現在、森林における生物多様性が世界的に注目されており、森林の取り扱い方が生物多様性へ及ぼす影響についても高い関心が持たれている。生物の多様性の基礎には、種内の幅広い遺伝的多様性の存在があり、それは、環境の変化や病虫害等に適応して、種あるいは個体が生き残るための表現型変異の背景として極めて重要である。特に、木本植物は森林生態系の要に位置するため、その遺伝的多様性は森林生態系の維持そのものにとって特別な意味を持っている。 人工林は、人為によって成立し不断の施業が必要とはいえ、独特の生態系を形作っており、その安定的な維持のためには人工林を構成する個体群の遺伝的多様性が不可欠である。すなわち、遺伝的に多様な人工林は、環境適応性が高く各種の被害に強い森林となり得る潜在的な可能性を持ち、安定した森林経営の基盤を提供すると考えられる。また、そのような人工林は、将来世代の育種に必要な遺伝子の供給源としても大きな価値がある。一方、多数の作物に見られるように栽培化は遺伝的多様性の著しい喪失を引き起こすが、人工林造成による木本植物種の遺伝的多様性の減少についてはほとんど研究されておらず、実態は明らかでない。 そこで、本研究では、長い造林と育種の歴史を持ち、日本では最も重要な樹種の1つであるヒノキ(Chamaecyparis obtusa)を対象に、人工林造成過程における集団の遺伝的変化について検討した。すなわち、採種園の育成から、採種、苗木育成、造林などの各段階ごとの遺伝的多様性と遺伝構造の変化を、アロザイム及びRAPDマーカーを用い時系列的に調べ、人工林造成過程におけるさまざまな施業がその遺伝的多様性に及ぼす影響について、集団遺伝学の立場から考察した。また、その結果に基づいて、遺伝的多様性の高い人工林の造成に資する、種子採種段階から森林の育成段階に及ぶ遺伝的多様性維持のための具体的な手法についても考察した。 まず、秩父地域の天然林と人工林それぞれ5集団についてアロザイムの変異を調査し、人工林と天然林の遺伝的多様性と遺伝構造を比較した。その結果、遺伝的多様性のうち、集団内に保有される部分については、天然林と人工林の間に差が見られなかったが、集団間に保有される部分については人工林より天然林で多様性が高いことを明らかにした。これは人工林分間では天然林集団間に比べ、より少ない遺伝的変異しか保有していないことを示している。また、人工林では天然林と比べて、集団内に存在するヘテロ接合体の割合が高く、人工林の造成過程において何らかの選択によりホモ接合体が減少している可能性が示された。 次に、苗木の繁殖方法の違いが人工林の遺伝的多様性に与える影響を調べるために、単一の母樹林に由来する3つの人工林、すなわち、実生母樹林、当該母樹林から採種した種子由来の実生林分、その実生林分からランダムに選んだ個体から複数の挿し木苗を養成して造成した挿し木林分についてアロザイムの変異を調べた。その結果、母樹林からの種子により人工林を造成した場合、その実生林分には母樹林の保有していた遺伝的多様性の大部分は伝えられたが、特定の遺伝子座においては特定の母樹に偏った採種が行われたことに起因すると思われる、母樹林からの偏りが見られた。すなわち、母樹林の遺伝的多様性を減少させず次世代林分に伝えるためには、特定母樹に偏らない採種が必要と結論される。一方、実生人工林から無性繁殖で造成した挿し木林分は母株となった実生人工林より、遺伝的多様性が低くなった。挿し木林分内にはアロザイムの遺伝子型から同一クローンと推定される複数の個体が存在したが、そのような個体を同一の個体と見なし遺伝的多様性を求めると、その値はもとの実生林分とほぼ同程度を示した。すなわち、挿し木林分の遺伝的多様性の減少は同じクローンに属する複数の個体が林分に存在しているために起こる見かけ上の減少であることを明らかにした。したがって、十分に多くの個体から採穂することにより、挿し木繁殖でも一定の遺伝的多様性を維持した人工林の造成が可能であると結論された。 さらに、精英樹採種園産の種子による人工林造成過程のさまざまな段階において集団のアロザイム変異を調べることによって、人工林の遺伝的多様性と遺伝構造の形成メカニズムを解明した。まず、当該採種園のクローン構成に由来する遺伝的変異は、通常の人工林や天然林に比べ非常に低いことを明らかにした。次に、採種園における結実の豊凶が収穫したシードロットの遺伝的多様性に及ぼす影響について、5年間の種子及び球果生産量の分析により明らかにした。各シードロットに対するクローンごとの種子及び球果生産量の寄与率は均等ではなく、またその寄与率は収穫量に大きく影響される。相関分析の結果ヒノキクローンにおける明かな隔年結果性が認められ、さらに広義の遺伝率の分析結果から、クローンの種子生産性が強い遺伝的支配を受けていることが示された。 一方、シードロットにおけるクローンごとの寄与率の違いが、遺伝的多様性へどのような影響与えるかを調べるために、異なる寄与率を想定した7種類の擬似シードロットをクローン別に採取した種子の配合割合を変えることで作り、それから育成した一年生の苗木集団の遺伝的多様性を調べた。その結果、擬似シードロットによっては特定の遺伝子座において遺伝子頻度に有意な偏りが見られるものが存在した。また、ヘテロ遺伝子座を多く含むクローンの種子を高い割合で配合した擬似シードロットとクローンごとの配合割合を均等にした擬似シードロットからは、より高い遺伝的多様性を有する苗木集団が得られた。さらに、各クローンのそれぞれの遺伝子座におけるヘテロ性とシードロットに配合される種子の割合によって、平均ヘテロ接合体率の期待値がどのように変化するかシミュレートしたところ、擬似シードロットから育成された苗木集団における遺伝的多様性の特徴を再現することができた。この結果から、各クローンの種子の配合割合をうまく調節することによって、採種園産の種子からより遺伝的多様性の高い苗木を育てることが可能であり、これまでも言われてきたように採種園構成クローンの均等な寄与が遺伝的多様性維持のために最も有効であることを実験的、理論的に確認した。 また、育苗過程における遺伝的多様性の変動を明らかにするため、種子及び1、2、3年生苗木集団についてアロザイムの変異を調べた。その結果、集団全体としては育苗過程を通じて遺伝子構成と遺伝的多様性には変動が見られないが、一部には選苗等によって遺伝子頻度が変化する遺伝子座も見出された。一方、遺伝子型レベルでは、種子段階ではホモ接合体の割合が過剰であり、苗木の段階では逆にヘテロ接合体の割合が過剰となって、育苗過程において自殖に起因すると考えられるホモ個体が先んじて消滅している傾向が認められた。 さらに、幼齢林における間伐が林分の遺伝的多様性に及ぼす影響を、12年生の人工林のアロザイム変異を間伐前後で比較することにより明かにした。対立遺伝子頻度及び遺伝的多様性は間伐により変わらなかったが、ホモ接合体の個体は間伐対象として選ばれやすく、結果として、間伐後集団のヘテロ接合体の割合が増えた。 以上の結果から、人工林造成過程において集団全体としての遺伝的多様性はおおむね維持されるが、遺伝子型レベルで見ると育苗段階での選苗や幼齢林での間伐などにより集団内のヘテロ個体の割合が増加する現象が顕著であることを明らかにした。このことは、種子生産段階で多く生ずる自殖種子に由来する苗木が、育苗、育林の過程で選択的に消滅することを示しており、人工林の見かけの遺伝的多様性を高く保ち、安定した森林形成に寄与しているものと考えられる。 最後に、より多くの遺伝マーカーでの遺伝的多様性推定を可能にするため、新たなRAPDマーカーを開発した。すなわち、6クローン間のダイアレルクロスに基づく全兄弟家系を用いて、7プライマーから増幅される14の優性遺伝するRAPDの多型を見出した。これらのRAPDマーカーを使って、上の実験で用いたのと同じ1、2、3年生の苗木から抽出したDNAを鋳型にして遺伝的多様性の変動を調べたところ、育苗過程全般にわたって、苗木集団のRAPD表現型の構成と多様性が変わっていないことを明らかにした。また、表現型頻度を直接使い、ハーデイー・ワインベルグ非平衡及び平衡を仮定したときの固定係数から推定した対立遺伝子頻度により遺伝的多様性のパラメータを計算した結果、これらのパラメータの値がアロザイムの分析結果とよく一致し、遺伝的多様性評価にRAPDマーカーが有効であることを示した。 以上、本論文では主としてアロザイム分析の手法を用いて、ヒノキの人工林造成過程のさまざまな段階において、種子及び苗木の遺伝的多様性の変動を追跡し、人工林の遺伝的多様性の実態を明らかにした。この結果から、これまでいわれてきたきた種子採取や採種園造成に係る様々な注意点及び健全な森林作りに必要とされてきた選苗や間伐などの諸作業が、人工林の遺伝的多様性維持のために欠くことができないものであることを、具体的なデータにより示すことができた。さらに、新たに開発したRAPDマーカーを用いることにより、より詳細な遺伝的多様性の検討を可能にした。すなわち、これらの成果に立脚して、適切な種苗管理を実行することでより多様性の高い人工林の造成に資することが可能となった。 |