内容要旨 | | 植物の光合成は、地球上でくり広げられる生命活動のすべてを根元で支える天然の光変換プロセスである。光合成の光エネルギー変換過程ではクロロフィル(Chl)の分子集合体が超高速・高効率のエネルギー・電子伝達を担っているが、光合成反応のメカニズムには不明な点も多い。たとえば、植物中に存在するChlの中には数多くの光学異性体が存在するが、その生体内における機能はほとんどわかっていない。本論文は、高等植物の系I反応中心近傍に2分子だけ存在するChl’(ChlのCl32位立体異性体)の生体内における機能の解明を念頭に置き、Cl32位の差異に基づくChl’のモノマー状態の分光学的性質および会合挙動をChlのそれと比較・検討したものであり、6つの章から成る。 第1章は序論で、研究の背景と目的を述べた。Chl分子集合体の構造と機能は、生体外で作製したChl会合体を用いて研究されてきたが、一部のChl誘導体を除きその超分子構造を調べた研究はなく、特にChl’に関しては会合体に関する研究例すらほとんどない。しかし、Chlと’の会合挙動が異なることから、会合構造を制御するといった工学的視点からも、これらの超分子構造を比較・検討することは重要である。また、ジアステレオマーの関係にあるChlと’のモノマーの性質はよく似ているが、Cl32位がモノマーの性質にどのような影響を与えているかを詳しく調べた研究例も少ない。本章ではCl32位が会合挙動およびモノマー状態の性質に及ぼす影響を調べることの必要性を示した。 第2章ではこれまで例のない、Chl’会合体の超分子構造を吸収・共鳴ラマン(RR)・IR・小角X線散乱(SAXS)により調べた。会合体沈殿のRRおよびIRスペクトルからChl会合体は水を介して会合することを確認した。一方、2分子のChl’から「単位構造体」を形成し、これらの集積により超分子を構築するChl’は水和物を形成しないことを示した。さらにSAXS測定を行うことによって、Chl’の超分子構造はChl’の「単位構造体」がラメラ状に集合することによって成り立つことを明らかにした。 第3章ではChl/’の光学分割的な会合挙動を調べた。Chl/’混合物の自己会合挙動を検討したところ、コロイド状の会合体を形成するにも関わらず、両者が自発的に分離することを初めて見出した。この会合挙動から、Chlの自己会合はアモルファス状に集合したChl会合体が、より秩序だった構造へ相転移することによって進むと推測するとともに、エピマー間の分子認識能の差を表すパラメータが実験的に求められることを示した。 第4章ではChlのCl32位の立体異性がモノマー状態のChlの性質をどのように変化させるかを調べるため、Cl34位のMe基をよりかさ高い置換基へとエステル交換したZn-Chl誘導体を合成し、その分光学的性質を調べた。型と’型のZn-Chl誘導体の吸収・蛍光ピークの位置を比較すると、’型の方が型よりも長波長側にピークを持ち、この傾向はCl34位をかさ高くするほど強くなった。CDスペクトルでも、特にかさ高い置換基を導入した’型のZn-Chl誘導体のCD強度が強くなる傾向が見られた。以上より、’型Zn-Chl誘導体はCl32位とCl7位の立体障害を解消するために、型Zn-Chl誘導体よりもクロリン環を歪ませていると推測した。この結果は、13C NMR測定やCl32位立体異性化の速度論的・熱力学的挙動からも裏付けられた。 第5章では前章で合成したZn-Chl誘導体の自己会合挙動を追跡した。Cl34位に様々なアルキル基を持つ型のZn-Chl誘導体を会合させると、ほとんどの場合に、これまで知られているChl会合体によく似たスペクトルを示したことから、これらが非常に安定な水和物会合体を形成したと結論づけた。その一方Cl34位がかさ高いと会合しにくいことから、アモルファス状の会合体が秩序だった構造へと相転移するときに、かさ高い置換基が障害になることが示唆された。また’型のZn-Chl誘導体の場合は、Cl34位がMe基および2-Pr基の場合にChl’によく似た吸収スペクトルが現れたものの、それ以外のZn-Chl誘導体では、ほとんど会合が進まなかった。このように、’型Zn-Chlの会合挙動はCl32位のサイズに依存したことから、’型のChlがラメラ状に会合するには、クロリン環とphytyl基の大きさのつり合いが重要であるとの結論を得た。 第6章は本論文の総括である。5章までの結果から、ChlのキラリティーはChlが結合していく方向を限定し、その水素結合能を大きく変えるだけでなく、クロリン環骨格を歪ませ、モノマー状態における光酸化還元特性をも変化させると結論づけた。さらに、本研究によって得られた知見に基づき、Chl’が持つであろう生体内での役割を推測した。 |
審査要旨 | | 植物の光合成ではクロロフィル(Chl)の集合体が超高速・高効率のエネルギー・電子伝達を担うが,分子レベルの機構には不明な点も多い。本論文は,光化学系I反応中心の近傍に1〜2分子だけ検出されているChl’(ChlのCl32立体異性体)の機能解明を念頭に置き,Chl’とChlの分子物性を比較検討したもので,計六章から成る。 1章は序論で,研究の背景と目的を述べている。分子集合体の構造と機能は,生体外のChl会合体を用いて研究されてきたが,一部のChl誘導体を除き超分子構造を調べた研究はなく,とりわけChl’に関しては分子間会合の研究例すら皆無に近い。またChlと’の分子物性に及ぼすCl32位の影響を調べた例も少ない。以上に鑑み,Cl32位が会合挙動とモノマーの性質に及ぼす影響を調べることの必要性を示している。 2章ではChl’会合体の超分子構造を吸収・共鳴ラマン(RR)・IR・小角X線散乱(SAXS)で調べている。会合体沈殿のRR・IRスペクトルより,Chlは水を介して会合する一方,Chl’は水を介さずに2分子が単位構造を形成し,これらの集積で超分子を構築することを示した。またSAXS測定で,Chl’は単位構造がラメラ状に集合して超分子構造を作ることを見出している。 3章はChl/’の光学分割的な会合挙動に関する。Chl/’の自己会合の検討から,コロイド状会合体を形成するにもかかわらず両者が自発的に分離することを初めて見出している。観測結果をもとに,Chlの自己会合は,アモルファス状のChl会合体がより秩序だった構造へ相転移することにより進むと推測するとともに,エピマー間の分子認識能の差を表すパラメータが実験的に求められることも示している。 4章では,Cl34位のMe基をかさ高い置換基に変えた一連のZn-Chl誘導体を合成し,分光学的性質を検討している。吸収・蛍光のピークを比べると,型のほうが型より長波長側にピークを持ち,この傾向はCl34位がかさ高いほど強かった。CDでも,かさ高い置換基を導入した’型Zn-Chl誘導体の強度が強くなった。以上より,’型誘導体は,Cl32位とCl7位の立体障害を解消するため型よりクロリン環を歪ませていると推測し,それを13CNMR測定やCl32立体異性化の速度論・熱力学的挙動からも裏づけている。 5章には,前章で合成したZn-Chl誘導体の自己会合挙動を論じている。型Zn-Chl誘導体の会合体は,大半の場合に天然のChl会合体と似たスペクトルを示し,安定な水和物会合体を形成するが,Cl34位がかさ高いと会合しにくい事実より,アモルファス状の会合体が秩序構造へ相転移するときにかさ高い置換基が障害になると推測している。また’型Zn-Chl誘導体では,Cl34位がMe基,2-Pr基の場合のみChl’に似た吸収スペクトルが現れたものの,他のZn-Chl誘導体はほとんど会合しないことを見出し,’型Chlの会合にはクロリン環とフィチル基の大きさのバランスが重要だと結論している。 6章は本論文の総括で,実験事実にもとづき,生体内でChl’が持つであろう役割を推測している。 以上要するに本研究は,クロロフィル誘導体の化学合成と分光学的解析にもとづき,未だ不明な点の多い光合成分子機構の一端の解明につながる可能性をもつ一連の新知見を得たものであり,生体機能化学および光合成科学の進展に資するところが大きい。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |