学位論文要旨



No 115248
著者(漢字) 藤巻,秀
著者(英字)
著者(カナ) フジマキ,シュウ
標題(和) トビイロウンカ口針を用いたイネ植物体への篩管への物質注入法(MUSI法)の開発
標題(洋)
報告番号 115248
報告番号 甲15248
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2093号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 林,浩昭
 東京大学 教授 松本,聰
 東京大学 教授 日比,忠明
 東京大学 教授 森,敏
 東京大学 教授 山口,五十麿
内容要旨

 高等植物の篩管は、各種栄養成分の長距離輸送を担う器官として古くから知られ、しばしば高等動物の血管に例えられてきた。近年では、篩管液中に様々なタンパク質、RNAなどが発見されており、栄養成分のみならず情報の伝達に関しても重要な役割を担っていると考えられている。また、篩管は篩部要素と呼ばれる核を失った細胞の連なりによって構成されているため、篩管内のタンパク質やRNAは隣接する伴細胞から原形質連絡を通って篩部要素に供給されるものと考えられており、この篩部要素-伴細胞複合体は原形質連絡を介した細胞間の物質移行の面から見ても興味深い研究対象となっている。これらの観点から篩管を研究する際、例えば、篩管内に発見された特定のRNAがどのような機能や活性を持つかというアッセイ、あるいは伴細胞-篩部要素間の原形質連絡を通過可能な物質の分子量限界の測定といった研究を進める上で、植物体の外部から望みの物質を篩管に導入する技術が強く求められる。しかし、タンパク質や核酸といった高分子物質を外部から篩管に導入しようとする場合、細胞膜を通過できる一部の低分子物質の場合と異なり葉面散布などの間接的な方法は用いることができない。直接的に篩管に物質を注入する方法があれば、高等動物や人間の血管に薬剤を注射するのと同様に、篩管の研究にとって大きな助けとなるはずである。

 近年、微細なガラス針を細胞に挿入するマイクロインジェクション法を用いて高等植物の篩管に物質を注入した例がいくつか報告されている。ただし、高等植物の篩管は非常に細く(イネの場合で直径およそ10m以下)、また表皮以下何層もの厚く堅い細胞壁を持つ細胞の下に存在しているために、生きた植物体の篩管に対してマイクロインジェクションを直接行なうことは極めて難しい。そのためこれらの報告例のほとんどは、篩部を含む組織片を植物体から切り出して緩衝液中に置き、組織中の篩管に対して顕微鏡下でガラス針を挿入するという技法を用いている。これは正確に篩管にガラス針を挿入するには相当の熟練を要する上、植物組織に与えるダメージが非常に大きいと思われる。

 当研究室では以前より、イネの篩管液を吸汁する害虫であるトビイロウンカ(Nilaparvata lugens STÅL)が篩管に挿入した口針をYAGレーザービームで切断するという手法により、イネから純粋な篩管液を採取し、その分析を行ってきた。本研究ではその手法を逆向きに応用し、生きたイネ植物体の篩管内へ切断した口針を通して物質を直接注入する新たな方法を考案、開発し、The method of micro-introduction using stylet of insects(MUSI法)と命名した。

1.方法の概要

 播種から5週間水耕栽培したイネ(Oryza sativa L.cv.Kantou)の葉鞘に小さなケージを取り付け、トビイロウンカを2、3匹いれて2時間ほど放置した。吸汁を開始したトビイロウンカの口針をYAGレーザービームを用いて切断し、口針の切断面から溢出した篩管液が葉鞘上に小さな液滴(〜1l程度)を形成したことを確認した後、1lのFluoescein Isothiocyanate(FITC)-dextran(平均分子量42kD)溶液を液滴に添加した。数時間から一晩放置し、葉鞘上で乾固した液滴を蒸留水で濯ぎ落とした後、蛍光顕微鏡を用いて葉鞘の口針付近を表面から観察、また横断切片を作製して維管束を観察した。すると、維管束内部に口針挿入部位から葉身・基部両方向に最大で数百mにわたってFITCの蛍光が見られ、その横断切片において一個の篩部要素のみにFITCの蛍光が見られるという例がいくつか観察された。これにより、本MUSI法を用いて生きたイネ植物体の一本の篩管に物質を注入できることが示された。

2.注入した物質の分子量の違いによる存在分布の違い

 FITC-dextran(分子量約42kD)とTetramethylrhodamine(TMR)-dextran(分子量約3kD)の混合溶液(3%FITC-dextran,1.5%TMR-dextran)を上述のMUSI法で注入した。横断切片を観察したところ、FITCの蛍光の存在部位は一つの篩部要素に限られていたが、TMRの蛍光はその篩部要素を含む篩部全体(メストム鞘細胞より内側)に拡がっていた。イネの成熟した篩部要素は伴細胞との間にのみ原形質連絡を持つことが知られているため、この結果は篩部要素-伴細胞間の原形質連絡の分子量限界が3kDから42kDの間にあることを示唆している。

3.RNAの注入:翻訳の可能性

 33PラベルしたGreen Fluorescent Protein(GFP)のRNAを合成し、MUSI法による篩管への注入を行い、その移行をマクロオートラジオグラフィーで検出した。その結果、注入した部位から葉身側、葉鞘の基部側、根、他の葉などへの33Pの移行が観察された。この実験ではRNAの分解産物を同時に検出している可能性があるので、注入したRNAの篩管を通した長距離移行を直接証明するものではないが、一個の篩部要素を起点にした様々な物質の長距離移行をラジオアイソトープを用いて研究することへの可能性を示すものである。

 次に、GFPの非標識RNAをMUSI法によりイネ葉鞘にアプライした。翌日、注入部位を含む部分からタンパク質を抽出し、抗GFPモノクローナル抗体を用いたウェスタン解析を行ったところ、GFPと推定されるバンドが検出された。この結果は篩管内に存在するRNAが篩管内で翻訳される、あるいは他の細胞に移行した後翻訳される可能性を示唆しており、この現象を今後厳密に検証していくことは、近年注目されている篩管内RNAの役割を考える上で重要であると思われる。

4.総合考察

 篩管液はイネの場合で10%以上のスクロースを含むため、篩管内の膨圧は1MPaを超えるとされており、本MUSI法において物質が外部から圧力をかけることなく口針を通じて篩管内に入っていくメカニズムは明らかでない。しかし、注入した蛍光物質の動きが篩板により妨げられているように見受けられること、当研究室で篩管液を採取する際に切断した口針からの篩管液の溢出速度が通常数時間のうちに徐々に低下してくることなどから、篩管液の流出や傷害に伴って起こるとされている篩孔の封鎖が数時間のうちに徐々に起こり、口針内において篩管液の溢出速度が注入しようとする物質の拡散速度よりも低くなった後に、注入が起こるのではないかと推察している。

 アブラムシの口針を用いて様々な植物から篩管液を採取する方法は広く世界で用いられており、MUSI法の他の植物種への応用が期待できる。本法が今後様々な面で改良・応用され、様々な研究に用いられることを願う。

審査要旨

 高等植物の篩管は、各種栄養成分の長距離輸送を担う器官であり、しばしば高等動物の血管に例えられてきた。近年では、篩管液中から様々なタンパク質、RNAなどが発見され、栄養成分のみならず情報の伝達に関しても重要な役割を担っていると考えられている。篩管内のタンパク質やRNAは、隣接する伴細胞から原形質連絡を通って篩部要素に供給されるものと考えられており、この篩部要素-伴細胞複合体は原形質連絡を介した細胞間の物質移行の面から見ても興味深い研究対象となっている。これらの観点から篩管を研究する際、植物体の外部から望みの物質を篩管に直接導入する技術が強く求められている。そのような技術として、微細なガラス針を細胞に挿入するマイクロインジェクション法が注目されているが、この方法は技術的に熟練を要するうえ、篩部を含む組織片を用いたものが多く、完全な植物体の篩管に対して物質を直接注入するものではない。著者は、直接注入する方法として、イネの篩管液を吸汁するトビイロウンカを用いた篩管液の採取法に着目した。本論文は、トビイロウンカが篩管に挿入した口針をレーザービームで切断し、この口針を通して篩管内へ物質を直接注入する新たな方法を考案、開発して報告したものである。論文はThe method of micro-introduction using stylet of insect(MUSI法)と命名した方法と、これを応用したいくつかの研究実例を併せて報告しており、4章から成る。

 第一章では研究の背景や意義について述べている。第二章では実際に蛍光色素をイネの篩管へ注入した例を示してMUSI法について説明している。イネの篩管への蛍光色素の注入は、イネの葉鞘から吸汁しているトビイロウンカの口針を切断し、切断面から溢泌した篩管液滴に、蛍光色素溶液を添加して行った。数時間後に蛍光顕微鏡を用いて葉鞘を表面から観察、また横断切片を作製して維管束を観察した。その結果、口針挿入部位から葉身・基部両方向に数百mにわたって色素の蛍光が維管束内部に検出され、その横断切片において一個の篩部要素のみに蛍光色素が検出された。これにより、MUSI法を用いて完全なイネ植物体の篩管内へ物質を直接注入できることが示された。

 第三章では、開発したMUSI法が、篩管-伴細胞間の物質移行の研究と、篩管内RNAの機能解明に向けた研究に有効な手法であることを示すべく、3つの実験を行っている。一つ目は、MUSI法により篩管に注入した物質の存在分布が物質の分子量の違いに依存して異なることを示した実験である。蛍光波長と分子量の異なる二種類の蛍光色素、FITC-dextran(分子量約42kD)とTMR-dextran(分子量約3kD)の混合溶液をMUSI法によりイネ葉鞘の篩管に注入した。横断切片を観察したところ、FITCは一つの篩部要素に限られて検出されたが、TMRはその篩部要素を含む篩部領域全体に拡がって検出された。この結果から篩部要素-伴細胞間の原形質連絡の分子量限界が3kDがら42kDの間にあると推定している。二つ目の実験は、放射性標識をしたRNAやUTPをMUSI法によりイネ葉鞘にアプライした後、それらの標識物質がどのように植物体中を長距離移行するかをオートラジオグラフィーにより示したものである。オートラジオグラフを比較することにより、篩管を通した植物体全身への転流や、篩管から周囲の組織への転流物質の積み下ろしの性質について考察している。三つ目の実験は、RNAが篩管内で翻訳されうるのではないかという、海外の研究グループによって近年提示された仮説の検証を目的として行われたものである。Green Fluorescent Protein(GFP)のRNAをイネ葉鞘にMUSI法でアプライした後、アプライ部を含む周囲の組織からタンパク質を抽出し,抗GFPモノクローナル抗体を用いてwestern blot analysisを行ったところ、抗体に反応するタンパク質のバンドが検出された。このことから、まだ様々な可能性について検討しなければならないものの、当該仮説に対して肯定的なデータが得られている。

 第四章では、総合的な考察とこの新手法の応用性など今後の展望が述べられている。

 以上、本論文は、完全なイネ植物体の篩管内へ物質を直接注入する新たな方法が開発できたことを報告するとともに、篩管の研究においてこれまで技術的に困難であった分野に対してこの方法が有効であることをいくつかの応用実例によって示したものであり、学術上、応用上、貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士〔農学〕の学位論文として価値あるものと認めた。

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