学位論文要旨



No 115267
著者(漢字) 飯田,益生
著者(英字)
著者(カナ) イイダ,マスオ
標題(和) 閉鎖性内湾におけるカレイ科魚類の初期生活史に関する研究
標題(洋)
報告番号 115267
報告番号 甲15267
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2112号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 佐野,光彦
内容要旨

 閉鎖性内湾は魚類の重要な成育場の一つである.その物理化学的環境や生物生産構造は開放的な水域とは異なり,この違いは魚類の初期減耗過程に大きく影響していると予想される.本研究では,浜名湖におけるマコガレイとイシガレイの初期生活史を明らかにすることによって,閉鎖性内湾を初期生活の場とする両種の初期減耗特性を考察することを目的とした.本論文は調査水域と調査方法の概要を述べた後,浜名湖におけるマコガレイとイシガレイの移動様式を明らかにし,両種がその生息場所を浜名湖に大きく依存し,また浜名湖の閉鎖性に起因する環境に大きく影響を受けていることを明らかにした.次に,浜名湖に依存する両種の生残と成長の特徴を記述し,その特徴を食性と被食の観点から説明することを試みた.そして最後に,浜名湖の閉鎖性に起因する環境が稚魚の行動に与える影響を室内実験により検討した.

1)調査水域と調査方法

 浜名湖は面積(69km2)に対して極めて狭い湖口(幅200m)により外海(遠州灘)と接続する閉鎖性の強い内湾である.湖口に近い湖南部は,外海水の影響の大きい浅い砂質底であるのに対して,湖北部は比較的水深が深く,その大部分が5m以深の泥底で占められている.湖北部は水温の年較差が約25℃あり,夏季に密度成層が形成されて底層が貧酸素化するなど水質の季節変動が大きい.

 マコガレイとイシガレイの卵・仔魚は1998〜1999年にマルチネット曳網により,稚魚は1996〜1999年に桁網曳網と小型定置網漁獲物調査により浜名湖全域で採集を行い,その採集密度の時空間的変化から両種の移動を明らかにした.また標本の一部は保存して耳石による日齢解析と消化管内容物解析に供した.

2)浜名湖におけるマコガレイとイシガレイの分布・移動特性

 マコガレイ仔魚は1〜3月,イシガレイ卵・仔魚は12〜3月に出現し,その分布の中心はいずれの発生・発育段階においても湖北部であった.マコガレイの卵は付着沈性卵であるため,今回の調査方法では採集することができなかった.卵あるいはふ化直後の前期仔魚の出現時期・場所から,マコガレイとイシガレイはともに12〜2月に湖北部で産卵し,その盛期は1月であると推測された.また,体長15mm以下の着底直後の稚魚は,両種ともに3月下旬から4月上旬にかけて集中的に出現した.その着底場所は,マコガレイが泥底と砂質底の両方,イシガレイが砂質底のみと異なるものの,両種の着底稚魚の分布の中心は仔魚と同様に湖北部であった.これらのことから,両種とも産卵は湖北部でおこなわれ,浮遊仔魚は発育に伴う大きな移動はせずに,そのまま湖北部に着底することが示唆された.このように産卵場と着底場が同じ水域であることは,接岸回遊をおこなう必要がなく,不適な水域への輪送の危険が小さいという点で卵・仔魚の生残に有利であると考えられる.

 分布密度の季節変化から着底後の稚魚の移動を推測すると,マコガレイはある期間を湖北部の泥底域で過ごした後に,5月から7月にかけて湖口よりの砂質底に移動し,さらに7〜9月に湖口方向へ移動した.一方,イシガレイは4月下旬から5月にかけて着底場である汀線付近から水深1m以深の砂質底へ分散するが,湖北部にとどまり,7〜9月に湖口方向へ移動した.マコガレイが泥底域から移出する5〜7月は,泥底域の底層の溶存酸素濃度(DO)が2〜3mg/l以下に低下する時期と一致し,両種が湖口方向へ移動する7〜9月は,湖内の水温が外海水と比較して著しく高くなる時期と一致しており,両種稚魚の移動には浜名湖の閉鎖性に起因する夏季のDO低下と水温の急激な上昇が関与していると推測された.

 夏季以降産卵までの移動は,今回の採集調査によって明らかにすることはできなかった.そこで,産卵親魚の生息環境履歴を復元する手法として耳石の安定同位体比(13C,18O)の夏帯・冬帯別の分析を試みた結果,マコガレイとイシガレイの親魚はともに夏季には高塩分,冬季には低塩分環境に生息している可能性が示唆された,以上の結果と過去の知見から,マコガレイとイシガレイは浜名湖の湖北部で産卵されて成育した後,夏季は湖外の浅海域(10m以浅)へ移出し,冬季は産卵のために湖内に移入するという,閉鎖性内湾(浜名湖)に大きく依存し,なおかつ極めて狭い水域で完結する生活史を持つと考えられた.

3)仔稚魚の生残と成長

 仔稚魚の耳石(礫石)を用いて日齢査定を行い,浜名湖におけるマコガレイとイシガレイの生残と成長の特徴について検討した.調査を行った4年間を通して,両種の着底稚魚のふ化日は2月中旬〜3月上旬に集中していた.これは2)で明らかにした産卵期の後期に相当し,産卵盛期に生まれた個体は着底稚魚としてはほとんど出現しなかった.産卵盛期生まれのマコガレイ仔魚は,少なくとも後期仔魚期までは採集されており,後期仔魚期以降に大きく減耗していることが示唆された.産卵期の後期に生まれた個体が着底稚魚の大部分を占めることは,浜名湖では普遍的な現象としてみられ,浜名湖におけるマコガレイとイシガレイの着底量は,産卵期の後期の産卵量とそれに由来する卵仔魚の生残率により決まっていると考えられた.

 日齢-体長関係から推定された着底後の稚魚の成長速度は,両種ともにすべての年で0.5mm・d-1以上であり,特に1999年のマコガレイは0.8mm・d-1という高い成長速度を示した.成長速度には同一年内のふ化日による差はみられなかったが,年による差は認められた.これらの成長速度の差を稚魚密度や水温差によって説明することはできず,成長は餌料環境など他の要因によって制限されていると考えられた.

4)仔稚魚の食性と被食

 浜名湖における仔稚魚の速い成長には活発な摂餌が不可欠である.ここでは消化管内容物を調査し,仔稚魚の餌料環境と食性の特徴を考察した.両種仔稚魚の発育段階別の空胃率は卵黄期仔魚と変態期仔魚以外は仔魚で0-19%,稚魚で0-13%と低く,飢餓による減耗の可能性は小さいと考えられた.仔魚期には,いずれの発育段階においてもカイアシ類が主要な餌生物となっており,利用されるカイアシ類はカレイの成長に伴って卵・ノープリウス幼生からコペポダイト・成体へと変化した.また.カイアシ類は着底直後の稚魚の餌生物としても高い頻度で出現した.このような餌生物のカイアシ類への偏りは,冬季においてもカイアシ類が高い密度を維持する浜名湖の特性に依存したものと考えられる.

 稚魚期には,多毛類,二枚貝類,ヨコエビ類,カイアシ類が主要な餌生物となっていた.定点によって餌生物組成が異なっていたことから,特定の餌生物に対する選択性は弱く,底上に生息する生物や底上に突出したベントスの一部(多毛類の副触手,二枚貝類の水管)のうち利用しやすいものを摂餌していたと考えられる.食性の特徴はマコガレイとイシガレイで類似しており,両種が同所的に出現する定点における餌生物組成には差がなかった.このようなデトリタス食者(多毛類,ヨコエビ類)や濾過食者(二枚貝類)などの内湾環境で優占する餌生物の利用と餌生物に対する選択性の弱さが,活発な摂餌を可能にし,速い成長に寄与していると考えられた.

 3)で明らかになった産卵盛期に生まれた個体が稚魚として出現しない現象の原因の一つとして,被食による減耗が考えられるため,シミコクラゲによる浮遊期仔魚の捕食とエビジャコによる着底期稚魚の捕食による減耗の可能性を検討した.シミコクラゲは産卵盛期に生まれた仔魚と同時期に同所的に高密度(>1000個体/m3)で出現したが,室内における攻撃実験の結果から,カレイ類後期仔魚を捕食する能力はないと判断された.また,カレイ類の捕食者になり得る体長30mm以上のエビジャコの春季の密度は0.05個体/m2未満と極めて低く,その捕食による減耗は小さいと考えられた.以上の結果に加えて浜名湖では魚食性魚類が少ないことから,マコガレイ・イシガレイ仔稚魚の被食による減耗は小さく,産卵盛期に生まれた個体の減耗は被食によるものではないと推測された.

5)閉鎖性内湾の環境特性と稚魚の行動

 2)で推測された閉鎖性内湾特有の環境(夏季のDO低下と水温上昇)と稚魚の移動との関係を明らかにするために,稚魚によるDOと水温に対する選好実験を行った.夏季の浜名湖の環境を想定した環境勾配をつけた水槽に天然0歳魚を収容した後,経時的に水槽内の分布と行動(潜砂,非潜砂,遊泳)の観察を行った.その結果,日中は潜砂している個体の割合が多く,高酸素濃度あるいは低水温に対する選好性が認められたのに対して,夜間は非潜砂・遊泳個体の割合が増加し,環境に対する選好性が認められなくなった.この傾向はマコガレイとイシガレイに共通していた.この結果は,両種稚魚の夏季の移動が湖北部の低酸素濃度・高水温環境からの忌遊によるものであることを示唆した.一方.夜間の遊泳時に選好性を持たないことは.低酸素濃度・高水温環境下へ分散して死亡する可能性を示唆した.

 本研究で明らかになった浜名湖のマコガレイとイシガレイの初期生活史は,外海域に産卵場を形成する仙台湾や若狭湾のマコガレイ・イシガレイと比較して,初期生活の場を閉鎖性内湾に大きく依存しているという点で特徴的である.こうした閉鎖性内湾への依存は,マコガレイとイシガレイの良好な餌料環境を背景とした速い成長を可能にし,また被食による減耗を低下させていた.一方で,夏季のDO低下や水温の急激な上昇という閉鎖性内湾特有の環境に大きく影響を受け,さらにこうした環境による減耗の可能性も示唆された.また,産卵盛期に生まれた個体が大きな減耗をするという浜名湖特有の現象もみられた.このように,閉鎖性内湾(浜名湖)はマコガレイとイシガレイの初期生活の場として有利な環境と不利な環境の両方を合わせ持ち,それらが両種の初期減耗過程を支配しているといえる.

審査要旨

 閉鎖性内湾は魚類の重要な成育場の一つであるが、独特の物理化学的環境や生物生産構造は魚類の初期減耗過程に大きく影響していると考えられる。本研究は、浜名湖における代表的な異体類であるマコガレイとイシガレイの初期生活史を様々な角度から明らかにし、両種の初期減耗特性と閉鎖性内湾の環境との関わりを考察したものである。

1)浜名湖の環境特性とマコガレイ、イシガレイの分布・移動特性

 浜名湖は南部の極めて狭い湖口により遠州灘と接続する閉鎖性内湾である。湖南部は外海水の影響の大きい浅い砂質底であるのに対して、湖北部は大部分が5m以深の泥底で水温の年較差が約25℃あり、夏季に底層が貧酸素化するなど水質の季節変動が大きい。

 卵・仔魚はマルチネットにより、稚魚は桁網と小型定置網漁獲物調査により浜名湖全域で採集を行い、分布密度の時空間的変化から両種の移動を明らかにした。

 マコガレイおよびイシガレイは湖北部で産卵し、盛期は1月と推測された。また、着底は、前者が泥底と砂質底の両方、後者が汀線付近の砂質底のみと異なるものの、分布の中心は仔魚と同様に湖北部であり、生残に有利であると考えられた。

 着底後は、マコガレイは5月から7月に湖口よりの砂質底に移動し、さらに湖口方向へ移動した。一方、イシガレイは水深1m以深に分散するが、やがて湖口方向へ移動した。マコガレイの泥底域からの移出は底層の貧酸素化時期と一致し、また両種が湖口方向へ移動する7〜9月は、湖内の水温が外海水と比較して著しく高くなる時期と一致していた。それ以降の移動は、耳石の安定同位体比の分析によって推定した結果、両種とも夏季は湖外浅海域へ移出し、冬季は産卵のために湖内に移入すると考えられた。

2)仔稚魚の生残と成長

 耳石(礫石)による日齢査定から、産卵盛期生まれの仔魚は後期仔魚期で減耗し、着底稚魚は産卵期後期生まれであることが明らかになり、両種の着底量は産卵期後期の産卵量と生残率により決まっていると考えられた。

 日齢-体長関係から推定した着底後の稚魚の成長速度は、両種ともに0.5mm・d-1以上であった。成長速度には年による差が認められ、これは稚魚密度や水温以外の餌料環境などによって制限されていると考えられた。

3)仔稚魚の食性と被食

 消化管内容物調査から、両種とも飢餓が減耗要因ではないと考えられ、また、餌生物は仔魚期から着底稚魚期までカイアシ類が中心で、成長に伴ってそれは卵・幼生・成体へと変化した。これらは、冬季もカイアシ類が高い密度を維持する浜名湖の特性に依存したものと考えられる。稚魚期も餌料の選択性は弱く、利用しやすいものを摂餌しており、速い成長の一因であると考えられた。産卵盛期に生まれた個体の減耗要因には被食が考えられるが、同所的に出現する動物による攻撃試験等から、その可能性は低いと考えられた。

4)閉鎖性内湾の環境特性と稚魚の行動

 閉鎖性内湾の夏季の環境をシュミレートして選好実験を行った結果、稚魚の夏季の移動が湖北部の貧酸素・高水温環境からの忌避によるものと考えられ、また夜間に貧酸素・高水温環境下へ分散して死亡する可能性が示唆された。

5)総合考察

 浜名潮のマコガレイとイシガレイの初期生活史は、外海域に産卵場を形成する他系群と比較して、閉鎖性内湾に大きく依存しているという点で特徴的である。すなわち、良好な餌料環境を背景とした速い成長を可能にし、また被食による減耗を低下させていた。一方で、夏季の貧酸素化や急激な水温上昇という特有の環境に影響を受けていた。このように、閉鎖性内湾(浜名湖)は両種の初期生活の場として有利と不利両方の環境を併せ持ち、それらが両種の初期減耗過程を支配しているといえる。

 以上、本論文は調査のみならず、室内実験や耳石の同位体比解析などから、閉鎖性内湾の環境特性と重要水産生物であるカレイ類の初期生活史との関わりを論じたものであり、フィールド科学の新しい展開を提示するとともに、基礎科学また応用科学上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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