関数としてプロットした図を示す。fが52.4[eV]を超えるとNEET確率は減少して行くことが分かる。197AuのNEET確率の実験値は藤岡らが2.2×10-4、篠原らが5.1×10-5という値を出している。

図2:197AuのNEET確率Pをfの関数としてプロットしたもの。1=49.6[eV]としている。f=52.4[eV]の時Pは最大値1.21×10-7を取る。
4.NEET核のサーベイ

 最新の評価済核データENSDFを用いて,NEET可能核のサーベイを行った。サーベイにあたり、電子の波動関数には水素様電子のDirac方程式の数値解を用いている。表1に掲げるのは基底状態が安定なものの抜粋である。水素様電子の波動関数を用いているので、電子の束縛エネルギーが深く見積もられており、対応する電子遷移が実際には異なる場合がある。

表1:NEET核のサーベイ結果。(基底準位が安定なもの)#は電子の始・終状態の組合せに適当なものが見つからなかったもの
5.考察

 (12)式で得られたNEET確率は、≪1のときTkalyaの導出したNEET確率の理論式で近似される。すなわち

 

 またf=0と仮定すると、Hoの理論式

 

 となり,さらにi=0とおくことで、森田の式

 

 に近似される。Pkalya、PHo、PMoritaの問題点は、

 

 のように発散してしまい、0

 

 であり、Pを(i,f)の関数と見た時、i,f>0なる定義域では0fff/iが(12)式に等しくなることからも、本研究で得られた理論式が正しいものであることが理解できる。

 さらに、より多くの原子核を励起したいという工学的観点からすると、(38)で得られた結論はNEETの工学応用を決して否定するものではない。確かに理論式から得られるNEET確率の値は非常に低いものであるが、理論式の導出における終状態が電子系と原子核の混合状態であるため、理論では「動きの速い」電子系がより下の準位へ崩壊した時点でNEETは完了したことになるが、実際には「動きの遅い」原子核は励起状態にとどまったままであり、始状態へのポンピングを続けることで、励起された原子核が次第に溜ってくるものと予想される。(38)式の導出で用いた定常状態という仮定d/dt=0は、この可能性を示している。

6.結言

 本研究において電子遷移による核励起(NEET)の遷移確率に対する理論的考察を行い,原子核励起の手法としてのNEETに関して次の知見を得た。

 1.NEET確率の理論式として

 

 を得た。これは0

 2.密度演算子の行列要素の運動方程式からNEET確率の新たな表現としてP=fff/iが得られた。

 3.電子系と原子核を分離して、再度分布数密度行列要素の運動方程式を立て、励起原子核が蓄積されて行く効果として、みかけのNEET確率fP/Fを得た。

 4.最新の評価済核データENSDFを用いてNEET可能核のサーベイを行った。

審査要旨

 電子遷移による核励起(NEET)とは、励起状態にある電子系が、通常X線やオージェ電子として放出するエネルギーを、原子核との電磁相互作用を通して原子核の励起として解放する現象である。この現象は、NEETの始状態における電子が束縛電子であることに注意すれば、励起原子核が束縛電子を外殻へ励起する内部転換の逆過程と考えることもできる。このような特殊な内部転換はElectron Bridgeと呼ばれ、その逆過程としてのNEETはInverse Electron Bridgeとも呼ばれている。現在では特に229mThや235mUで代表されるような低エネルギー核異性体の研究などの核分光学、ホットアトム効果を利用した同位体分離、あるいは放射性廃棄物処理や線レーザなどへの応用が期待されているが、これら応用に必要とされるのは、より正確な遷移確率評価である。

 NEETは1973年に初めて考察され、以後理論及び実験の双方からその確率を求める研究が行われているが、それらの値には数桁ものばらつきがあり、実験から得られた値が数桁以上高い傾向がある。NEET確率の定義は単位励起原子数当たりの励起原子核数として初めて与えられ、その後求められたNEET確率の理論値及び実験値はこの定義にしたがって評価が行われている。この現象を理論的に記述する場合の重要な点は、多体系である電子系及び原子核の間の相互作用を、どのようにして2準位系の問題として近似するかということにある。注目するべき準位は電子系に関して2準位、原子核系に関して2準位であり、NEETを引き起こす電子と原子核との電磁相互作用はこれら2準位間に働くと考えられる。これらの準位はここにあらわには現われない準位あるいは電磁場と複雑な相互作用をしているが、そのような相互作用はこれら準位密度の増加あるいは減少として記述される。その代わりに注目する準位はもはや純粋状態ではなく混合状態となる。つまり系が規格化された1つの状態ベクトルでは表されなくなる。そして、これまでに提唱されているNEET確率の理論式はすべて、ある条件のもとでは物理的に破綻することも知られている。

 以上の観点から、本論文では、準位の減衰率を採り入れ、物理的な破綻を起こさないNEET確率の理論式の導出と、NEETの始状態へのポンピングレートに対する終状態密度の応答についての評価、電子系と原子核との減衰率が大きく異なるために起こるみかけのNEET確率の上昇のメカニズム解明、ならびに評価済核データからのNEET可能核の整理についてまとめたものであり、全体で5章から構成されている。

 第1章は、緒言であり、NEET現象に関する既往の研究とNEET発生のメカニズム、およびNEET現象の工学的応用に関して整理されまとめられるとともに、本論文の研究目的が述べられている。

 第2章は、最新の評価済核データENSDFを用いてNEET可能核のサーベイが行われている。サーベイにあたって、電子の波動間数には水素様電子のDirac方程式の解が用いられている。その結果、73Geから252Cfまでの多数の原子核に対しての評価結果がまとめられている。

 第3章は、NEET確率に関する解析解の導出が行われている。これまでに提唱されている森田の理論式、Hoの理論式,Tkalyaの理論式では、原子核の始状態の減衰率が0の極限などでNEET確率が発散するなど物理的に破綻していたが、2準位系においての全ての条件で物理的破綻を起こさない最初の理論式であることが確認されるとともに、先の3つの理論式との関係が比較、整理されている。

 第4章は、NEET確率に対し、さらに密度行列要素の時間発展を与えることで、NEETの始状態へのポンピングレートに対する終状態密度の応答についての評価、電子系と原子核との減衰率が大きく異なるために起こる、みかけのNEET確率の上昇のメカニズム解明が行われている。つまり、新たに熱浴の状態密度の時間微分を導入し、電子系と原子核の状態関数を分離することで、電子系に対して3準位、原子核に対して2準位を考慮した、準位の分布数密度行列要素に関する方程式が導出されている。そして、実験において観測されるみかけのNEET確率がどのような物理的意味を有するかの考察を通して、実測によるNEET確率が理論値より高い値を与える理由を明らかにしている。さらには、197Auについて、NEET確率の理論値を示し、実験値との比較、検討を行っている。

 第5章は、結論であり、本論文のまとめが述べられている。

 以上を要するに、本論文は、電子遷移によるNEETの遷移確率に対する理論的考察を行うことで、NEET確率の理論式を導出し、NEET確率の実験値と理論値の不一致の理由を明らかにするとともに、NEET可能核のサーベイを行ったものであり、システム量子工学に奇与するところが少なくない。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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