学位論文要旨



No 115184
著者(漢字) 佐藤,泰
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヤスシ
標題(和) 高エネルギー放射光とレーザー電子光を用いた考古遺物に対する非破壊分析手法の研究
標題(洋) The study of non destructive analysis for archaeological samples using high energy synchrotron radiation and laser electron photons
報告番号 115184
報告番号 甲15184
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4679号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中沢,正治
 東京大学 教授 石榑,顕吉
 東京大学 教授 上坂,充
 東京大学 助教授 高橋,浩之
 東京大学 助教授 小林,紘一
 東京大学 講師 長谷川,秀一
 大阪大学 助教授 藤原,守
内容要旨

 高エネルギー放射光とレーザー電子光を用いた考古遺物に対する非破壊分析手法の研究を行なった。この方法は考古遺物の産地推定に大きく貢献できると考えている。分析方法は、放射光で元素分析を行ない、元素の存在量により、産地推定を試みる。元素分析のみで難しいと判断される場合は、特定の元素を選び出して、同位体分析を行ない、産地推定を試みる。元素分析も同位体分析も非破壊で行なえることにより、破壊の許されない考古遺物も分析できる。本論では、ファイアンスをとりあげ、この方法を適用してみる。

 従来、蛍光X線分析による元素分析は、数十keVの低いエネルギーの入射X線を用いて、比較的軽い元素を分析対象としてきた。SPring-8では、100keVで3.3×1013ph/sと、高輝度で高いエネルギーの放射光を入射光として用いることができるので、従来よりも重い元素を分析対象にすることが可能である。考古学的応用としては、分析可能な元素が増えることで新たな知見が得られる可能性が高い。

 高エネルギー放射光を用いた蛍光X線分析法と、他の分析法NAA,PIXE,ICP-MSを考古学的試料への応用という観点から比較する。産地推定のために求められる分析法の性質は、非破壊で、同時多元素分析であり、多数の試料を分析できることである。分析装置を個人的に所有できる場合は、非破壊、高感度の点からPIXEが望ましい。共同利用の分析装置を用いる場合には高エネルギー放射光による蛍光X線分析が望ましい。この方法は高感度で、同時多元素分析ができ、非破壊であり、分析用ビームラインにより長時間分析時間が得られるという利点がある。

 ファイアンスとは、古代から中東で作られている、非土性の釉のかけてある陶器である。このファイアンスを分析することで、ファイアンスの産地の手がかりをつかめる可能性がある。本論では、SPring-8で初めて、遺跡から出土したファイアンスを蛍光X線分析した。

 実験装置を図1に示す。試料に放射光が照射され、蛍光X線がGe半導体検出器で検出される。蛍光X線のスペクトルは計測系を介しコンピュータに取り込まれる。入射する放射光は今回115keVであり、ファイアンスに照射した光としては今までになく高いエネルギーである。この入射エネルギーにより、ランタノイド等がバックグランドの少ない領域で検出できる。

図1 実験装置

 図2にエジプト出土ファイアンスの測定結果を示す。横軸が蛍光X線のエネルギー、縦軸がカウント数を示す。コンプトン散乱のピークが90keV付近にあるため、エネルギーの上端を切っている。Cu、Sn、Pb、Sr、Ba、La、Ceが検出されている。ここでは、ファイアンスに直接X線をあてたので、表面の釉の成分と基材の成分が共に検出されている。図3にエジプト出土ファイアンスの割れている面から露出している基材の成分を示す。図2に比べ釉の成分元素のピークが縮小していると考えると、釉からCu、Sn、Pbが検出され、基材からSr、Ba、La、Ceが検出されたと考えられる。

図表図2 エジプト出土ファイアンス / 図3 エジプト出土ファイアンス(基材)

 釉と基材の材料はそれぞれ別な場所から採取されていた。釉は主に銅の鉱物を擦り潰して作られたと考えられており、基材は砂、石英、石灰などを擦り潰して作られたと考えられている1)。これらの材料の産地はファイアンスが作られた場所ごとに違う可能性があり、材料の産地を特定できれば、ファイアンスの作られた場所の有力な手がかりになる。

 図4にイラン出土ファイアンスの測定結果を示す。ここでは、Cu、Sn、Pb、Bi、Sr、Ba、La、Ceが検出されている。イラン出土ファイアンスからのみBiが検出されているが、イラン出土ファイアンスの中でもBiを含まないものがあり、産地推定の指標にはなりにくい。

 基材の場合、元素の蛍光ピーク比をとることで、産地推定が行なえる可能性がある。La/Ba比を横軸に、Ce/Ba比を縦軸にしたものを図5に示す。La/Ba比とCe/Ba比により、エジプト産ファイアンスとイラン産ファイアンスを判別できる可能性がある。また、イラン出土ファイアンスが1個、エジプト出土ファイアンスの集団の中に入っているが、これは、エジプトから輸出されたものがイランから出土した可能性がある。

 釉の場合、元素で産地推定するのは難しい。色合いにより、元素の組成が変えられ、元素比が必ずしも産地を示さない。産地を推定するにはエジプト出土ファイアンスとイラン出土ファイアンスの両方に含まれる元素の同位体比を測定するのが有用である。両方の釉にPbが検出されているが、Pbによって原材料の産地が特定された例があるので2)Pbの同位体比を産地推定に用いる。また同様に、基材からも特定の元素を選び、同位体で判別することを併用すれば、更に正確な推定が可能になる。

 同位体比を測定するためのプローブとしてレーザー電子光が用いられる。レーザー電子光(逆コンプトン散乱光)による非破壊同位体分析については、現在、レーザー電子光発生装置を開発している段階である。ここでは、レーザー電子光発生装置の開発と同位体分析の方法を述べる。

 レーザー電子光発生システムは電子ストレージリングと遠赤外レーザーシステムからなる(図4)。電子ストレージリングはSPring-8を使用する。このリングは放射光源として1997年秋から利用実験が行なわれている。遠赤外レーザーシステムはCO2レーザー、CH3OHレーザー等からなる。

図表図4 イラン出土ファイアンス / 図5 ファイアンスの分類図6 装置体系

 高強度のレーザー電子光を発生させようとした場合、レーザー側で問題になるのはレーザーの強度とレーザーの波長である。レーザーの強度は高くなるほど、レーザー電子光の発生強度が比例して高くなり望ましいが、波長の方は制約がある。レーザーと衝突する電子は蓄積リング中を周回しているが、レーザーと衝突してエネルギーを失い過ぎるとリングを回ることができなくなり、リングのダクト内壁と衝突して消滅してしまう。SPring-8の場合、8GeV電子が逆コンプトン散乱で失うことが許されるエネルギーは約50MeVであり、24mよりも長い波長のレーザーでなければならない。この遠赤外の波長領域で高い出力を持つのが、CH3OHを媒質として用いた光励起遠赤外レーザーの118.8m線であり3),4)、約10MeVまでのレーザー電子光を生成できる。

 励起用CO2レーザーは波長9-11mに多くの高出力の発振線をもっている。この発振線によりCH3OH分子を励起して遠赤外レーザーを発振させる5)。CO2レーザーは放電励起型レーザーである(図7)。共鳴器は放電管、発振波長を選択するグレーティングとレーザー光を取り出す出力鏡からなっている。放電管の長さは1m、内径は10mmの水冷2重管であり、この放電管を2本直列に並べる。図8は放電電流を変化させた時のCO2レーザーの出力を示している。この程度の出力があれば、CH3OHレーザーで1W以上の出力を得ることができると予想している。

 CH3OHレーザー装置の例を図9に示す。共振器はレーザー管とカップリングミラーからなる。レーザー管はパイレックスガラス製で内径35.2mm長さ2.5mの水冷2重管である。カップリングミラーは軸外し入力結合孔をもつAuコーティングのCuミラーとSiハイブリッドカプラーで構成されている。

図表図7 CO2レーザー / 図8 CO2レーザー出力の電流依存性

 従来、同位体分析は質量分析により行なわれてきた。しかし、試料を削り取らずに非破壊で分析する方法は今だ確立されていない。レーザー電子光を用いれば、非破壊で同位体分析が行える可能性がある。

 ファイアンスの釉の産地推定には、Pbが有用であると思われる。Pbは崩壊系列の最後の核種であり、206Pb、207Pb、208Pbの同位体比が地質の年代を表しているともいえる。ファイアンスの基材についてはBaが候補である。Baは同位体が7種あり、指標となる同位体が多い。Baについては最初136Ba、137Ba、138Baについて蛍光線を測定されたデータを基に、同位体比を測定する。PbとBaの核蛍光線のエネルギーの一部を表1に示す。

図表図9 CH3OHレーザー / 表1 Pb,Baの核蛍光線(抜粋)

 蛍光線の強度の測定は以下のように行なう。レーザー電子光を試料に照射する。試料から発生する核蛍光線をコンプトン散乱抑制型Ge半導体検出器および計測系によりエネルギースペクトルとして取得する。このエネルギースペクトルから蛍光線の強度を測定し、同位体比に換算する。

 高エネルギー放射光とレーザー電子光を用いた考古遺物の非破壊分析手法のついて述べた。高エネルギー放射光による元素分析はファイアンスについて行なった。La/Ba比とCe/Ba比により、産地が推定できる可能性があることを示した。また、PbやBaの同位体がファイアンスの同位体による産地推定の候補であることを示した。レーザー電子光の発生について述べ、レーザー電子光による、同位体分析の方法について述べた。

参考文献1)Sidney M.Goldstein,Coring.New York,19792)馬淵久夫,保存科学研究集会,P37,19863)黒澤宏,レーザー研究,P229,Vol.21,No.1,19934)J.Farhoomand and H.M.Picdett,Int.J.Infrared and Millimeter Waves,P441,No.5,Vol.5,19875)岡島茂樹,固体物埋,P327,Vol.31,No.4,1996
審査要旨

 放射線や加速粒子あるいは加速器自身を用いた元素分析法は、多方面への応用が可能であり、最近では、スプリング8の放射光が和歌山のカレー事件のヒ素の検出に用いられたことでも有名である。これらのうち、非破壊で元素を分析する手法については、資料的価値の高いサンプルをそのまま利用できるので、考古学的分野に利用される際には「新しい考古科学」としての位置づけを得つつあると言えよう。本論文は、放射光を用いた蛍光エックス線分析法や、レーザー逆コンプトン散乱ガンマ線法(本論文では、縮めてレーザー電子光と呼ばれている)による核蛍光線分析による同位体比測定法などを考古科学に利用しようとするものであり、このための装置開発を含んでいる。この論文は英文で書かれており、5章で構成されている。

 第1章は序であり、放射光の考古学への応用の目的や、利点について述べており、放射光による蛍光エックス線分析では、まず目的とする元素について分析し、その次にレーザー電子光を用いて同位体比測定を行う手法を紹介している。また、放射光以外の方法についても、それぞれの手法について比較検討しており、PIXE(イオン誘導エックス線法)、AMS(加速器質量分析法)、ICP-MS(誘導性プラズマ型質量分析法)などに比べ、非破壊であることのほか放射光自身はビームポートが多いことにより、同時に多数の試料を分析できることなどの有用性を挙げている。

 第2章は、放射光による蛍光エックス線分析法の具体例であり、放射光発生装置であるスプリング8により、考古遺物であるファイアンスに対し応用した例について述べたものである。ファイアンスというのは、中東地区で古代から用いられている宝飾製品であり、日本で言えば七宝焼のようなものである。このファイアンスの分析をすることで、その産地の手がかりをつかめる可能性があり、考古学的な資料として、大変価値の高いものといわれている。蛍光エックス線分析は115kevの入射放射光で実施し、Cu、Pb、Sr、Zr、Pd、Ag、Sn、Sb、Ba、Ce、Nd、Hfの12核種を求めている。このファイアンスでは、表面の釉の成分と基材の成分が混ざっているので、基材原料の測定も個別に行っている。基材はシリコン以外にBa、Ce、Pbなどが検出されているが、産地については、同定は難しいとしている。特に、釉の場合には,元素が多数含まれているので、元素比で若干の推定は可能と予想されるが、基板のときには、元素が少なくて難しいので、元素の同位体比を測定することを提案している。具体的には、釉からはPbを、基板からはBaを取上げてその同位体比測定を検討している。

 第3章は、放射光装置よりレーザー逆コンプトン散乱法によりガンマ線を作るための方法、この論文で言うところのレーザー電子光についてまず理論的側面を述べている。次に、8GeVのスプリング8の電子から、数MeV程度のガンマ線を逆コンプトン散乱法により作成するため、波長118.8mのアルコール(CH3OH)レーザー光を用いている。このアルコールレーザーは、9-11mに多くの発振線をもつCO2レーザーにより励起したアルコール分子から作ることにしており、このCO2レーザーについては、周波数の変動が極めて安定化されている点に特徴がある。数ヵ月後にはこのCO2レーザー光ボンプ型アルコールレーザーシステムの稼動が予定されている。

 第4章は、このレーザーシステム完成後に行うべきレーザー電子光による同位体比分析法について述べている。特にファイアンスの釉についてはPbを対象と考え、207Pb/206Pb比が有望であろうとしている。

 また、ファイアンスの基板については、Baを対象とすることを提案しており、核蛍光線の調査結果を示し、136Ba、137Ba、138Baの間の比率が望ましいとしている。

 第5章は結論であり、放射光による考古遺物の元素分析の実施可能性がファイアンスを例題として示され、また、レーザー電子光による同位体比測定の可能性が示されたとしている。更に、アルコールレーザーの試作が試みられており、その励起源としてのCO2レーザーが極めて高安定度で発振しており、アルコールレーザーの光励起に使用する予定とされている。

 以上のように、本論文は、放射光の考古学分野への応用研究として多くの成果を挙げており、システム量子工学に寄与することが多いと言える。

 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54111