学位論文要旨



No 115219
著者(漢字) 宮永,一彦
著者(英字)
著者(カナ) ミヤナガ,カズヒコ
標題(和) 植物培養細胞の二次代謝物生産に関するポピュレーションダイナミクス
標題(洋)
報告番号 115219
報告番号 甲15219
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4714号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 関,実
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 上田,卓也
 東京大学 講師 池袋,一典
 東京大学 助教授 山川,隆
内容要旨

 本論文は全6章で構成されている。第1章では,本論文の意義を明確にするために,研究の背景および植物培養細胞の性質について纏めた。植物の二次代謝産物には,構造が複雑であるために化学合成が困難で,微生物や動物では生産することができない植物特有の物質も多い。そこで,近年発達してきた植物細胞培養技術を利用して,植物の二次代謝系の発現により生成,蓄積される医薬品・色素・香料などの有用物質の大量生産が試みられている。培養細胞を用いた有用物質生産において,微生物に関しては,既に長年の歴史を持っており,技術的にもある程度確立されている。その理由として,微生物が比較的均一な培養細胞系であり,組織的な分化の程度も低く,また増殖速度も速いために培養が容易であることが挙げられる。これに対し,植物培養細胞による有用物質の工業生産は非常に遅れており,技術的に確立されていない。その理由として,物質生産挙動が複雑かつ不安定であるために,生産性を上げることが困難であることが挙げられる。植物培養細胞の特徴として,遺伝的な不均一性,細胞壁を介した集塊(アグリゲート)の形成やそれに伴う細胞の微視的環境の不均一性が挙げられ,これらのことが物質生産など機能発現に何らかの影響を与えていると考えられる。つまり,細胞集団(ポピュレーション)中では,全ての細胞が同じ挙動を示すことは考えにくい。そのため,生産性向上および工業化のためには,植物培養細胞の物質生産に関するばらつきを考慮した挙動の解析が不可欠となっている。

 本論文では,植物培養細胞による有用物質生産に関して,発現の確認が視覚的に容易である色素の生産に着目した。具体的には,イチゴ培養細胞による赤色色素アントシアニンの生産機構について検討を行った。本論文は,画像処理を用いることによって,細胞集団中における個々の細胞の挙動を明らかにし,細胞選抜による高生産株の安定性および生産性向上の指標を与えることを目的とした。従来の二次代謝物生産の評価方法は,細胞からの抽出による平均的な評価であったのに対し,本論文では個々の細胞間のばらつきを含んだ評価を行っているのが特徴である。

 第2章では,個々の細胞間のばらつきを含む評価が初めて可能になる,画像処理による評価方法の開発について述べた。従来の二次代謝物生産の一般的な評価方法は,目的物質の抽出による方法であった。これは,かなりの数(一般に105〜107個程度)の細胞集団に対する平均的な評価であったのに対し,本論文では,画像処理装置を用い,個々の細胞間のばらつきを含んだ評価を行った。植物培養細胞に関する画像解析を行う際に,アグリゲートを単細胞レベルまで分離する酵素処理条件を見出した。このことにより,色素生産に関して個々の細胞間のばらつきを含んだ評価を行うことが初めて可能になった。画像解析は,細胞の形状や大きさの測定には多く用いられているものの,色に関して評価した報告はほとんどない。培養細胞は,イチゴ(Fragaria ananassa cv.Shikinari)の葉から誘導したものを用いた。細胞株として,光照射により赤色色素アントシアニンを生産する親株(FAW)および親株より自然発生的に取得された,暗所でも色素生産を行う変異株(FAR)を用いた。細胞内平均色素含有量は,0.1%塩酸メタノールによる抽出液の530nmの吸光度から算出した。画像解析は解析ソフトを作成し,画像データから,細胞サイズ,および細胞あたりの赤色値を定義して計算した。また,本研究で用いたイチゴ培養細胞が生産するアントシアニンの持つデジタル信号(Red-Green-Blue)の特徴は,R≫G≒Bであるので,ここでの赤色値は,細胞が占める画素当たりの(R-G)値の平均値とした。(R-G)値に関して,ある閾値を定めることにより,色素蓄積細胞と非蓄積細胞の識別を行った。色素蓄積細胞と,非蓄積細胞との割合を変化させ,色素抽出液の吸光度および画像解析により平均色素含有量を求めた(図1)。両者の間にはよい相関関係がみられ(R2=0.98),画像解析による色素含有量の評価手法に妥当性があることを明らかにした。親株FAWの回分培養において,各濃度の色素蓄積細胞の割合および細胞量の経時変化を画像解析により求めた。光照射下培養においても,常に,色素を蓄積していない細胞が全細胞の50%以上存在しており,培養日数に従って色素蓄積細胞の割合が変動していることが明らかになった。また,色素蓄積細胞の割合の変化は,平均色素含有量の変化と同様の傾向を示した。各色素濃度における細胞量の経時変化を図2に示す。この結果は,色素を蓄積していない細胞も,培養日数に従って増加していることを示している。さらに,光照射下において,培養開始後5日目には,個々の細胞の色素含有量は最大で約4mg/g-fresh cell weight(fcw)のものまで存在した。これは,5日目の平均色素含有量(0.2mg/g-fcw)の約20倍であった。さらに,培養開始3日目から5日目にかけて,色素を蓄積していない細胞の割合が大きく,色素蓄積細胞の濃度もほぼ一定であることが明らかになった。これは,培養開始後3〜5日目は二次代謝よりも一次代謝が盛んであり,細胞の増殖が優先されているためと考えられる。このような,回分培養における培養細胞の色素蓄積に関するプロファイルの変化を,細胞増殖との関連から示すことが可能となった。

図1 細胞内平均(R-G)値と平均色素含有量との関係図2 色素生産に関するイチゴ培養細胞のプロファイル

 第3章では,画像処理法を用いて,様々な培養条件下における色素蓄積量を評価した。一般に,細胞の増殖を抑制すると二次代謝物生産が促進されると言われている。しかしながら,従来の抽出による評価法では,二次代謝物生産量の変化が,生産細胞の割合の変化によるものか,各細胞の含有量の変化によるものかが明確にされていなかった。本論文で用いた画像処理による評価法は,両者を同時に測定することが可能である。そこで,画像解析によって,様々な培地の色素生産性への影響を調べた。親株FAWの色素蓄積細胞に関して測定したところ,どの改変培地においても,コントロール培地と比べて,増殖の抑制がみられ色素蓄積細胞の割合も大きく増加した。特に,ショ糖およびリボフラビンを組み合わせた培地を用いた場合,5日目で全細胞の約95%が色素を蓄積することが明らかになった。このことにより,通常の培養条件では色素を蓄積していない細胞も,色素を蓄積する能力を有していることを示した。リボフラビンを添加した改変培地は,色素蓄積細胞の割合のプロファイルも,高濃度側にピークが大きくシフトしており,最大色素蓄積濃度はコントロールの最大濃度と比べて,3倍の約10mg/g-fcwであった。また,平均色素含有量と色素蓄積細胞の割合の関係を調べたところ,平均色素含有量が低い範囲では,色素蓄積細胞の割合が大きく関与しており,それ以上の範囲では細胞内含有量の増加が大きく関与していることを明らかにした。

 第4章では,軟寒天培地上において個々の細胞を連続的に顕微鏡観察し,個々の細胞の増殖および色素生産挙動についての知見を得た。細胞分裂前後での,細胞サイズおよび細胞内色素含有量の経時変化を,親株FAW,親株を1週間光照射下で培養し色素生産をさせたFAW[red],および変異株FARについて求めた。分裂酵母などの微生物の細胞増殖挙動と同様に,植物培養細胞においても,細胞分裂の直前まで細胞が肥大あるいは伸張していき,分裂により細胞のサイズがほぼ半分になることが観察された。細胞分裂後,細胞はさらに大きくなり,再び分裂を繰り返していることが明らかになった。細胞の倍加時間は,FAWおよびFAW[red]が約3日,FARが約8日であり,それぞれ細胞のサイズも倍加時間でほぼ同じ大きさまで達することも確認された。FARはFAW,FAW[red]と比較して,倍加時間が約2.5倍と大きく異なり,細胞内色素含有量も高いことから,遺伝的に異なると思われる。また,FARでは,細胞分裂において液胞も2つに分裂し,それぞれの液胞内色素濃度は分裂前後で大きく変化せず,分裂時期に依存しないことを示した。しかし,FAWでは培養中細胞内での色素の褪色も見受けられ,増殖の際には色素の生産と同時に分解も起こっていることを明らかにした。このことは,培養系全体における色素蓄積細胞の割合の変化に関与していることを示唆した。

 第5章において,色素生産に関するポピュレーションダイナミクスを論じた。履歴の異なる親株の回分培養を試みたところ,培養後期に色素生産に関してほぼ同じプロファイルを示した。また変異株は,親株とは異なり,培養時期によらず常に高生産していた。この結果より,培養細胞の色素生産に関するばらつきは遺伝的な因子に因るところが大きいことを示唆した。

 最後の第6章において,本研究全体の総括および今後の展望について述べた。以上を纏めると,本論文において画像処理装置を用いた植物培養細胞集団中における二次代謝物生産機構の評価手法を開発し,細胞内物質含有量の評価手法に妥当性があることを明らかにした。画像解析によって,平均物質生産濃度の数倍以上である高生産細胞が培養系には常に存在しており,プロファイルが変化することを示した。さらに二次代謝物生産に関する細胞のプロファイルに関して,培養条件といった生理学的因子により系の平均値が変化し,その場合においても細胞間にばらつきが存在することを明らかにした。個々の細胞レベルでのばらつきを含む増殖,物質生産挙動の安定性の評価を行い,細胞間のばらつきは遺伝的因子に支配されている可能性があることを示した。

審査要旨

 本論文は,植物培養細胞の二次代謝物生産の多様性を評価するために,画像処理を用いる方法を開発し,この手法を用いて,細胞集団中における個々の細胞の挙動を明らかにし,二次代謝物生産に関する安定性の評価と,高生産細胞の選抜による生産性向上の指針を与えることを目的としたもので,全6章から構成されている。

 第1章では,本論文の意義を明確にするために,研究の背景および植物培養細胞の性質について述べている。

 第2章では,イチゴ培養細胞による赤色色素アントシアニン生産の多様性を評価するための,画像処理を用いた方法について述べられている。従来の二次代謝物生産の一般的な評価手法は,目的物質の抽出による方法であり,105〜107個程度の細胞集団に対する平均的な評価であったのに対し,本論文で開発した方法では,画像処理装置を用いることにより,細胞1個の色素蓄積量を評価することが可能になり,個々の細胞間のばらつきを含んだ評価を行うことができるようになった。次に,抽出法および画像処理法を用いて,本培養系の平均色素含有量を求めたところ,両者の間には良い相関関係がみられ,画像解析法による色素含有量評価の妥当性を明らかにした。そこで,ここで開発した手法を用いて,イチゴ細胞の回分培養における色素生産プロファイルの経時変化を測定したところ,平均色素含有量が最大となった時点でも,色素非蓄積細胞が全細胞の50%以上存在しており,また,培養日数に従って色素蓄積細胞の割合が変動していること,さらに,培養系には,従来法で測定される平均色素含有量の約20倍の色素を蓄積している細胞も存在しているという極めて興味深い事実が明らかになった。このような色素生産プロファイルは,画像処理法によって初めて定量化されたものである。

 第3章では,第2章で確立した画像処理法を用いて,様々な培地条件下における色素蓄積量を評価している。従来より議論のある,二次代謝物生産量の変化が,生産細胞の割合の変化によるものか,各細胞の含有量の変化によるものかという問題に対して,画像処理法では,両者を区別して測定することが可能である。そこで,本法を用いて培地組成が色素生産に及ぼす影響を調べたところ,ショ糖およびリボフラビンを組み合わせた培地を用いた場合,全細胞の約95%が色素を蓄積することを明らかにし,通常の培養条件では色素を蓄積していない細胞も,色素蓄積能力を有していることを示した。また,平均色素含有量と色素蓄積細胞の割合の関係を調べたところ,平均色素含有量を決定する要因として,その濃度が低い範囲では,色素蓄積細胞の割合が大きく関与しており,それ以上の範囲では細胞内含有量の変化が大きく関与していることも明らかにしている。

 第4章では,軟寒天培地上で細胞を連続的に顕微鏡観察し,個々の細胞の増殖および色素生産挙動について解析している。細胞分裂前後での,細胞サイズの経時変化を第2章で開発した方法により定量した。その結果,本培養系では,細胞分裂の際に,細胞は,その大きさおよび色素の分布に関してほぼ均等に2分されることが明らかになった。しかしながら,細胞内色素含有量に関しては,平均値の変化とは無関係に,個々の細胞ごとに全く異なった変化の挙動を示しており,その変化挙動が細胞分裂に依存したものではないことを明らかにした。植物細胞培養系において,個々の細胞の二次代謝物生産挙動を明らかにしたのは,本研究が初めてである。

 第5章において,色素生産機構を表現するモデルを提唱し,ポピュレーションダイナミクスという観点から考察を行った。そのモデルでは,細胞集団が色素生産能力について正規分布を持つものとし,培養条件は平均値にのみ影響し,その分散には影響を与えないと仮定したところ,各種培地条件における色素生産プロファイルとよく一致することを明らかにした。また,このモデルにより,平均色素含有量と色素蓄積細胞の割合の相関をうまく説明することが可能となった。さらに,色素高生産細胞の選抜を行い,樹立した細胞集団の色素生産プロファイルが,実際に,高濃度側へのシフトしていることを明らかにし,植物培養細胞における二次代謝物生産能力の遺伝的なばらつきの存在と,生産性向上に対する選抜の有用性を示した。

 第6章においては,本研究を総括し,今後の展望を述べている。

 以上述べてきたように,本論文は,植物培養細胞の二次代謝物生産の不均一性を評価するための画像解析による新規な方法を提案し,その有効性を示すとともに,これを用いて,種々の培養条件における個々の細胞の二次代謝物生産の頻度分布とその時間的な変化を測定し,不均一性を決定する要因について検討を行なったもので,植物培養細胞を用いた工業的物質生産のみならず,遺伝子組換え植物の育種や微生物の混合培養系の解析にも応用可能なものであり,生物化学工学の発展に貢献するものと期待される。よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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