学位論文要旨



No 115253
著者(漢字) 岩本,悟志
著者(英字)
著者(カナ) イワモト,サトシ
標題(和) 食品ハイドロコロイド内における分子の動的挙動に関する誘電解析
標題(洋)
報告番号 115253
報告番号 甲15253
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2098号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 助教授 吉村,悦郎
 東京大学 助教授 宮脇,長人
内容要旨

 分散媒が水で、微粒子(通常、1nmから1m)が分散した系をハイドロコロイドと呼ぶ。ハイドロコロイドには、ゾル、ゲル、エマルション、サスペンションなど様々な形態があるが、食品の多くは多成分のハイドロコロイドである。食品ハイドロコロイドは、濃度、温度、添加物等を変化させることにより、ゾルからゲル、液状から固体状などの相変化・形態変化を起こす。また、近年、食品保蔵の観点からガラス転移が着目されているが、多くのガラス状食品は、濃厚なハイドロコロイドを急冷ないしは乾燥させて得られる。食品製造、輸送において、ハイドロコロイドは、そのような形態変化が積極的に用いられたり、液状食品の分散性、乳化性、安定性を改善するための添加物として用いられるなど、用途は広い。

 食品ハイドロコロイドの有効利用のためには,体系的に、物性・機能と構造との対応関係を把握することが必要となる。しかし、一般に、コロイド分散系においては、単に構成成分の官能基レベルでの化学構造やその平衡論的議論のみではその物性挙動は理解できず、高分子鎖の協同的運動や分子集合体の挙動を動力学的に把握することが、不可欠であることが知られている。それゆえ、合成高分子から成るコロイドにおいては、複雑系の解析法として有効なフラクタルやスケーリング理論などの適用が試みられ、また、線形応答理論に基づく系の動的挙動の測定が行われている。

 物質内部の分子の動的挙動を知る方法の一つに線形応答理論に基づく誘電緩和法がある。誘電緩和とは、試料に印加する外部電場の周波数の増加に伴い、誘電率’が低下、電気伝導度が増加、かつ誘電損失"が極大を示す現象である。誘電緩和法は、高分子科学の分野においても、高分子の凝集構造や運動様式を調べる手法として広く利用されている。これは、高分子鎖は多くの運動の自由度を持ち、それぞれの運動に伴う電気双極子のゆらぎにより高分子分散系が多様な誘電緩和を示すからである。

 本研究では、希薄系から濃厚系に至るまで、食品ハイドロコロイドの組成・分散状態と誘電特性との対応関係に関して検討を行った。特に、近年、食品科学において着目されているガラス転移については、通常の誘電緩和法の適用限界を明らかにし、電気弾性率を用いた解析を試みた。結果を以下に要約する。

1章理論

 本章では、先ずゾル-ゲル転移やガラス転移など、食品ハイドロコロイドの状態変化についての説明を行った。特に濃厚系で観測されるガラス転移に関する熱力学理論の概説もあわせて行った。次に誘電緩和現象について概説し、希薄溶液から濃厚試料に至るまで、交流電場における高分子の分子鎖運動の理論について述べた。また、ガラス転移現象で観測される分子鎖運動(緩和、緩和)についてもここで説明を行った。さらに高い電気伝導性を有する系にしばしば適用される電気弾性率を用いた解析法についても概説した。最後に、緩和のデータから緩和時間を算出する際に用いられる緩和の現象論的記述式の紹介を行った。

2章電気物性測定法および熱測定法

 本章では、本研究で行った電気物性測定と熱測定についての説明を行った。先ずは交流電場における誘電率を始めとする電気物性測定法について説明した。次いで、塩などの電解質を含む液体試料の測定において問題となる電極分極とその補正法について述べた。本研究では、ゾルやゲル試料測定の際は白金黒付き白金電極を作成し、それを用いて電気物性の測定を行った。一方、ガラスやラバー状態の試料については、ゾルやゲル試料に比べて系の電気伝導度はかなり低く、本実験の範囲内では、電極分極の影響はほとんど見られなかったので、電極は市販の固体試料用電極を使用した。

 最後に示差操作熱量測定(DSC)によるガラス転移温度Tgの決定法について説明を行った。

3章誘電緩和法によるタンパク質ゾルおよびゲルの状態解析1)

 本章では、タンパク質ゾル及びゲルについて、誘電緩和法による状態解析を行った。最初に、ゲルやガラスなど濃厚系の構造を理解する基礎として重要な希薄系について検討を行った。試料としては、球状タンパク質であるウシ血清アルブミン(BSA)、繊維状タンパク質であり、熱可逆ゲルを生じるゼラチンを選定し、誘電率測定は、白金黒付き白金電極を用い、1kHzからl0MHzの周波数範囲で行った。また、溶液中の高分子の状態を反映する粘度の測定をオストワルド型ないしはキャノン-フェンスケ型毛管粘度計で行った。結果として、BSA、ゼラチン共に、測定周波数範囲で誘電緩和が観測された。誘電緩和のデータをCole-Coleの式に回帰して電気双極子の電場への配向の遅れの大きさの指標である緩和時間を算出した。BSAについては、と溶液粘度の間にDebyeの理論の予測通りの比例関係が見られた。このため、BSA溶液で見られる誘電緩和は、電場内での分子の回転運動に起因すると考えられた。ゼラチンに関しては、分子がランダムコイル状態である40℃ではの間に比例関係が見られた。は、溶液中のゼラチン分子が周囲から受ける摩擦力にほぼ比例すると思われることから、40℃における誘電緩和は、ゼラチン分子の末端間距離の揺らぎ等による配向分極により生じると推測された。一方25℃では、0の間には比例関係が見られず、ゼラチン分子のヘリックス化によるjunction zoneの揺らぎ等が緩和に寄与していることが示唆された。

 次に、粘度測定から決定されるゾル-ゲル転移点近傍において、高分子鎖の構造変化に伴う電気物性変化について、ゼラチンを用いて検討を行った。熟成時間あるいは温度を変化させてゲル化させた場合、ゾル-ゲル転移点近傍で、1kHzから10kHzの周波数範囲の誘電率が増加した。

4章誘電緩和法によるガラス状食品の状態解析

 近年、食品保蔵等の観点から食品のガラス転移現象が着目され、様々な食品濃厚試料において、ガラス転移温度Tgが観測されている。特に成分組成(系の水分含量等)とガラス転移温度Tgの関係を表したstate diagramが多く提出されている。一方、最近では、ガラス転移点以下での系の物性変化が注目され、ガラス転移を引き起こす食品分子の運動性に関する知見が必要となってきている。しかし、熱的測定のみからは分子の運動性についての情報は得られず、ガラス状態の分子の運動性を理解することは困難である。そこで、本章では誘電緩和法によりガラス状態の食品試料の状態解析を行った。試料としては、比較物質としてpoly ethylene terephthalate(PET)、脱塩ゼラチン、小麦粉タンパク質を選定し、ガラス状試料の調製を行い、試料のガラス転移点TgをDSCにより決定した。、次に、ガラス状態およびラバー状態の食品成分に関して、誘電緩和法による測定および解析を行った。

 誘電緩和データから、双極子の運動性を表す緩和時間を、"の極大値を与える周波数fmから、=l/(2fm)の関係を用いて求めた。また,絶対温度の逆数に対してをプロット(アレニウスプロット)することにより、活性化エネルギーEactを算出した。PETでは、ガラス状態およびラバー状態において誘電緩和が観測された。ゼラチンについては、ガラス状態で緩和現象が観測され、ガラス状態においても凍結されない運動モードが存在することが確認できた。その緩和時間の値は、温度上昇に伴い、また、同一温度においては含水率の高い試料程低下した。は試料の粘度の増加によって減少すると言われるので、温度および含水率の増加が試料の内部粘度の低下を引き起こし、それによって、が減少したと考えられる。活性化エネルギーEactの値は、含水率の上昇と共に低下した。これらのことは、誘電緩和より得られる緩和時間もしくはEactによって水の可塑剤としての効果が定量的に評価できる可能性を示している。ガラス状態にある小麦粉タンパク質においては、微水系において誘電緩和が観測されたが、低含水率の試料については誘電緩和が確認できなかった。

 また、高水分域およびラバー状態の試料については、"の極大は観測されなかったが、これは直流電導の影響により"の極大がマスクされたためと考えられた。

5章ガラスおよびラバー状態における脱塩ゼラチンの電気弾性率を用いた解析2)

 誘電緩和法は、ガラス状態の高分子分散系の分子の運動様式を調べる手法として有効であるが、試料内に電解質が存在する場合やラバー状態の試料においては、その高い電気伝導性のために誘電率測定が困難になることが多い。そうした高電導の試料の解析には、複素誘電率*(=’-i")の逆数である複素電気弾性率M*=M’+iM"を用いることが有効なことが、イオン伝導性ガラスなどについて知られている。そこで本章では、電気弾性率を用いて、ガラス状態およびラバー状態の脱塩ゼラチンの解析を行った。電気物性測定は、20〜107Hzの周波数範囲、0℃〜55℃の温度範囲で行い、求められた*を複素電気禅性率M*=M’+iM"に変換した。またHavriliak-Negami式を用いM*の虚数部M"の緩和のデータを回帰し緩和時間HNを得た。測定温度の上昇に伴って、試料のM"のピークは高周波数側に移動し、HNは減少した。1/HNのアレニウスプロットは、ガラス状態およびラバー状態の試料で直線となり活性化エネルギーEが求められた。この値は直流伝導度0のアレニウスプロットから算出されたEの値と一致した。このことより観測された緩和は、系内の電解質の電導により引き起こされることが示された。またガラス状態でのEおよびEはラバー状態のそれよりも高い値を示しが、これは、温度の上昇に伴いゼラチン分子鎖の運動が活発になり、イオン電導が促進されたためと推測された。

6章ガラスおよびラバー状態における金属塩含有ゼラチンの電気弾性率を用いた解析

 5章で導入した電気弾性率を用いて、系に電解質が含まれる場合のゼラチン試料についての解析を行った。先ず、脱塩を行っていないゼラチンについて、前章と同じ周波数範囲(20〜107Hz)と温度範囲(0〜55℃)で測定し、含水率のほぼ等しい脱塩ゼラチン試料との比較を行った。試料が、高い電気伝導度を有するため、誘電損失"は周波数の減少と伴に急激に増加し緩和のピークは確認されなかった。一方、同じ試料の複素電気弾性率の周波数依存性のグラフにおいてM"はピークを示し、電解質が系に含まれる場合でも緩和現象が観測された。試料の直流伝導度0は、脱塩を行っていないゼラチン試料の方が高い値を示したが、緩和時間HNは両試料でほぼ等しくなった。

 次に脱塩ゼラチンに塩化カリウムを添加し、ガラス転移温度が60℃の試料を調製した。測定温度範囲を広げて(-20〜90℃)、電気物性測定を行った。1/HNのおよび0のアレニウスプロットにおいて、グラフは、Tg近傍で屈曲した。このことにより電解質を含む系における、ガラス転移に伴うイオンの運動性の変化が、電気弾性率M*により定量的に評価できることが確認された。

 以上、希薄溶液からガラス状固体にいたる濃度領域における食品ハイドロコロイド分散系の分散構造と電気物性に関する解析を行った結果、希薄溶液がらゲルまでの濃度領域においては、誘電緩和法により分散粒子の形態変化や運動性の把握が可能となった。またラバーからガラス状態の濃度領域においては、系の電気伝導度が低い場合には誘電緩和法により、系の電気伝導度が高い場合には電気弾性率を用いることにより、分子の動的挙動の評価が可能であることが示された。本研究で得られた知見は、今後、食品ハイドロコロイドの物性研究の発展に寄与することが期待される。

参考文献1.S.Iwamoto and H.Kumagai,"Analysis of the Dielectric Relaxation of a Gelatin"Biosci.Biotechnol.Biochem.,62,1381-1387,1998.2.S.Iwamoto,H.Kumagai,Y.Hayashi and O.Miyawaki,"Conductance and relaxations of gelatin films in the glassy and rubbery states"Int.J.Biol.Macromol.,26,345-351,1999.
審査要旨

 本研究では、希薄系から濃厚系に至るまで、食品ハイドロコロイドの組成・分散状態と誘電特性との対応関係に間して検討を行った。特に、近年、食品科学において着目されているガラス転移については、通常の誘電緩和法の適用限界を明らかにし、電気弾性率を用いた解析を試みた。本論文は6章からなる。

 第1章においては、先ずゾル-ゲル転移やガラス転移など、食品ハイドロコロイドの状態変化についての説明を行った。特に濃厚系で観測されるガラス転移に関する熱力学理論の概説もあわせて行った。次に誘電緩和現象について概説し、希薄溶液から濃厚試料に至るまで、交流電場における高分子の分子鎖運動の理論について述べた。また、ガラス転移現象で観測される分子鎖運動についてもここで説明を行った。さらに高い電気伝導性を有する系にしばしば適用される電気弾性率を用いた解析法についても概説した。最後に、緩和のデータから緩和時間を算出する際に用いられる緩和の現象論的記述式の紹介を行った。

 第2章においては、本研究で行った電気物性測定と熱測定についての説明を行った。先ずは交流電場における誘電率を始めとする電気物性測定法について説明した。次いで、示差走査熱量測定(DSC)によるガラス転移温度Tgの決定法について説明を行った。

 第3章においては、タンパク質ゾル及びゲルについて、誘電緩和法による状態解析を行った結果、球状タンパク質であるウシ血清アルブミン(BSA)溶液で観測された誘電緩和は、電場内での分子の回転運動に起因すると考えられた。繊維状タンパク質ゼラチンに関しては、分子がランダムコイル状態である40℃において観測された誘電緩和は、ゼラチン分子の末端間距離の揺らぎによるノーマルモード過程により生じると推測された。一方25℃では、ゼラチン分子のヘリックス化によるjunction zoneの揺らぎ等が緩和に寄与していることが示唆された。また、熟成時間あるいは温度を変化させてゲル化させた場合、ゼラチン分子間の絡み合いが、1kHzから10kHzの周波数範囲の誘電挙動に影響を与えることが明らかとなった。

 第4章においては、誘電緩和法によるガラス状態の食品試料の状態解析を行った結果、脱塩ゼラチンについては、ガラス状態で緩和現象が観測され、ガラス状態においても凍結されない運動モードが存在することが確認できた。その緩和時間の値は、温度上昇に伴い、また、同一温度においては含水率の高い試料程低下した。また活性化エネルギーEactの値は、含水率の上昇と共に低下した。これらのことは、誘電緩和より得られる緩和時間もしくはEactによって水の可塑剤としての効果が定量的に評価できる可能性を示している。ガラス状態にある小麦粉タンパク質においては、微水系において誘電緩和が観測されたが、低含水率の試料については誘電緩和が確認できなかった。高水分域およびラバー状態の試料については、誘電損失"の極大は観測されなかったが、これは直流電導の影響により"の極大がマスクされたためと考えられた。

 第5章においては、複素誘電率*(=’-i")の逆数である複素電気弾性率M*=M’+iM"を用いて、ガラス状態およびラバー状態の脱塩ゼラチンの解析を行った結果、観測された緩和は、系内の電解質の伝導により引き起こされることが示された。またガラス状態でのEおよびEはラバー状態のそれよりも高い値を示したが,これは、温度の上昇に伴いゼラチン分子鎖の運動が活発になり、イオン電導が促進されたためと推測された。

 第6章においては、第5章で導入した電気弾性率を用いて、系に電解質が含まれる場合のゼラチン試料についての解析を行った結果、系に電解質が含まれる場合にも電気弾性率による解析が有効であることが示された。また試料内の電気双極子の配向分極に起因する緩和についても複素電気弾性率M*が有用な情報を与えることが示された。

 以上、希薄溶液からガラス状固体にいたる濃度領域における食品ハイドロコロイド分散系の分散構造と電気物性に関する解析を行った結果、希薄溶液からゲルまでの濃度領域においては、誘電緩和法により分散粒子の形態変化や運動性の把握が可能となった。またラバーからガラス状態の濃度領域においては、系の電気伝導度が低い場合には誘電緩和法により、系の電気伝導度が高い場合には電気弾性率を用いることにより、分子の動的挙動の評価が可能であることが示された。本研究で得られた知見は、学術上、応用状貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと判断した。

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