本論文は、ホスファチジルイノシトール3-キナーゼ(PI3キナーゼ)の細胞内での役割について解析したもので5章からなる。PI3キナーゼはイノシトールリン脂質のD3位をリン酸化する酵素で真核生物では高度に保存されている。この分子は、分化や増殖など正常な細胞の機能に関与しているばかりでなく、ある種の動物では細胞の癌化へ関ることも知られている。本研究ではPI3キナーゼが神経突起の伸長に果たす役割を解析すると同時にこの分子が人癌の発症、進展に果たす役割を解析している。 第一章ではPI3キナーゼ遺伝子の発見から、最近の報告に至るまで、本実験の背景となっている研究の歴史を記している。PI3キナーゼの活性化メカニズム、その下流分子、この分子が関与していると考えられている生命現象について概説するとともに、従来のPI3キナーゼの機能解析の手法に比して活性型PI3キナーゼを用いることの有用性とその意義について言及している。さらに、本研究で用いた遺伝子の発現誘導システム(Adex-system)の発現メカニズムおよびこのシステムを本研究で用いるに至った動機を述べている。 第二章では、ラット副腎由来PC12細胞の神経突起伸長におけるPI3キナーゼの役割を解析した研究結果について述べている。まず、PC12細胞において活性型PI3キナーゼの発現を誘導できる系を確立するとともに、活性型PI3キナーゼの発現およびPI3キナーゼ産物の細胞内レベルの上昇が、突起の伸長を誘導できることを示した。次に細胞骨格蛋白質の免疫染色実験がらPI3キナーゼが神経突起の伸長において、微小管の重合を促進していることを示し、また下流分子の中でJNKが活性化されていることを明らかにした。これらの結果と、神経突起での微小管細胞骨格の重要性をなどを考え合わせ、PI3キナーゼの神経細胞の分化における重要性を示した事を述べている。 第三章では、活性型PI3キナーゼを消化管由来高分化型腺癌HCC2998細胞およびMKN45細胞に導入しPI3キナーゼ活性の癌の性質に及ぼす影響を分析している。まず活性型PI3キナーゼの発現により細胞間および細胞基質間接着が破綻し浮遊増殖することを明らかにし、また細胞内に粘液を含む空包の蓄積が起こることを示した。これらの表現型からPI3キナーゼが細胞内のゴルジ間の輸送や糸細胞間接着に関与していることを明らかにした。またヌードマウス移植実験の結果からPI3キナーゼ活性の上昇が、高分化型腺癌の形態をより悪性の癌である低分化型腺癌様に変化させること、PI3キナーゼの活性化が癌細胞の浸潤性を増強させることなどを示した。さらに、様々な胃癌細胞株を用いた実験結果からPI3キナーゼの活性化が、浸潤性、転移性などが高い低分化型腺癌細胞株でのみ検出されることを明らかにし、この活性化がPI3キナーゼと約200kDのチロシンリン酸化蛋白との結合に由来するものであることを明らかにした。続いてチロシンリン酸化蛋白質の性質の検討をおこない、この蛋白質が膜蛋白でありPI3キナーゼの比活性の上昇を引き起こすものであることを示した。さらにこのチロシンリン酸化蛋白質の精製を行いこの蛋白質がレセプターチロシンキナーゼの一つErbB3でることを明らかにした。これらの研究結果から、低分化型腺癌においてPI3キナーゼがErbB3によって活性化を受け、その悪性な性質に関与している可能性を示した。このように、本章ではPI3キナーゼ活性と癌の悪性度に相関がある事を2つの側面から証明し、この分子が癌の発症というよりも癌の進展に深く関っている可能性を述べている。 第四章では、第2章と第3章の研究結果に関して、他のグループの研究報告をふまえ総合的に討論を行っている。前半ではPC12細胞の突起伸長においてPI3キナーゼの下流分子の中でどの分子がJNKを活性化しうるものか分析を行っている。後半では、本研究では解明に至らなかった低分化型腺癌におけるErbB3のチロシシリン酸化のメカニズムを考察している。また最後にAdex-systemを用いることで従来導入困難とされてきた遺伝子の導入に成功した事に基づき、このシステムの有用性、応用性を述べている。 第五章では、本実験で用いた実験材料の入手先、および実験方法について記述している。 第六章では、本実験で参考にした文献のリストを付している。 以上、本論文は細胞内シグナル伝達因子PI3キナーゼの神経細胞の分化における役割を解明するとともに、この分子の癌細胞での役割に新しい知見を与えたもので、臨床治療への応用性も高く、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文に値するものと判断した。 |