内容要旨 | | 湖沼生態系の物質循環を数学的に表現し,その生物組成の変化を予測しうる,いわゆる湖沼生態系構造動態モデルは,湖沼生態系の総合的な保全を考察する上で非常に強力なツールである.また一方で,バイオマニピュレーションと呼ばれる,湖沼生態系直接操作(具体的には,プランクトン食性の魚を除去することにより動物プランクトンの生物量を高濃度で維持し,その餌となる植物プランクトンに対する捕食圧を高い状態に保つことで,藻類の大量発生を抑制する)による,いわゆる「望ましい生態系」の構築が注目を集めており,湖沼生態系の構造動態モデルに対する期待は今後ますます高まるものと推測される.本論文では,今後の湖沼生態系保全の上で必要不可欠である,湖沼生態系の構造動態モデルの作成を最終的な目的とし,研究を開始した. 第1章では,上記の最終目的を達成のために本博士論文のとるべき立場ならびにその方向性を明確化するために,湖沼浄化方法(特にバイオマニピュレーション)及び湖沼生態系モデルに関してのレビューを行った.その結果,バイオマニピュレーションに関しては,世界各地での実施例が報告されているが,その全てにおいて成功をおさめてはいないこと,また成功した系においても,その「望ましい生態系」の長期安定性に関しては不明であること等が浮き彫りになり,実施に先駆けての効果予測の重要性が示された.一方,数理モデルのレビューの結果から,その各生物の動力学表現式に関しては,これまでの数多くの研究からその形式がほぼ決定されていることが分かった.またこれらのモデルは,基本的には藻類増殖抑制の可否の評価にその焦点を置いており,藻類のみならず,動物プランクトンや魚等の高次生物の運命予測の目的で作成された構造動態モデルは極めて少ないこと,またその理由として,これらの高次生物の動力学的挙動を十分に評価するために必要なバックグラウンドデータの不足が挙げられることが明らかとなった.以上の調査結果から,現段階で必要とされる生態系数理モデル作成のための知見は,その動力学的パラメータの決定ならびにその不確定性に関しての情報であり,そのためには,偶発的な誤差(いわゆるデータのばらつき)が少ない,生態系構成生物・無生物の時系列データが必要であることが示唆された.一方,これらのデータは,水界生態系を十分に再現できるような実験系において収集される必要がある.この点において,いわゆるmesocosm実験系が非常に有効であることが示唆され,本論文では,mesocosm観察実験結果をもとに湖沼生態系の構造動態モデルを作成することを具体的な指針とした. 第2章では,mesocosm実験について記述した.mesocosmとして屋外実験池(直径4m,水深45cm,泥深40cm)を用いて,各種の生態学的外乱を与えた観察実験を行い,モデルパラメータ決定のための基礎時系列データの収集を行うと同時に,構造動態記述のために必要な生物の分類に関しての知見を得た.結果として,3種の動物プランクトン(ワムシ類,カイアシ類及び枝角類〉で,その捕食活性に大きな相違が確認され,これら3種を分割してモデル化する必要性が確認された. これらの基礎的な知見をもとに,第3章では,まず,表層水中のみの動力学を表現する単位要素的な構造動態モデルを作成した.ここでいう単位要素的モデルとは,外部環境因子をその境界条件として考慮することにより,実湖沼生態系の構造動態を表現しうる構造を有するモデルを意味する.動力学的パラメータに関しては,藻類増殖,動物プランクトン及び魚の捕食に関与するパラメータのみを上述のmesocosm観察結果をもとにフィッティングし,その他のパラメータは文献値を用いた.フィッティングされたパラメータは,フィッティングの対象としなかったmesocosm観察結果を十分に再現し,その妥当性が検証された.このモデルを用いて,前述のバイオマニピュレーションの原理の一つである,動物プランクトンの捕食による植物プランクトン増殖抑制効果の種特異性が定量化された(図1). 図1 数理モデルを用いた,優占動物プランクトン種が異なる系における魚生物量制御の藻類増殖及び動物プランクトンの増殖に与える影響の相違の計算結果.左:カイアシ類優占系;右:枝角類優占系. 浅性富栄養湖沼では,水中のみならず,底泥中の生物・無生物の挙動も生態学的に重要な意味を有している.また一方,数理モデルにおいては,その全体的な不確定性を評価するために,モデルに含まれる全ての動力学的パラメータを一括して評価する必要がある.そこで第4章では,底泥中の動力学も併せて表現できる単位要素的湖沼生態系構造動態モデルを作成し,そのすべてのパラメータを一括して決定した.このように多数のパラメータを決定するには,合理的な決定方法を必要とするが,ここでは,Monte Carlo法を用いたメンバシップ評価方法を使用した.その結果,小型藍藻優占系及び大型藍藻優占系について,それぞれのパラメータ値が得られ,その妥当性が検証されると同時に,その不確定性に関しての情報を得ることができた.このモデルを用いて,バイオマニピュレーションの長期安定性に関しての算出を行うことが出来うるが,その一例を図2に示した. 図2 底泥を考慮した単位要素的数理モデルの予測計算結果(小型藍藻優占系)と実測値の比較.実線:平均値;破線:標準偏差幅. 第5章では,第4章で得られた単位要素的モデルのスケールアップスタディの一例として,ハンガリーのBalaton湖Keszthely湖盆の数理モデルを作成した.ここでは,外部環境条件として,水温,日照及び流入負荷変動を考慮した.また,当湖沼において発生している藻類種ならびに魚類種の相違を考慮して,これらに関する動力学的パラメータは,2年間の観測結果をもとに再フィッティングした.フィッティングされたパラメータの妥当性は,続く3年間の予測を行うことによって評価された.このモデルを用いて,当湖沼における3つの浄化方法(バイオマニピュレーション,リン負荷低減及び底泥浚渫)を,湖沼生態系の保全という観点から評価したところ,藻類増殖抑制と併せて,魚類の増加が算出された,浚渫による浄化方法が最も望ましいことが予想された(図3). 図3 シミュレーションモデルによるBalaton湖Keszthely湖盆における底泥浚渫実施後の構造動態予測.太線:平均値;細線:標準偏差幅. |