学位論文要旨



No 115243
著者(漢字) 黄,継栄
著者(英字)
著者(カナ) ファン,ジロン
標題(和) 水稲の低温湛水土壌条件下での出芽の機構に関する研究
標題(洋) Studies on the Mechanism of Seedling Emergence of Rice under Low Temperature and Submerged Soil Conditions
報告番号 115243
報告番号 甲15243
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2088号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋田,重誠
 東京大学 教授 石井,龍一
 東京大学 教授 坂,齊
 東京大学 助教授 山岸,徹
 東京大学 助教授 高野,哲夫
内容要旨

 温帯地域における稲直播栽培を安定化するためには、湛水土壌条件下での出芽を高めることが最も緊急な課題となっている。直播された水稲種子が土中で発芽した場合には、発芽と同時にすべての器官が同じような成長を示すのではなく、まず、鞘葉のみが伸長する。この鞘葉が土中、水中を通り抜け、大気中に出ることにより、はじめて酸素が葉や根などの諸器官に供給され、これらの諸器官が成長を開始する。したがって、水稲の出芽の安定化にとっては鞘葉の伸長が不可欠な条件となる。

 イネは他の作物に比べると、嫌気条件下での出芽能力が高いことは知られているが、水田土壌中のように酸素がほとんど無い条件下での発芽、鞘葉伸長の制御機構はいまだ不明な点が多い。したがって、この鞘葉伸長に関する生理的、分子的機構を解明することは出芽能力が高い直播向け品種の開発および安定性の高い栽培技術の確立にとって重要な課題である。

 これまで、イネの嫌気条件に対する適応機構についての研究は主に細胞質酸性化の抑制、エネルギーと糖の供給、嫌気代謝にともなって生じる有害物質など代謝経路を中心になされてきた。しかし、極めて重要な経路である糖の生産、即ち澱粉分解過程が嫌気条件下でどのように行われているかについては十分な知見は得られていない。

 本研究ではまず澱粉分解過程における主要酵素である-アミラーゼと鞘葉伸長の関係について詳しく検討した。次いで、嫌気条件下での主なエネルギー生産経路であるアルコール発酵過程において、アルコール脱水素酵素(ADH)が鞘葉伸長に及ばす影響を評価した。また、鞘葉伸長の過程では細胞の分裂が殆ど行われず、鞘葉伸長は主に細胞の拡大によるとされているが、細胞の伸長には細胞壁に関わるexpansinによる制御の可能性が示唆されており、expansinと鞘葉伸長の関係についても検討し、以下の結果を得た。

1.鞘葉伸長と糖及び-アミラーゼの関係

 イネ種子を土壌中1.0cmの深さに播種し、低温(18℃一定)・1.5cmの冠水をした湛水条件下で発芽させた。その結果、供給した108品種のうち、27品種では鞘葉伸長が認められなかった。このような鞘葉伸長ができない原因を解明するため、切り離した胚を空気中と窒素ガス中におき、これらをそれぞれ0,0.5,1.0,1.5,2.0%の糖濃度下で培養した。糖供給がない場合には鞘葉伸長が見られなかった。大気中下での胚の生長は糖濃度1%の場合が最も速く、インタクトの種子よりも速かった。従って、種子発芽の時には糖の供給が不足している可能性が示唆された。窒素ガス中においた胚では品種と糖濃度により鞘葉伸長速度は大きく異なった。品種M401では鞘葉の長さは糖濃度の影響をあまり受けなかったが、長香稲と水原287号ではそれぞれ1.0%と1.5%下で最も伸長程度が大きかった。このような品種では糖により発芽或いは鞘葉伸長が阻害される可能性があることが示された。しかし、同じ糖濃度でも品種により鞘葉の長さは著しい変化を示しており、糖のみによってはこの違いは説明できなかった。このことは、鞘葉伸長には糖以外の要因が関わることを示していよう。

 ついで、-アミラーゼの発現と鞘葉伸長の関係を調べるために、低温湛水土壌中では出芽しない水原287号と比較的出芽のよい日本晴を用いて大気、湛水、湛水土壌中の三条件下で発芽させた。発芽した種子では各条件下とも、7つのアイソフォームが検出された。その中で、アイソフォームE,G,H,F,Kは嫌気条件下で活性が増加したが、AとBは好気条件下でのみ活性が強く現れた。アンソフォーム同定によりアイソフォームAとB、EおよびGとHはそれぞれRAmy1A、RAmy3E、RAmy3D遺伝子から翻訳されることを明らかにした。湛水土壌中で鞘葉伸長ができない水原287号ではアイソフォームAしか検出されなかった。従って、鞘葉伸長に対して他のアイソフォームが深い関わりを持つと考えられた。ついで、鞘葉の長さと各アイソフォーム活性について相関分析した結果、アイソフォームHの活性と鞘葉長の間に高い正の相関が見られた。

 -アミラーゼ遺伝子の発現について、Northern blotとin situ hybridization法を用いて解析した。その結果、湛水土壌中ではRAmy1A遺伝子の発現が強く抑制されたのに対し、RAmy3Dの発現が高かった。RAmy3Dの発現パターンは鞘葉伸長のできる品種とできない品種の間で明らかに異なることを見いだした。すなわち、水原287号、密陽23号では播種後6日と7日目にはRAmy3Dの発現が見られなかったが、日本晴、長香稲ではこれが見られた。この結果はRAmy3D -アミラーゼが主にpost-transcriptionのレベルで調節されている可能性を示唆した。

2.湛水土壌中条件下でのアルコール脱水素酵素(ADH)と鞘葉伸長

 ADH活性は成熟した種子中ですでに見られ、湛水土壌中条件下でもすべての品種で誘導された。また、湛水土壌中条件下で鞘葉伸長ができる品種ではADHアイソフォームは3本を検出されたが、鞘葉伸長ができない品種では1本しか検出されなかった。さらに、ADH活性の増加速度は嫌気条件に近い湛水土壌中で最も速いのに対し、鞘葉伸長は酸素濃度が嫌気条件よりは高い水中で最も速い。したがって、ADH活性と鞘葉伸長程度は常に平行的に変化するとは限らない。これまでの報告では、ADH活性と植物の嫌気条件下での成長量との間に相間が見られるとされてきたが、本研究においては、鞘葉伸長程度とADH活性の間には必ずしも相関が見られないことが明らかになった。

3.鞘葉伸長とexpansinの関係

 水稲品種日本晴を用いて、大気中、水中、湛水土壌中で伸長した鞘葉の細胞壁の伸展性は酸性(pH4.5)液の中で90分間測定した。湛水土壌中と水中で伸長した鞘葉の細胞壁は空気中で伸長したものよりそれぞれ3倍と2倍程度伸長量が大きかった。この酸性液中での伸長はexpansinによるものである。本研究では4つの-expansin遺伝子について検討したが、Os-EXP4とOs-EXP2の発現は水中条件下で強く誘導され、湛水土壌中と大気中では発現が低かった。なお、Os-EXP4の発現はOs-EXP2より強かった。しかし、湛水土壌中では鞘葉が土壌から出るとOs-EXP4とOs-EXP2の発現は水中条件下のものと同じ発現パターンを示した。Os-EXP3とOs-EXP1はどの条件下でも発現が見られなかった。-expansinの発現部位は主に鞘葉の中上部であり、-expansin遺伝子の発現パターンと各条件下での鞘葉伸長のパターンは一致した。

 なお、Os-EXP4遺伝子は空気中で生長した苗のメソコチル、幼葉の先端と根冠でも発現することが見られた。水中ではOs-EXP4の発現は、主に根冠で観察された。このような結果はexpansinの発現が出芽と強い関連性を持つ可能性を示唆している。さらに、イネ種子の成熟過程でのexpansinの発現について検討したところ、発育中の種子ではOs-EXP2が主として発現し、Os-EXP1もわずかに発現することを明らめにした。しかし、Os-EXP3とOs-EXP4遺伝子は種子中でも殆ど発現しなかった。これら種子の成熟過程で発現するexpansinは発芽直後の細胞壁の伸長に必要と考えられた。

 以上、低温・湛水土壌中条件下での水稲の鞘葉伸長に対してはRAmy3 -アミラゼーの合成が重要であり、形態変化に対してはexpansinが関与している可能性が明らかとなった。また、発芽中の種子ではRAmy3 -アミラゼーとアルコール脱水素酵素アイソフォーム、Adh2-Adh2の発現は連動性が高いことが認められた。また、expansin遺伝子の発現は葉、根、メソコチルなどの成長にも関わっており、湛水土壌中からの出芽全体に強い影響を及ぼすと考えられた。

審査要旨

 イネは熱帯から亜熱帯にかけての原産であり、初期生育が比較的低温下にある温帯地域で安定した栽培をするために、移植栽培が広く行われてきた。しかし、育苗、移植という作業は時間と労力がかかるうえ、近年は農家人口が急減している。このような状況のなかで、世界的に水稲の直播栽培に強い関心が寄せられている。この水稲の直播栽培の安定化のためには湛水した土壌中に播種しても十分に出芽することが不可欠の条件となる。本研究は水稲が温帯地域で湛水土壌中から安定して出芽するための科学的根拠を明らかにしようとしたもので、以下の3章からなる。

 第一章では低温湛水土壌条件下での出芽とデンプン分解過程との関係について検討した。その結果、低温湛水土壌条件下での鞘葉伸長に対しては、これまで発芽時のデンプン分解に関わる主要酵素とされてきたアイソフォームAではなく、RAmy3D遺伝子から翻訳されるアイソフォームHがより深い関わりを持つ可能性を明らかにした。また、-アミラーゼ遺伝子の発現について、Northern blotとin situ hybridizationを用いて解析し、湛水土壌中ではRAmy1A遺伝子の発現が強く抑制されたのに対し、RAmy3Dの発現が高く、RAmy3Dの発現パターンは鞘葉伸長のできる品種とできない品種の間で明らかに異なることを示した。これらの結果から、RAmy3D-アミラーゼが湛水土壌中でのデンプン分解の主要な律速過程であり、この発現はpost-transcriptionのレベルで調節されている可能性が高いことを示した。ついで、切り離した胚を空気中と窒素ガス中におき、これらをそれぞれ異なる糖濃度下で培養、培地中糖濃度と鞘葉伸長の関係を検討した。この結果、同じ糖濃度でも品種により鞘葉の長さは著しい変化を示しており、鞘葉伸長には糖以外の要因が関わることを示した。

 第2章では嫌気条件下での鞘葉伸長に関わる糖以外の要因としてアルコール脱水素酵素(ADH)との関連性について検討した。その結果、湛水土壌中条件下で鞘葉伸長ができる品種ではADHアイソフォームは3本見られたのに対し、鞘葉伸長ができない品種では1本しか検出されないこと、さらに、ADH活性の増加速度は嫌気条件に近い湛水土壌中で最も速いのに対し、鞘葉伸長は嫌気条件よりは酸素濃度がわずかに高い水中で最も速いことを明らかにした。この結果から、ADH活性と鞘葉伸長程度は常に平行的に変化するとは限らないことを示した。

 第3章では前述した代謝に関わる諸要因以外の要因として鞘葉の形態に大きな影響を及ぼすと考えられている-expansin遺伝子と鞘葉伸長の関係について検討した。その結果、4つの-expansin遺伝子(Os-EXP1、Os-EXP2、Os-EXP3、Os-EXP4)のうち、Os-EXP4とOs-EXP2の発現は水中条件下で強く誘導され、湛水土壌中と大気中では発現が低いこと、湛水土壌中では鞘葉が土壌から出るとOs-EXP4とOs-EXP2の発現は水中条件下のものと同じ発現パターンを示し、Os-EXP3とOs-EXP1はどの条件下でも発現が見られないこと、さらには、-expansinの発現部位は主に鞘葉の中上部であり、-expansin遺伝子の発現パターンと種々の条件下での鞘葉伸長のパターンは一致することなどから鞘葉の伸長に-expansinが関与し、出芽にも影響を及ぼす可能性を示した。さらに、イネの開花受精後の種子の成長過程でのexpansin発現について検討し、発育中の種子ではOs-EXP2が主として発現し、Os-EXP1もわずかに発現するが、Os-EXP3とOs-EXP4遺伝子は殆ど発現しないことを明らかにした。これら受精後の種子成長過程で発現するexpansinは発芽時の細胞壁の伸長に必要である可能性が高いことを示した。

 以上、本論文は水稲の低温・湛水土壌中での出芽の機構を代謝、形態面から解析、制御のための対象形質を明らかにした。本研究は今後の温帯地域における水稲の直播栽培の安定化に大きく寄与するものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと判定した。

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