学位論文要旨



No 115256
著者(漢字) 小林,道元
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ミチモト
標題(和) 細胞の分化・脱分化におけるphosphatidylinositol 3-kinaseの役割
標題(洋) The role of phosphatidylinositol 3-kinase in differentiation and dedifferentiation of cells
報告番号 115256
報告番号 甲15256
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2101号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 加藤,茂明
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 吉田,稔
内容要旨

 Phosphatidylinositol 3-kinase(PI3-キナーゼ)は真核生物において高度に保存された細胞内情報伝達に関与する重要な酵素で、PI-3,4,5-三リン酸(PIP3)をおもな反応産物とする。PIP3は2次メッセンジャーとしてはたらき、細胞骨格の構築、細胞運動、小胞輸送、遺伝子転写の活性化など種々の細胞応答を調節する。また、ある種の癌遺伝子によっても活性化を受ける事から癌の発症や進展に何らかの役割をしていると考えられている。本論文はこのPI3-ELEiÅ[E[の機能を解析するため、恒常的に活性化型となっているPI3キナーゼを細胞に発現させ、その表現型からPI3キナーゼの関与する生命現象を解明することを目的とした。しかし、活性化型PI3キナーゼは細胞に毒性を示すことからこれまで細胞内で恒常的な発現は困難であった。本研究では塩基配列特異的レコンビナーゼを保持したアデノウイルスを細胞に感染させることで、染色体上の導入遺伝子の転写の活性化を誘導するシステム(Adexシステム)を用いることで、活性化型PI3キナーゼの細胞での発現を可能にした。

1)PC12細胞の突起伸長におけるPI3-キナーゼの役割とその下流分子の解析

 PC12細胞は様々な増殖因子の刺激を受け増殖を促されるが、NGFなどのある種の因子の刺激によっては神経突起の伸長を示し、神経細胞の分化のモデル細胞として広く研究が行われている。PC12細胞では、NGFの刺激によって細胞内のPI3-キナーゼやMAPキナーゼを含む様々な分子が活性化を受ける。またNGFの刺激によるPC12細胞の突起伸長はPI3-キナーゼの阻害剤で抑制できることから、この突起伸長にはPI3-キナーゼが重要な役割をしていることが考えられる。この突起伸長におけるPI3-キナーゼの役割をより詳細に解明するためAdexシステムを用いて活性型PI3-キナーゼをPC12細胞に発現させた。活性型PI3-キナーゼの発現誘導後、PI3-キナーゼ産物であるPI-3,4-二リン酸とPI3,4,5-三リン酸の細胞内レベルの上昇を検出し、同時に神経様突起の伸長も確認した。さらにこの突起伸長もPI3-キナーゼの阻害剤で抑制できることから、恒常的なPI3-キナーゼ活性の上昇がPC12細胞にある種の神経様突起の伸長を誘導しうる事が明かとなった。そこで、このPI3-キナーゼによって誘導される神経様突起の性質を免疫染色実験によって調べた。NGFによって誘導される神経様突起の伸長端には細胞骨格構成分子F-アクチンおよび神経突起特異的分子GAP-43の集積が見られるが、活性型PI3-キナーゼによって誘導される突起にはこの集積がみられいことから、PI3-キナーゼによって誘導される神経様突起は不完全なものであることがわかった。それに対しPI3-キナーゼによって誘導される神経様突起はNGFによって誘導される神経様突起にくらべ微小官の集積が増強されていた。このことから、PI3-キナーゼは微小官の重合を促進することで神経突起の伸長の一役を担っていることが示唆された。続いてPI3-キナーゼの下流分子の活性化を検討した。その結果、活性型PI3-キナーゼの発現に伴い、Jun N-terminal kinase(JNK)の活性化を検出した。それに対しMAPキナーゼやProtein kinase B(PKB)の活性化は検出出来なかった。これらの結果から、JNKがPI3-キナーゼを介した突起伸長に重要な役割をしている可能性が示唆された。

2)癌の悪性化におけるPI3-キナーゼの役割

 印環細胞癌(低分化型腺癌)は胃癌に頻繁に見られる低分化型腺癌であり侵潤能、転移能に優れている。また、細胞接着能の破綻や、細胞体内に粘液質に富んだ液胞を含むことが典型的な特徴である。

 PI3-キナーゼは、増殖因子の刺激を細胞内に伝達する分子であるが、癌遺伝子産物によっても活性化を受けること、また最近の研究によりモデル動物で癌遺伝子産物として同定された事から細胞の癌化との関連が注目されている。しかしながら、PI3-キナーゼはヒトの癌では癌遺伝子としては未だ同定されてはいない。また、いくつかの癌遺伝子産物との結合は報告されてはいるが、必ずしも癌の発症には必要でないとの報告もある。細胞の癌化はまず第一に異常増殖能の獲得から始まり、浸潤能、転移能の獲得と多段階的に起こることが知られている。またその各々の段階で様々な遺伝子の異常が起こる。本実験は活性型PI3-キナーゼをヒト消化器管癌由来の比較的良性な癌細胞である高分化型腺癌細胞株にアデノウイルス遺伝子誘導発現システムを用いて発現させ、これによって生じる細胞形態の変化を詳細に分析することにより、PI3-キナーゼの癌の発症、進展における役割を解明する目的で行った。

 ヒト胃癌細胞株に活性型PI3-キナーゼをAdexシステムを用いて導入し、その癌細胞の形質の変化を詳細に解析した。高分化型腺癌細胞株HCC2998およびMKN45は細胞同士が互いに接着して増殖するが、活性型PI3-キナーゼを発現させるとPI3-キナーゼ産物の細胞内の発現レベルの上昇に伴い細胞間接着が破綻しバラバラに浮遊増殖した。また、細胞体内に粘液質を含む液胞が見られ、ある種の癌抗原の分泌が上昇した。続いて、ヌードマウスを用いて皮下移植実験を行ったところ、活性型PI3-キナーゼを発現しない細胞が高分化型腺癌に特徴的な管腔を形成したのに対し、活性型PI3-キナーゼを発現した細胞では管腔形成は見られず蜂巣状に増殖した。また、活性型PI3-キナーゼを発現した細胞でのみ移植動物組織への浸潤が見られた。活性型PI3-キナーゼを発現した細胞のシャーレ上および組織中での増殖形態が印環細胞癌に酷似していることから、実際の印環細胞癌由来の細胞株を含む幾つかの胃癌細胞株でPI3-キナーゼ活性を計測することにした。その結果、いくつかの印環細胞癌由来の細胞株で有為なPI3-キナーゼ活性の上昇を検出した。PI3-キナーゼの活性化は以下のような行程を経ると考えられている。1)増殖因子、分化因子のレセプターへの結合。2)増殖因子レセプターの二量化と自己リン酸化。3)自己リン酸化されたチロシン残基へのPI3-キナーゼの結合と比活性の上昇。

 つまり、ある種のチロシンリン酸化された蛋白質がPI3-キナーゼの基質であるイノシトールリン脂質の存在する細胞膜上にPI3-キナーゼを移行させることがPI3-キナーゼの活性化には重要であると考えられる。従って、PI3-キナーゼの印環細胞癌での活性化にもある種のチロシンリン酸化蛋白が関与していることが予想された。これらの予想をもとに印環細胞癌においてPI3-キナーゼと結合しているチロシンリン酸化蛋白質の存在を調べたところ多くの印環細胞癌で約200kdのチロシンリン酸化蛋白質(p200)がPI3-キナーゼと結合していることが明らかとなった。また細胞分画を行ったところp200は細胞膜画分に分画される事がわかった。さらにp200と結合しているPI3-キナーゼの比活性は、結合していないPI3-キナーゼの比活性と比べて3倍程度の上昇が認められた。これらの実験事実から印環細胞癌でPI3-キナーゼはp200と結合することで活性化を受けていることが明らかになった。そこで、印環細胞癌の一つNUGC4細胞の細胞抽出液からPI3-キナーゼのSH2領域を結合させたカラムを用いてp200の精製を行い、これをマススペクトルにより解析し、p200がEGF-レセプターファミリーの一つでニューレグリンのレセプターであるerbB3であることが明らかにした。

 続いて印環細胞癌においてPI3-キナーゼの下流因子の活性化レベルを測定した。PI3-キナーゼの下流には、protein kinase Bやストレス応答性のMAPキナーゼであるp38-MAPキナーゼ、JNKなどが知られている。このうち、p38-MAPキナーゼが印環細胞癌において有為に活性化されていた。最近、p38-MAPキナーゼはアクチン細胞骨格の再構築に重要な働きをしているという報告がなされ、この分子が印環細胞癌における形態形成の主たる要因となっている可能性が考えられる。

 以上の実験により、PI3-キナーゼ活性の上昇が高分化型腺癌を印環細胞癌様に形態変化させることを示した。また実際の印環細胞癌由来の胃癌細胞株で恒常的にリン酸化されているerbB3がPI3-キナーゼを活性化させていること、またp38-MAPキナーゼが印環細胞癌の形成に関与している可能性を示した。

審査要旨

 本論文は、ホスファチジルイノシトール3-キナーゼ(PI3キナーゼ)の細胞内での役割について解析したもので5章からなる。PI3キナーゼはイノシトールリン脂質のD3位をリン酸化する酵素で真核生物では高度に保存されている。この分子は、分化や増殖など正常な細胞の機能に関与しているばかりでなく、ある種の動物では細胞の癌化へ関ることも知られている。本研究ではPI3キナーゼが神経突起の伸長に果たす役割を解析すると同時にこの分子が人癌の発症、進展に果たす役割を解析している。

 第一章ではPI3キナーゼ遺伝子の発見から、最近の報告に至るまで、本実験の背景となっている研究の歴史を記している。PI3キナーゼの活性化メカニズム、その下流分子、この分子が関与していると考えられている生命現象について概説するとともに、従来のPI3キナーゼの機能解析の手法に比して活性型PI3キナーゼを用いることの有用性とその意義について言及している。さらに、本研究で用いた遺伝子の発現誘導システム(Adex-system)の発現メカニズムおよびこのシステムを本研究で用いるに至った動機を述べている。

 第二章では、ラット副腎由来PC12細胞の神経突起伸長におけるPI3キナーゼの役割を解析した研究結果について述べている。まず、PC12細胞において活性型PI3キナーゼの発現を誘導できる系を確立するとともに、活性型PI3キナーゼの発現およびPI3キナーゼ産物の細胞内レベルの上昇が、突起の伸長を誘導できることを示した。次に細胞骨格蛋白質の免疫染色実験がらPI3キナーゼが神経突起の伸長において、微小管の重合を促進していることを示し、また下流分子の中でJNKが活性化されていることを明らかにした。これらの結果と、神経突起での微小管細胞骨格の重要性をなどを考え合わせ、PI3キナーゼの神経細胞の分化における重要性を示した事を述べている。

 第三章では、活性型PI3キナーゼを消化管由来高分化型腺癌HCC2998細胞およびMKN45細胞に導入しPI3キナーゼ活性の癌の性質に及ぼす影響を分析している。まず活性型PI3キナーゼの発現により細胞間および細胞基質間接着が破綻し浮遊増殖することを明らかにし、また細胞内に粘液を含む空包の蓄積が起こることを示した。これらの表現型からPI3キナーゼが細胞内のゴルジ間の輸送や糸細胞間接着に関与していることを明らかにした。またヌードマウス移植実験の結果からPI3キナーゼ活性の上昇が、高分化型腺癌の形態をより悪性の癌である低分化型腺癌様に変化させること、PI3キナーゼの活性化が癌細胞の浸潤性を増強させることなどを示した。さらに、様々な胃癌細胞株を用いた実験結果からPI3キナーゼの活性化が、浸潤性、転移性などが高い低分化型腺癌細胞株でのみ検出されることを明らかにし、この活性化がPI3キナーゼと約200kDのチロシンリン酸化蛋白との結合に由来するものであることを明らかにした。続いてチロシンリン酸化蛋白質の性質の検討をおこない、この蛋白質が膜蛋白でありPI3キナーゼの比活性の上昇を引き起こすものであることを示した。さらにこのチロシンリン酸化蛋白質の精製を行いこの蛋白質がレセプターチロシンキナーゼの一つErbB3でることを明らかにした。これらの研究結果から、低分化型腺癌においてPI3キナーゼがErbB3によって活性化を受け、その悪性な性質に関与している可能性を示した。このように、本章ではPI3キナーゼ活性と癌の悪性度に相関がある事を2つの側面から証明し、この分子が癌の発症というよりも癌の進展に深く関っている可能性を述べている。

 第四章では、第2章と第3章の研究結果に関して、他のグループの研究報告をふまえ総合的に討論を行っている。前半ではPC12細胞の突起伸長においてPI3キナーゼの下流分子の中でどの分子がJNKを活性化しうるものか分析を行っている。後半では、本研究では解明に至らなかった低分化型腺癌におけるErbB3のチロシシリン酸化のメカニズムを考察している。また最後にAdex-systemを用いることで従来導入困難とされてきた遺伝子の導入に成功した事に基づき、このシステムの有用性、応用性を述べている。

 第五章では、本実験で用いた実験材料の入手先、および実験方法について記述している。

 第六章では、本実験で参考にした文献のリストを付している。

 以上、本論文は細胞内シグナル伝達因子PI3キナーゼの神経細胞の分化における役割を解明するとともに、この分子の癌細胞での役割に新しい知見を与えたもので、臨床治療への応用性も高く、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文に値するものと判断した。

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