学位論文要旨



No 115215
著者(漢字) 松井,智
著者(英字)
著者(カナ) マツイ,サトシ
標題(和) ケテン誘導体の反応に関する研究
標題(洋) Study on the Reactions of Ketene Derivatives
報告番号 115215
報告番号 甲15215
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4710号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 教授 干鯛,眞信
 東京大学 教授 白石,振作
 東京大学 教授 荒木,孝二
 東京大学 助教授 橋本,幸彦
内容要旨

 【緒言】ケテンは、分子内に累積二重結合を有する比較的単純な構造からなる分子であるが、様々な基質と反応して有用な生成物を与える。その反応性から、これまで数多くの反応が報告されている。特に2重結合を有する基質と熱的[2+2]環化付加反応を起こし、大きな歪みを有する4員環化合物を与えるという興味深い性質を示し、またその高い求電子的性質を利用した求核剤との反応など実用的価値の高い反応が多い。しかしながら、ケテンは不安定な化合種であり,系内で発生させ単離せずにそのまま反応に用いるのが一般的であり、反応機構の詳細については未解明な点も多い。本研究では、ケテンの高い反応性や高歪み化合物を与える性質に注目し、それらを有効に利用した新規反応の開発、またケテンおよびケテン誘導体を用いる不斉合成反応の開発について研究を行った。

(1)ピリジニウム塩を用いた不斉Staudinger反応の開発

 ケテンは、イミンとの[2+2]付加環化反応により-ラクタムを与える。この反応は、Staudinger反応と呼ばれ、-ラクタムを合成する有効な手段の一つである。一般的なケテン発生法として酸塩化物に第三級アミンを作用させる方法があるが、酸塩化物の原料であり安定で取扱い容易なカルボン酸から系内で直接ケテンを発生させる方法の開発を試みた。種々の脱水剤のうち、2-クロロ-1-メチルピリジニウム塩(1)をケテン発生試薬に適用することを考え、フェノキシ酢酸、ヨウ化2-クロロ-1-メチルピリジニウム(1a)およびN-ベンジリデンベンジルアミンのジクロロメタン溶液にトリエチルアミンを添加し室温で反応を試みたところ、反応は円滑に進行し、収率87%で-ラクタムが得られた。生成物には2種の立体異性体が生成する可能性があるが、1H-NMRよりシス体のみであることが分かった。本方法は、反応基質をほぼ同時に混合するだけで煩雑な実験操作が全く必要ないという利点を有する。さらに、イミンのN上の置換基を検討したとごろ、4-メトキシフェニル基が最も良い結果を与えた。そこで、このイミンを用いて最適化した反応条件下、様々な基質の組み合わせで反応を行った(Scheme1)。その結果、種々のカルボン酸とイミンの組み合わせについて、簡便な操作、穏やかな条件のもとで、高選択的に反応が進行し、シス体の-ラクタムを高収率で与えることが分かった。

Scheme 1

 次に、エリトロ-2-アミノ-1,2-ジフェニルエタノール(5)を不斉補助基として用いる光学活性-ラクタム合成を試みた。5から誘導したリジッドな骨格の不斉補助基を有するカルボン酸6を設計及び合成し、ピリジニウム塩を用いた不斉Staudinger反応を行ったところ、シス体の-ラクタム8が高収率で得られることが分かった。この反応では、計4種の-ラクタム異性体が生成する可能性があるが、そのうち一種類のみが高選択的に得られた。さらに、ピリジニウム塩としては、トシル酸塩1bが優れていることが分かった。

 そこで、1bを用いて種々の-ラクタム合成を行った(Scheme2)。その結果、いずれのイミンを用いても、シス体の-ラクタム8が、高収率かつ高選択的に得られた。以上の結果から、本反応が-ラクタムの不斉合成に極めて有効であることが分かった。

Scheme 2
(2)ピリジニウム塩を用いた不斉分子内[2+2]付加環化反応

 次にケテンとオレフィンの[2+2]付加環化反応にピリジニウム塩を利用することを考えた。まず、反応が比較的進行しやすい分子内反応に注目し、優れた不斉誘起能を示したカルボン酸6を基本骨格とし、位にアルケニル基を導入した10を設計した。1aのCH2Cl2溶液に、加熱還流下、10およびトリエチルアミンのCH2Cl2溶液を4時間かけて滴下したところ、予期したとおり反応が進行し、目的とする生成物が収率84%、ジアステレオ選択性87:13で得られた。良好な結果ではあるが、Staudinger反応で見られた選択性が発現しなかったのは、反応機構の相違に基ずくものと考えられる。

Scheme 3
(3)ケテンシリルアセタールを経る不斉Ireland-Claisen転位反応

 5から誘導したオキサゾリジノンを不斉補助基としたケテンによる不斉Staudinger反応が、高い立体選択性で進行することを見いだした。そこで、6を基本骨格に持つケテン誘導体を反応に用いれば、高立体選択性を実現できるものと考え、ケテンシリルアセタールを経由するIreland-Claisen転位反応に注目した。

Scheme 4

 13より系内でケテンシリルアセタール14を調製し反応を試みたところ、反応は円滑に進行し、15:16=72:28の立体選択性で生成物が得られた。ジアステレオ選択性はエノラート生成の際に用いる塩基の種類には全く影響されず、むしろシリル化剤に大きく依存し、特に塩化ジメチルシランを用いた場合には、15:16=76:24と若干ではあるが選択性が向上した。

 さらに数種類の不斉補助基を用い反応を検討したところ、シス-2-アミノ-3,3-ジメチル-1-インダノールを不斉源として導入した基質17(R1,R2=H)を用い、エーテル溶媒中、シリル化剤に塩化ジメチルシランを用いることにより、18:19=93:7と高選択的に反応が進行することを見出した。この結果は、位に不斉補助基を導入した基質のIreland-Claisen転位反応としては、今までになく高い選択性が実現できたことを示している。

Scheme 5
(4)ケテンと[60]フラーレンとの反応

 オレフィンとしての性質を示す興味深い物質として、[60]フラーレン(20)が近年盛んに研究対象として取り上げられている。高い求電子性を有しているため、20は求核剤と高い反応性を示す。その他、ジエノフィルとしてジエン類と反応するなど、極めて多様な反応がこれまでに開発されている。しかしながら、20と求電子試薬との反応はほとんど報告例がない。一方、ケテンは高い求電子性を有しているが、ケテンの特異な反応性を考慮すれば、通常は困難と考えられる求電子剤(ケテン)による20の官能基化も可能なのではないかと考えた。

 酸塩化物にトリエチルアミンを作用させてケテンを発生させ、20との反応を試みたところ、室温でフェノキシケテンが20と反応することを見いだした。この反応の主生成物を分離・精製し、1H-NMR、13C-NMR、DEPT-NMR、IR、FAB-MSにより構造を詳細に検討したところ、22に示した20/フェノキシケテン=1/2付加体であることが分かった。更に、アルキルケテンなど反応が進行しない基質もあるが、アルコキシケテン及びアリールオキシケテンは20と反応し、1:2付加体22をいずれの場合にも良好な収率で与えることを見いだした。

図表

 本反応の機構については、現在のところ不明な点も多いが、以下のように考えられる。20が酸塩化物から生成したケテンと[2+2]付加環化反応を起こす。ケテンのa位に水素がある場合にはエノール化し、これが系内に存在するケテンもしくは酸塩化物によってアシル化され、構造的に安定なシクロブテン誘導体である22を与える。そこで、エトキシケテンと20の反応系に塩化ベンゾイルを共存させたところ、1:2付加体22のほかにO-ベンゾイル体23も得られた。この結果は、20とケテンとの[2+2]付加環化に引き続き、エノール化、アシル化が起こっているとする前述の反応機構が妥当なものであることを示している。

 2-クロロ-1-メチルピリジニウム塩をケテン発生試薬とすることにより、安定で取り扱い容易なカルボン酸を直接反応に利用できるだけでなく、不斉合成反応への応用も可能であり、例えば、不斉Staudinger反応が円滑に進行し、高収率で対応する光学活性-ラクタムが高選択的に得られることを見出した。さらに、ピリジニウム塩が、オレフィンとの不斉分子内[2+2]付加環化反応におけるケテン発生試薬となり得ることを明らかにし、良好な選択性で[2+2]付加環化反応が進行することを見出した。また、ケテン誘導体であるケテンシリルアセタールを反応中間体とした不斉Ireland-Claisen転位反応が、位に不斉補助基を導入した基質の反応としては今までになく高い選択性で進行することも見出した。加えて、ケテンの特異な反応性を利用することにより[60]フラーレンの官能基化を良好な収率で行えることを見出した。これらの一連の手法は、ケテン化学の重要性をさらに高めるだけでなく、反応によって得られた生成物が実用的に活用できるものと期待される。

審査要旨

 本論文は,ケテン誘導体の新規反応に関する研究の成果ついて述べたものであり,6章より構成されている。

 第1章は序論であり,有機合成化学におけるケテン誘導体の重要性並びにケテン誘導体の反応性と合成法について述べるとともに,本研究の目的と意義を述べている。

 第2章では,ピリジニウム塩を用いた不斉Staudinger反応について述べている。即ち,安定で取扱い容易なカルボン酸から系内で直接ケテンを発生させる方法の開発を試み,種々の脱水剤のうち2-クロロ-1-メチルピリジニウム塩が極めて優れた脱水剤であり,室温で反応が円滑に進行して高収率で-ラクタムが得られることを見出している。更に,生成物には2種の立体異性体が生成する可能性があるが、シス体のみが生成することを明らかにしている。次に,本反応をエリトロ-2-アミノ-1,2-ジフェニルエタノール(ADPE)を不斉補助基として用いる光学活性-ラクタム合成に応用し,高収率,高ジアステレオ選択的に反応が進行することを明らかにし,本反応の有用性を示している。

 第3章では,第2章で見出した2-クロロ-1-メチルピリジニウム塩によるケテン発生法を不斉[2+2]付加環化反応に応用した結果について述べている。まず,反応が比較的進行しやすい分子内反応に注目し,優れた不斉誘起能を示したADPEから誘導した光学活性カルボン酸を基本骨格とした基質を設計して反応を試み,目的とする不斉[2+2]分子内付加環化生成物が好ジアステレオ選択性で得られることを見出している。

 第4章では,不斉Staudinger反応で有効であった光学活性オキサゾリジノン基に着目し,これを有するケテンシリルアセタールの不斉Ireland-Claisen転位反応について述べている。即ち,幾つかの光学活性オキサゾリジノン基の内でもシス-2-アミノ-3,3-ジメチル-1-インダノールから誘導したオキサゾリジノンを不斉補助基として有するエステルを基質とし,エーテル溶媒中,シリル化剤に塩化ジメチルシランを用いることにより,高選択的に反応が進行することを見出している。この高選択性は,位に不斉補助基を導入した基質のIreland-Claisen転位反応としては今までにないものであり,本反応は有機合成化学上有用な反広となるものと期待される。

 [60]フラーレンは近年盛んに研究対象として取り上げられ,[60]フラーレンの求電子性に基づいた極めて多様な反応がこれまでに開発されている。一方,ケテンも高い求電子性を有していることから,ケテンと[60]フラーレンとの反応は困難のように思われる。第5章では,ケテンの極めて特異な反応性を考慮すれば[60]フラーレンとの反応も可能ではないかとの信念に基づき行ったケテンと[60]フラーレンとの反応について述べている。多くの試行錯誤の末,フェノキシケテンが[60]フラーレンと反応し何らかの生成物が得られるとを見いだし,種々の機器分析手段を駆使するにより生成物がユニークな構造を有する1/2付加体であることを明らかにしている。更に,本反応の一般性を検討し,アルコキシケテン及びアリールオキシケテンに特異的な反応であることを明らかにしている。このように,[60]フラーレンと求電子剤との新たな反応が見出されたことは,フラーレン化学にとって意義深い。

 第6章では,本論文を総括するとともにケテン化学の将来展望を述べている。

 以上のように,本論文では,簡便なケテン新発生法の開発,ケテンあるいはその誘導体を用いた新しい不斉合成反応の開拓,ケテンの特異な反応性を活用した新規反応の開発について述べている。その成果は,有機合成化学及び有機工業化学の発展に寄与するところ大である。

 よって本論文は,博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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