学位論文要旨



No 115209
著者(漢字) 下ヶ橋,雅樹
著者(英字)
著者(カナ) サゲハシ,マサキ
標題(和) 浅性富栄養水界の構造動態モデルに関する研究
標題(洋) MODELLING THE STRUCTURAL DYNAMICS OF SHALLOW AND EUTROPHIC WATER ECOSYSTEMS
報告番号 115209
報告番号 甲15209
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4704号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,基之
 東京大学 教授 定方,正毅
 東京大学 教授 古米,弘明
 東京大学 助教授 迫田,章義
 東京大学 講師 山口,猛央
内容要旨

 湖沼生態系の物質循環を数学的に表現し,その生物組成の変化を予測しうる,いわゆる湖沼生態系構造動態モデルは,湖沼生態系の総合的な保全を考察する上で非常に強力なツールである.また一方で,バイオマニピュレーションと呼ばれる,湖沼生態系直接操作(具体的には,プランクトン食性の魚を除去することにより動物プランクトンの生物量を高濃度で維持し,その餌となる植物プランクトンに対する捕食圧を高い状態に保つことで,藻類の大量発生を抑制する)による,いわゆる「望ましい生態系」の構築が注目を集めており,湖沼生態系の構造動態モデルに対する期待は今後ますます高まるものと推測される.本論文では,今後の湖沼生態系保全の上で必要不可欠である,湖沼生態系の構造動態モデルの作成を最終的な目的とし,研究を開始した.

 第1章では,上記の最終目的を達成のために本博士論文のとるべき立場ならびにその方向性を明確化するために,湖沼浄化方法(特にバイオマニピュレーション)及び湖沼生態系モデルに関してのレビューを行った.その結果,バイオマニピュレーションに関しては,世界各地での実施例が報告されているが,その全てにおいて成功をおさめてはいないこと,また成功した系においても,その「望ましい生態系」の長期安定性に関しては不明であること等が浮き彫りになり,実施に先駆けての効果予測の重要性が示された.一方,数理モデルのレビューの結果から,その各生物の動力学表現式に関しては,これまでの数多くの研究からその形式がほぼ決定されていることが分かった.またこれらのモデルは,基本的には藻類増殖抑制の可否の評価にその焦点を置いており,藻類のみならず,動物プランクトンや魚等の高次生物の運命予測の目的で作成された構造動態モデルは極めて少ないこと,またその理由として,これらの高次生物の動力学的挙動を十分に評価するために必要なバックグラウンドデータの不足が挙げられることが明らかとなった.以上の調査結果から,現段階で必要とされる生態系数理モデル作成のための知見は,その動力学的パラメータの決定ならびにその不確定性に関しての情報であり,そのためには,偶発的な誤差(いわゆるデータのばらつき)が少ない,生態系構成生物・無生物の時系列データが必要であることが示唆された.一方,これらのデータは,水界生態系を十分に再現できるような実験系において収集される必要がある.この点において,いわゆるmesocosm実験系が非常に有効であることが示唆され,本論文では,mesocosm観察実験結果をもとに湖沼生態系の構造動態モデルを作成することを具体的な指針とした.

 第2章では,mesocosm実験について記述した.mesocosmとして屋外実験池(直径4m,水深45cm,泥深40cm)を用いて,各種の生態学的外乱を与えた観察実験を行い,モデルパラメータ決定のための基礎時系列データの収集を行うと同時に,構造動態記述のために必要な生物の分類に関しての知見を得た.結果として,3種の動物プランクトン(ワムシ類,カイアシ類及び枝角類〉で,その捕食活性に大きな相違が確認され,これら3種を分割してモデル化する必要性が確認された.

 これらの基礎的な知見をもとに,第3章では,まず,表層水中のみの動力学を表現する単位要素的な構造動態モデルを作成した.ここでいう単位要素的モデルとは,外部環境因子をその境界条件として考慮することにより,実湖沼生態系の構造動態を表現しうる構造を有するモデルを意味する.動力学的パラメータに関しては,藻類増殖,動物プランクトン及び魚の捕食に関与するパラメータのみを上述のmesocosm観察結果をもとにフィッティングし,その他のパラメータは文献値を用いた.フィッティングされたパラメータは,フィッティングの対象としなかったmesocosm観察結果を十分に再現し,その妥当性が検証された.このモデルを用いて,前述のバイオマニピュレーションの原理の一つである,動物プランクトンの捕食による植物プランクトン増殖抑制効果の種特異性が定量化された(図1).

図1 数理モデルを用いた,優占動物プランクトン種が異なる系における魚生物量制御の藻類増殖及び動物プランクトンの増殖に与える影響の相違の計算結果.左:カイアシ類優占系;右:枝角類優占系.

 浅性富栄養湖沼では,水中のみならず,底泥中の生物・無生物の挙動も生態学的に重要な意味を有している.また一方,数理モデルにおいては,その全体的な不確定性を評価するために,モデルに含まれる全ての動力学的パラメータを一括して評価する必要がある.そこで第4章では,底泥中の動力学も併せて表現できる単位要素的湖沼生態系構造動態モデルを作成し,そのすべてのパラメータを一括して決定した.このように多数のパラメータを決定するには,合理的な決定方法を必要とするが,ここでは,Monte Carlo法を用いたメンバシップ評価方法を使用した.その結果,小型藍藻優占系及び大型藍藻優占系について,それぞれのパラメータ値が得られ,その妥当性が検証されると同時に,その不確定性に関しての情報を得ることができた.このモデルを用いて,バイオマニピュレーションの長期安定性に関しての算出を行うことが出来うるが,その一例を図2に示した.

図2 底泥を考慮した単位要素的数理モデルの予測計算結果(小型藍藻優占系)と実測値の比較.実線:平均値;破線:標準偏差幅.

 第5章では,第4章で得られた単位要素的モデルのスケールアップスタディの一例として,ハンガリーのBalaton湖Keszthely湖盆の数理モデルを作成した.ここでは,外部環境条件として,水温,日照及び流入負荷変動を考慮した.また,当湖沼において発生している藻類種ならびに魚類種の相違を考慮して,これらに関する動力学的パラメータは,2年間の観測結果をもとに再フィッティングした.フィッティングされたパラメータの妥当性は,続く3年間の予測を行うことによって評価された.このモデルを用いて,当湖沼における3つの浄化方法(バイオマニピュレーション,リン負荷低減及び底泥浚渫)を,湖沼生態系の保全という観点から評価したところ,藻類増殖抑制と併せて,魚類の増加が算出された,浚渫による浄化方法が最も望ましいことが予想された(図3).

図3 シミュレーションモデルによるBalaton湖Keszthely湖盆における底泥浚渫実施後の構造動態予測.太線:平均値;細線:標準偏差幅.
審査要旨

 湖沼生態系の物質循環を数学的に表現する、いわゆる湖沼生態系モデルは、湖沼の水質管理を行う上で有力な手法であり、その目的に応じ、これまで様々なものが発案されてきている。本研究では特に、近年注目されているバイオマニピュレーション等の生態系操作による浄化法の検討を行う為の湖沼生態系構造動態モデルの検討を行っている。

 第一章においては、既往のバイオマニピュレーションの実施例と湖沼生態系モデルのレビューを行っている。その結果、バイオマニピュレーションに関しては、世界各地での実施例が報告されているが、その全てにおいて成功をおさめてはいないこと、また成功した系においても、その効果の長期安定性に関しては不明であること等が明らかとなり、モデルを用いた効果予測の重要性が示されている。一方、湖沼生態系モデルに関しては、その多くが栄養塩負荷変動に対する藻類増殖の変化予測にその焦点を置いており、藻類のみならず、動物プランクトンや魚等の高次生物の運命予測の目的で作成されたモデルは極めて少ないこと、またその理由として、これらの高次生物の動力学的挙動を十分に評価するために必要なバックグラウンドデータの不足が挙げられることを示している。

 第二章では、バイオマニピュレーションの効果予測を目的とする湖沼生態系構造動態モデルを作成するにあたって、生態系を構成する生物に関する信頼性の高い動態データが必要であるとの発想から、系内の物質循環をほぼ完全に把握できるように設計した擬似生態系(いわゆるメソコスム)を用いた観察実験を行っている。この実験においては、栄養塩負荷と魚の生物量を変化させ、それぞれに対する生態系の応答を、各生物の生物量変化、あるいは水中の溶存物質の濃度変化として求めている。その結果、生態系の構造動態を記述する上で、プランクトン種の違いを考慮することが必要であることが明らかとなり、作成する湖沼モデル中では、植物プランクトン2種及び動物プランクトン3種を分割してモデル化することとしている。

 湖沼中の藻類増殖抑制には主として二つの制御機序が想定される。一つは、藻類に対する動物プランクトンの捕食力を利用したトップダウン型の制御と、もう一つは栄養塩循環の低減化によるボトムアップ型の制御である。いずれの制御も、プランクトン食性の魚を対象水域から除くことで達成される。本研究においては、これらの制御機序を明らかにするためにモデルを用いた検討を行っている。

 第三章ではトップダウン型の制御の機序の明確化を目的として、水中動力学モデルを作成している。モデルに用いられている動力学的パラメータは前章のメソコスム実験結果を用いて補正・検証しており、結果として得られたモデルを用いたシミュレーション結果から、バイオマニピュレーションのトップダウン型の制御の効果は、枝角類の優占率に大きく左右され、枝角類の優占率が高いほど効果が高いことを明らかとしている。

 第四章においては、ボトムアップ型の制御を考察している。すなわち、前出のモデルに底泥・水中の物質移動を加えた湖沼生態系モデルが提出されている。本モデルの動力学的パラメータもまた、メソコスム実験結果をもとに補正・検証しているが、この際、パラメータ値の評価、予測の不確定性解析、ならびにパラメータ感度解析を一括して行うために、メンバシップ評価法を採用している。本モデルを用いて、バイオマニピュレーションのシミュレーション計算を行ったところ、魚の生物量の操作に対して、高藻類量域と、低藻類量域の二つの生態学的安定系が存在することが示されている。また、この両者を支配する因子として、魚による底生動物捕食に伴って生じる無機態リンの回帰速度の違いであることを明らかとしている。

 第五章では、このモデルを、実湖沼環境条件に拡張することを目的として、典型的な浅性富栄養湖沼であるハンガリーのBalaton湖Keszthely湖盆への適用を試みている。ここにおいては、発生する藻類の種類が大きく異なっていること、また、魚食性の魚が存在することなどから、これらに関しての動力学的パラメータを再評価・検証し、本モデルに加えている。このモデルを用いて、Balaton湖における3つの浄化方法(バイオマニピュレーション、リン負荷低減及び底泥浚渫)の効果を、湖沼生態系の保全という観点から評価し、藻類増殖抑制と併せて、魚類の増加が期待される、浚渫法の有効性を示している。

 以上要するに、本論文は富栄養化湖沼の水質管理を目的とする生態系構造動態モデルを構築し、そのモデルを用いてバイオマニピュレーションなどが生態系保全に与える効果を予測する手法を示したものであり、工学的な価値の高いものである。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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