鱗翅目昆虫の性フェロモンの生合成に関し、フェロモン生合成活性化神経ペプチド(pheromone biosynthesis-activating neuropeptide、以下PBAN)による制御機構が発見されて以来、フェロモン産生に関連する要因として、PBANの標的器官、PBANにより活性化される生合成経路段階、PBANによる細胞内シグナルカスケードに着目した数多くの研究が行われている。しかし、細胞レベルでの研究は極めて少なく、フェロモン産生過程における細胞内ダイナミクスはもとより、フェロモン産生細胞の同定すら明確になされていない。 こうした観点から、本研究では、カイコガBombyx moriを用い、フェロモン産生細胞の同定を行うとともに、そしてフェロモン腺産生細胞に存在する特徴的な球状顆粒に着目し、そのフェロモン産生における役割とダイナミクスを生理・生化学的および細胞学的手法を用いて解析した。 1.カイコフェロモン産生細胞の同定 フェロモン産生過程の細胞レベルでの解析の端緒として、フェロモン産生細胞の分離および同定を行った。カイコフェロモン腺は第8-9腹節節間膜が機能的に分化した器官である。この節間膜は典型的なクチクラ層および一層からなる真皮細胞層として構成されている。そこで、まずカイコ性フェロモンであるボンビコール産生細胞を同定する目的でフェロモン腺を各種酵素により消化し、細胞層のクチクラ層からの分離を行った。その結果、パパイン消化により、両層は効果的に分離され、真皮細胞層は一層の細胞クラスターとして得られた。 そこでセルフリー系およびin vitroの系を用いてボンビコール産生能を検定したところ、真皮細胞クラスターにおけるボンビコール産生能、またそのPBANに対する応答性の存在から、これらの細胞はPBAN受容体を含めフェロモン産生のintegrityをすべて保持した細胞群である事が明らかとなった。また、真皮細胞を構成する個々の細胞はいずれもボンビコール産生に関与する(後述)球状顆粒を持つことから、これらの細胞全てがボンビコール産生細胞であると考えられた。 パパインによるフェロモン産生細胞の分離法の確立は、フェロモン産生過程における細胞内ダイナミクスの解析などに重要な役割を果たすものと考えられる。 2.ボンビコール産生細胞に存在する球状顆粒の性質 光学顕微鏡観察によりボンビコール産生細胞に認められる球状顆粒は、処女雌では羽化当日から羽化1日後にかけてそのサイズが縮小するとともに数が劇的に増加したのち、羽化2日後には数が減少した。ところが、羽化30分後に断頭したところ、球状顆粒に以上の変化が起こらなくなった。そこで、断頭雌にPBANを注射したところ、処女雌と同様にボンビコール産生細胞の球状顆粒のサイズが縮小し数が劇的に増加した。これらの結果からボンビコール産生細胞の球状顆粒は、PBANによるボンビコール生合成と密接な関連を有することが示された。 3.ボンビコール産生細胞球状顆粒のフェロモンの前駆体としての役割 ボンビコール産生細胞の球状顆粒は、細胞内油滴のプローブであるNile Redで染色されたことから、脂質顆粒(油滴)であることが示唆された。そして、フェロモン腺をアセトンに浸漬するとNile Redによる球状顆粒の染色が消失したことから、Nile Redで染色された球状顆粒の内容物はアセトン浸漬によりボンビコール産生細胞外に滲出する脂質であることが明らかになった。そこで、この球状顆粒が形成されていない羽化2日前と形成されている羽化当日で、このアセトン滲出物を薄層クロマトグラフィーおよび高速液体クロマトグラフィーで分析し比較したところその主成分の量に明瞭な差が認められた。Fast Atomic Bombardment Mass Spectrometryによりフェロモン腺のアセトン滲出物の主成分を分析すると、ボンビコールの前駆体である10,12-hexadecadienoic acid、11-hexadecenoic acid、オレイン酸、リノール酸、リノレン酸のいずれかを構成脂肪酸に有する様々な分子種のトリアシルグリセロールの混合物であることが明らかになった。また必須脂肪酸であるリノール酸、リノレン酸の存在から、球状顆粒中の脂質の由来がボンビコール産生細胞の細胞質でのde novo合成以外にも存在することが示唆された。 また、フェロモン腺のミクロソーム画分にはアシルCoAシンセターゼ、アシルCoAレダクターゼ、およびがこれらの酵素によりボンビコールに変換されるボンビコール遊離脂肪酸前駆体が存在することが示唆されている。ミクロソーム画分をヘキサンで抽出するとそのボンビコール産生能が低下するが、そこにヘキサン抽出物を加えるとボンビコール産生能が回復することから、フェロモン腺のミクロソーム画分に存在するボンビコールの前駆体の脂質がヘキサンにより抽出されることが示された。Fast Atomic Bombardment Mass Spectrometryにより、フェロモン腺ミクロソーム画分のヘキサン抽出物には、10,12-hexadecadienoic acid、11-hexadecenoic acid、オレイン酸、リノール酸、リノレン酸が存在することが明らかになった。しかもこれらの脂肪酸はフェロモン腺のアセトン滲出物のトリアシルグリセロールの構成脂肪酸と同一であることから、トリアシルグリセロールからリパーゼによる加水分解により生じたものと考えられた。 4.ボンビコール産生細胞の球状顆粒の形成機構 羽化前の蛹のフェロモン腺を光学顕微鏡観察したところ、羽化2日前から羽化1日前にかけて球状顆粒が形成されることがわかった。そこで、羽化2日前から羽化当日のフェロモン腺の電子顕微鏡観察を行った。羽化2日前においてボンビコール産生細胞の細胞質には滑面小胞体の発達、さらに電子密度の低い小顆粒が認められ、de novoの脂質合成が活発に起こっていることが窺われた。羽化1日前においてボンビコール産生細胞の基底膜側からの陥入が著しくなり、さらに、その細胞質に電子密度の不均一な球状顆粒が形成された。そして、羽化当日には、一様に高い電子密度を有する球状顆粒が存在した。これらの観察結果から、ボンビコール産生細胞の球状顆粒の形成には、羽化2日前でのde novoの脂質合成、羽化1日前での基底膜側からの陥入にともなう球状顆粒構造の形成、そして羽化1日前から羽化当日の間に進行する球状顆粒の成熟が関与することが推測された。 さらに、脂質を含む球状顆粒の形成に関与することが考えられる因子として、アシルCoAの細胞内輸送に関与することが知られているアシルCoA結合タンパク質と、昆虫の体液中でのジアシルグリセロールの輸送に関与するリポタンパク質であるapolipophorin IIIに着目した。これらに関して、まずウェスタンブロッティングにより量的変動を調べると、両者ともその量は羽化2日前から羽化当日にかけて増加することがわかった。免疫蛍光染色により、両者ともボンビコール産生細胞に存在し、羽化2日前に比較して羽化1日前と羽化当日においてより強く染色されることがわかった。さらに免疫電子顕微鏡観察を行ったところ、apolipophorin IIIに関しては、羽化1日前および羽化当日においてボンビコール産生細胞の基底膜付近の体腔での局在が認められ、またその分布が基底膜部分および細胞内にも認められたことから、球状顆粒の形成過程において、apolipophorin IIIが体液から基底膜を経てボンビコール産生細胞内へ導入されていることが窺われた。一方アシルCoA結合タンパク質に関しては、羽化当日のボンビコール産生細胞において、球状顆粒に接触する核での局在が認められた。これらの結果から、ボンビコール産生細胞の球状顆粒の形成過程にはapolipophorin IIIを介した脂質の細胞内への導入が関与していることが考えられた。それに対しアシルCoA結合タンパク質に関しては、細胞質に存在する球状顆粒が発達して大型化し核に接触するまでに至った後のプロセスへの関与が考えられた。 以上、本研究において、カイコの第8-9腹節節間膜の真皮細胞をフェロモン産生の機能を備えた均質な細胞のクラスターとして単離し、ボンビコール産生細胞であることを証明した。次にボンビコール産生細胞に特徴的な形態である球状顆粒に関して、ボンビコール産生にともない形態変化する性質を有すること、さらにその実体がボンビコール前駆体貯蔵の役割を有する脂質顆粒(油滴)であることを明らかにした。球状顆粒中の脂質における必須脂肪酸の存在、球状顆粒の形成過程で認められるボンビコール産生細胞への基底膜からの陥入構造、そして体腔からボンビコール産生細胞内へのapolipophorin IIIの導入が窺われることから、ボンビコール産生細胞の球状顆粒に含まれる脂質の由来として、細胞質でのde novoの脂質合成に加え、体液からの脂質の導入が示唆された。 |