学位論文要旨



No 115207
著者(漢字) 白木,將
著者(英字)
著者(カナ) シラキ,ススム
標題(和) 光電子およびオージェ電子回折のための新しい分光システムの開発
標題(洋) Development of New Analyzing Systems for Photo-and Auger-Electron Diffraction
報告番号 115207
報告番号 甲15207
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4702号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 二瓶,好正
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 北澤,宏一
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 尾張,眞則
内容要旨 1.緒言

 光電子・オージェ電子回折法は,電子分光法と回折法を組み合わせることで固体表層の組成・化学状態と共に結晶構造に関する情報が得られる手法である。従来,このような角度分布測定では,光電子・オージェ電子のアナライザーへの入射立体角をアパチャーにより小さく制限し,試料回転を繰り返して角度分布を得るという方法がとられてきた。しかしながら,全立体角にわたる放出角度分布の測定は非常に長時間を要すること,また高角度分解能測定ではアパチャー透過率が減少するなどの難点がある。そこで本研究では,角度分布の同時検出により測定時間の短縮を可能としたアナライザーを開発し,光電子およびオージェ電子回折の短時間測定を目指した。また,高感度で高角度分解能測定が可能な大口径電子アナライザーの設計を行い光電子回折測定のための新しい分光システムの開発を目指した。

2.180°偏向型トロイダルアナライザー

 180°偏向型トロイダルアナライザーは電子のエネルギー分布と極角分布の二次元(E,)同時検出を行うことができ、角度分布の短時間測定が可能である。図1に装置の概略図を示す。装置は放出電子の角度規制のためのスリット,収束およびリターディング(減速)のための扇形の入射レンズ,トロイダルアナライザー,およびMCP(Microchannel Plate)を用いた2次元検出器で構成される。試料から放出された電子は,スリットにより方位角約1°の角度規制を受けた後,トロイダル電極により極角分布を保持したまま検出器面上にエネルギー分散される。0°から90°までの極角分布の同時検出を行い,試料の方位角回転により全立体角にわたる角度分布測定が可能となる。

図1 180°偏向型トロイダルアナライザー概観図
3.入射レンズ系の設計・改良

 装置の性能,特にエネルギー分解能の向上を目的として電子軌道シミュレーションを用いて,改良型入射レンズ系の設計を行った。図2は180°偏向型トロイダルアナライザーの断面図である。軸aa’を中心として回転させるとトロイダル面となる。トロイダル電極入り口の扇形の入射レンズ系は電子を一定のエネルギー(アナライザー透過エネルギーEpass)まで減速させるだけでなく,レンズ作用により検出器面上に電子を収束させる役割を持つ。このレンズによる収束方向が検出器面上ではエネルギー分散方向になるため,装置のエネルギー分解能は入射レンズ系の収束性能に大きく左右される。入射レンズ系の収束性能はその形状,つまり対向ギャップの大きさlgapとそのレンズ3段の各長さlL1,lL2,lL3を変更することで大きく変化する。

図2 180°偏向型トロイダルアナライザー断面図

 図3に電子軌道シミュレーションにより得られた旧レンズおよび改良レンズにおける収差特性を示す。電場勾配を電荷重畳法,電子の軌道をルンゲ・クッタ法により数値計算で求めた。収差は試料表面上1点から±0.5度で放出された電子の検出面上での広がりとした。このグラフから旧レンズでは減速比(アナライザー透過エネルギーに対する電子の運動エネルギーの比)が大きくなるに従い,収差が著しく増大していることが分かる。それに対し改良レンズでは減速比に対して収差の増大がほとんどなく、旧レンズよりも小さい値を示している。レンズ形状の変化で大きな違いは,ギャップの大きさが2倍以上になったことであり,見かけ上電子軌道がレンズのより中心近くを通過することによって収差が小さくなったと考えられる。

図3 新旧入射レンズ系の収差特性

 これらは弾性散乱電子を用いたエネルギー分布の半値幅測定により同様の傾向が見られることが実験的に確認された。その結果,XPSにおいて多用される条件での大きな減速比の領域で十分にエネルギー収束性が向上したことが分かった。

4.アナライザー内電子軌道の最適化に関する検討

 アナライザー内の電子軌道をシミュレーションした結果、トロイダル電極入り口のフリンジングフィールドにより,電子の基準軌道がアナライザー内では中心軌道から外れて外側電極近くを通過するなどの問題点が明らかになった。電子がアナライザー内で電極近くを飛行することは透過率減少やアナライザー電極での電子の反射,2次電子放出を招くため好ましくない。また、この傾向はレンズ形状(ギャップの大きさ,レンズ長さ)を変えるだけでは補正することが不可能であった。

 そこで、入射レンズ内に偏向電場を取り入れ,電子がアナライザー中心を飛行するように軌道を偏向させることで問題を解決した。図4は偏向電場印加時のレンズ内の軌道の様子である。3段で構成されたレンズの1段目(L1)と2段目(L2)の部分に偏向電場を印加する。その結果,レンズ内の電子の基準軌道を左右に偏向させることにより,アナライザー内での電子軌道を最適化させることが可能になった。また、これらのシミューレーション結果は実際に偏向電場Vdを印加した条件でMCP上での電子の検出範囲の変化を調べることにより実験的に確認することができた。

図4 偏向電場印加条件下での入射レンズ内の電子軌道4.オージェ電子回折測定4.1実験

 レンズ形状の改良によるエネルギー分解能の向上,及びレンズ系内の偏向電場印加によるアナライザー内の電子軌道の最適化に関する検討を基に,オージェ電子回折測定を行った。試料はMgO(001)へき開面を用い,3000eVの一次電子線励起によるMg KVVおよびO KLLオージェ電子の角度分布を測定した。検出器における極角方向のチャンネル依存性を補正するため,および1次電子線のビームカレントの経時変化による影響を補正するために各スペクトルについてバンクグラウンドを直線で引き,オージェスペクトルのピーク面積とバックグラウンド面積を求めてS/B比を算出し角度分布を得た。また理論結果はMgOバルク構造を仮定し球面波多重散乱計算により得た。

4.2測定結果

 Mg KLLオージェ電子の二次元(極角・方位角)回折パターンの測定をリターディング電位を固定し行った。アナライザー透過エネルギーEpass=200eV,減速比=5.9であった。このとき,同時検出可能なエネルギー幅は30eV,エネルギー分解能は440meV/ch。一方位角につき100秒間検出し,3度きざみで90度方位角回転を行い,トータルで52分の測定時間を要した。図5(a)にMg KLLオージェ電子のエネルギー分布を示す。両端のピークはアナライザー電極内壁からの反射電子,あるいは検出領域の両端でのエネルギー分散が中央付近と比較して小さいことが原因で生じるバックグラウンドである。電子線励起によるオージェ電子測定では非常に高いバックグラウンドを伴い,P/B比も小さい値を示した。それにも関わらず,実測(図5(b))と理論結果(図5(c))は非常によい一致を示した。

図5(a)Mg KLLオージェスペクトル(b)Mg KLLオージェ電子回折パターン(c)理論計算

 さらにO KLLオージェ電子回折測定を,リターディング電位をスキャンし高エネルギー分解能で行った。アナライザー透過エネルギーEpass=50eVのときエネルギー分解能は110meV/chであった。また各方位角における極角分布の測定時間はEpass=200eVのとき8分,Epass=50eVのとき32分であった。図6(a)のように得られたオージェスペクトルから同様にS/B比を算出し,方位角=0°(図6(b))および45°(図6(b))での極角分布を得た。実験結果と理論結果は良く一致し,極角分布にはMgO単結晶の低指数方向近くに前方散乱に起因するピークが見られた。以上の結果から180°偏向型トロイダルアナライザーを用いてオージェ電子回折パターンの測定が短時間かつ構造決定を行うに十分なエネルギー分解能と角度分解能で行えることが確認された。

図6(a)O KLLオージェスペクトル(b,c)O KLLオージェ電子極角分布
5.大口径電子アナライザーの開発

 従来,光電子回折法では立体角規制アパチャーと半球型アナライザーの組み合わせがもっとも広く使用されてきた(図7(a))。この方法では高角度分解測定において電子のアパチャー透過率が大幅に減少する。そこで新たに従来の切り捨て型アパチャーを用いない高感度かつ高角度分解測定が可能な電子分光システムを開発した。図7(b)に大口径電子アナライザーの概念図を示す。装置は半球型電子アナライザーおよび角度分解用入射レンズシステムから,またレンズシステムは前段の角度分解部分と後段のリターディング部分からなる。試料から放出された電子は前段レンズ作用により回折面上に電子の放出角度パターンを形成する。この回折面上にアパチャーを配置することにより,放出角度を選択し集光して電子を取り込むことが可能となる。回折面アパチャーを通過した電子は後段レンズおよび電子アナライザーによりエネルギー分析される。この分光システムの特徴は,角度分解能がレンズ作用により形成された回折パターンと回折面アパチャーの大きさにより決定されること。測定領域が取り込み口の大きさ,一次ビームのサイズにより決定されるため,角度分解能に依存しないことである。これにより高角度分解測定においても高感度で測定することが可能となる。現在,この新しい分光システムを採用した光電子回折装置を製作中である。

図7(a)従来の切り捨て型立体角規制アパチャー(b)回折面アパチャーを用いた電子分光システム
6.結論

 固体表層,微小領域に対する角度分解型光電子・オージェ電子分光の迅速測定を目指し開発した180°偏向型トロイダルアナライザーについて,エネルギー分解能の向上および電極電位条件の検討を行った。これらの検討を基に電子線励起によるMg KLL,O KLLオージェ電子の角度分布測定において,短時間で全立体角に対するオージェ強度分布を測定し,かつ構造解析に十分な角度分解能とエネルギー分解能での測定を行えることが確認できた。また,新たに光電子回折測定のための高角変分解能で高感度な電子分光システムを発案,開発を行った。

審査要旨

 本論文は「Development of New Analyzing Systems for Photo-and Auger-Electron Diffraction(光電子およびオージェ電子回折のための新しい分光システムの開発)」と題し、光電子回折測定およびオージェ電子回折測定を短時間で行うことを目的として開発した角度同時検出タイプのアナライザーについて(第2章〜第6章)、また高角度分解能・高感度測定を目的として発案・開発した大口径電子アナライザーについて(第7章、第8章)行った研究をまとめたもので、9章より構成されている。

 第1章は序論であり、本研究の背景、論文の目的、論文の構成がまとめられている。

 第2章では、エネルギー分布・極角分布の2次元同時検出が可能な180°偏向型トロイダルアナライザーについて、装置の開発コンセプト、構成、特徴を述べている。

 第3章では、180°偏向型トロイダルアナライザーを用いて光電子あるいはオージェ電子回折パターンを正確に測定するために必要なポイントを明らかにし装置のパフォーマンスを向上させるための検討を行っている。まず、装置の性能、特にエネルギー分解能の向上を目的として電子軌道シミュレーションを用いて、改良型入射レンズ系の設計を行った。形状パラメータの異なる多数の入射レンズ系に対して収差を算出し、トロイダルアナライザーに対して最適な入射レンズ系の形状,つまり対向ギャップの大きさlgapとそのレンズ3段の各長さlL1,lL2,lL3を決定した。また、検出効率を上げるためにアナライザー内の電子軌道の最適化に関する検討を行った。

 第4章では、第3章で行ったレンズ系の改良によるエネルギー分解能の向上、電子軌道の最適化に関して弾性散乱電子を用いて実験的検証を行い、さらにはオージェ電子回折測定のための最適な実験条件を見出した。

 第5章では、第3章および第4章において検討した結果を基に最適な実験条件下でオージェ電子回折パターン測定を行っている。その結果、MgO(001)からのO KLLおよびMg KLLオージェ電子回折パターンの測定に初めて成功した。O KLLオージェ電子回折パターン測定ではリターディング電位スキャンモードで高エネルギー分解能のスペクトル測定を行い回折パターンを得た。また、Mg KLLオージェ電子回折パターン測定ではリターディング電位固定モードにより短時間測定(従来の数十時間から1時間弱の短縮化)を達成した。また、第6章では、CaF2(111)へき界面、MBEによりGe(111)上に8モノレイヤーだけ薄膜成長させたCaF2(111)、その他SrTiO3(001)、MgF2(001)に対してオージェ電子回折パターンの測定を行い、180°偏向型トロイダルアナライザーが十分なエネルギー分解能と角度分解能を持ち、オージェ電子回折さらには光電子回折パターンを迅速かつ正確に測定でき得ることを示した。

 第7章では、従来の切り捨て型アパチャーを用いない新しいタイプの角度分解システムについて、その角度分解の原理、入射レンズシステムの基本構成を示した。新たに発案されたシステムでは、レンズ後焦点面に電子の放出角度に依存する回折パターンが形成されることを利用し、後焦点面にアパチャーを配置して角度分解を行う点に特徴がある。また、従来光電子分光器で用いられてきた入射レンズシステムおよび切り捨て型アパチャーを用いた角度分解システムと比較し、その優位性と有効性について論じている。

 第8章では、第7章で発案した新しいタイプの角度分解入射レンズシステムを用いた大口径電子アナライザーを設計した。このアナライザーの特徴は、角度分解能とエネルギー分解能を独立に制御可能で、回折面アパチャーのサイズの変更により容易に角度分解能を制御できることである。また、電子軌道シミュレーションを用いてアナライザーの性能評価を行い、0.1°以下の高角度分解能測定が実現可能であることを示した。

 第9章は総括である。本研究では電子軌道計算を用いて180°偏向型トロイダルアナライザー用入射レンズ系の設計・改良を行い、さらにアナライザー内の電子軌道の最適化のための動作条件の検討を行うことにより、光電子およびオージェ電子回折測定装置として格段の性能向上を実現した。また、本研究で開発したアナライザーを用いて将来実現可能な実験項目を挙げ論じている。すなわち、シンクロトロン放射光、あるいは180°偏向型トロイダルアナライザー用に新たに開発した小型強力X線光源と組み合わせることにより、1秒以下の時間分解測定が実現可能であること、したがって、従来光電子分光で測定対象としていた試料に対して、光電子回折でも同様に測定を行い電子状態・原子の構造状態を詳細に調べられることを論じている。またさらに、光電子回折測定を高角度分解能、高エネルギー分解能で効率良く行うことのできる新しい角度分解型電子分光システムを発案・開発した。この大口径電子アナライザーでは角度分解能と透過効率が共に高いため、検出信号強度の小さい薄膜・吸着系さらには高エネルギーの光電子回折測定に対し応用可能である。

 以上本論文は、新規性の高い電子分光システムを、電子軌道計算を用いることにより最適設計を行い、実際に装置を製作すると共に実験的にも検証している。その結果、本装置を用いて世界最高レベルの高い精細度でオージェ電子回折パターンの測定が可能になったことを示している。また、新しいアイデアのもとにさらに高い性能の装置を設計し、将来の装置的発展の可能性を明らかにしている。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク